<   2007年 12月 ( 27 )   > この月の画像一覧

     
    ここに掲載した「価値観の研究」(第一部)は、別のブログ「南原充士の芸術随想=越落の園」に発表したものを、読みやすくするために、順番を1番から50番まで並べなおしたものです。理屈っぽいので、読みにくいかもしれませんが、人間が生きていくうえで必ず突き当たる諸問題を、自分の経験を踏まえて少しづつ整理してみたものです。参考になれば幸いです。とくに、若い人に読んでもらいたいと願っています。

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            『 価値観の研究 』 
 

           

                        = 第 一 部 =

            
                                        
                                                                      H19.12    
    



   【 目 次 】

1.価値観の研究の目的
2.美醜について
3.宗教について
4.思想信条と詩
5.優先順位
6.決定権
7.科学と思想
8.価値観の競争
9.紛争の解決
10.価値観の形成
11.価値観の要素
12.性善説か性悪説か?
13.団塊の世代
14.立場
15.社会批判の視点
16.建前と本音
17.情報の洪水
18.タブー
19.情報の自動仕分け機能
20.戦死したティルマンの場合
21.野党の役割
22.発言の科学的解釈は可能か?
23.利害関係
24.同性愛者の問題
25.言葉と行動
26.憲法改正問題(その1)
27.憲法改正問題(その2)
28.人間関係(その1)(恋愛関係)
29.〃   (その2)(職場)
30.〃   (その3)(家庭)
31.〃   (その4)(学校)
32.〃   (その5)(劇団の場合)
33.〃   (その6)(地域社会)
34.〃   (その7)(相性)
35.〃   (その8)(コミュニケーション)
36.〃   (その9)(嘘も方便)
37.〃   (その10)(全体と部分)
38.〃   (その11)(人格形成)
39.〃   (その12)(三角関係)
40.〃   (その13)(グループ)
41.国家(その1)
42.国家(その2)
43.歴史
44.失言
45.誤解
46.科学と価値観
47.善意と悪意
48.正義
49.無意識
50.価値観の共存共栄に向けて




















1.価値観の研究の目的

科学の法則とはちがって、人間の生き方には客観的な基準はないような気がする。
人間の生き方は、結局、絶対的ではなく、相対的、経験的なものだと思う。
国家というものも歴史的に形成されてきた。法もまた便宜的なものだ。人工的なものだ。
宗教もそうだ。道徳もそうだ。常識もマナーも礼儀もみんなそうだ。
人間関係も。雇用関係も。お金も。冠婚葬祭も。言語も。習慣も。しきたりも。
生産も消費も。通信や情報も。生活様式も。
戦争のやり方も。ひとの殺し方も。病気への対処の仕方も。
数え切れないぐらい多くの項目があるだろう。
ほとんど、人間の長い歴史を通じて形成されてきた。
では、絶対ではないなら、無視してもいいだろうか。

 そんなことはない。
人間の知恵というものは尊重されるべきだろう。これはひとつの意見だが。
ただ、あらゆるものはそういう性格をもっていることを忘れないことがたいせつだと思う。
ほとんどの人間が戦争反対のはずだが、現実には戦争は世界各地で起こっている。
現実を見ることは不可欠だと思う。
社会科学も不完全とはいえ科学的なアプローチではある。
信頼できる部分は活用した方がいいと思う。
国際紛争の発生の仕組みや予防の方策、可能性。外交の役割。
経済や貧困と紛争とのかかわり。国際協力の役割。人道主義の位置づけ。
共存共栄もひとつの価値観だ。
拉致問題はなかなか解決の方向性が見えてこない。
その背後にある国家としての立場や利害や価値観を冷静に見定める必要があるだろう。
どんなに人工的なものだとはいえ、今現在のわれわれの安全にかかわることだ。
絶対ではない価値観が、国レベル、地域レベル、職場や、学校レベル、個人レベルなどいろいろなレベルで大きな影響力を持つ。
だとすると、価値観をしっかりと確立しておくことは生き延びるために非常に重要なことだ。
人間社会ってふしぎだね。
たまたま作られた価値観が絶対的な影響力を及ぼすのだから。
つまり、言論レベルではなく、行動、物理的な力、暴力のレベルにまで行くのだから。
ふとそんなことを考えてしまいました。


2.美醜について

美とはなにか?
永遠の課題かもしれない。
「言語にとって美とはなにか?」と問い続けてきた人も多いと思う。

ところで、今回は、あるがままの美しさについてとりあげたい。
つまり、人工の美に対して、自然のままの美というものがあるのかどうかということである。

今自然が美しいといわれるときその自然の多くは人工の自然であることが多いような気がする。
もちろん、前人未到の天然自然などというものもあり、ジャングルの美、砂漠の美、秘境の美など、
手を加えていない自然の美もあることは否定できない。

では、身近な話題として、人種について美醜はあるだろうか?
白人と黒人とアジア人とか・・・。
同じアジア人でも美人と不美人がいる。
個別に比較すれば美醜を語りやすいかもしれない。

では、人種まるごとでとらえたらどうだろう?
差別問題などがからんで議論することは困難かもしれない。

では、動物についてはどうか?
犬と猫。猿といのしし。鰐といたち。
うぐいすとすずめ。孔雀とにわとり。
金魚とフナ。サメとまんぼう。

植物についてはどうか?
桜とつつじ。
菊とコスモス。
松と杉。

品種改良とかもなされているので、
どこまでが天然かは判断がむずかしいが、
とにかくおびただしい生物種について観察し、
美醜を論じだしたら切りがない。

しかし、それ自体が美しいかどうかということと、
美しいものを目指して、人工の努力をすることは、
相互に作用しあって、美を高めるように思う。

たとえば、うまれつき美人だといわれる女性がいるとしよう。
彼女が、食生活に注意し、運動を楽しみ、教養を身につけ、
化粧やファッションのセンスを身に着けたなら、鬼に金棒だろう。

・・・では、言語に戻ってみよう。

詩は言語の美をもとめているのだろうか?
それともほかのなにかを求めているのだろうか?

美醜を含めた全体とか?美醜を超えた存在とか?

なかなか答えが見つからない難問だと思うが・・・。
どうだろうか?
















3.宗教について

科学の発達はめざましい。特に、最近の発達のスピードは驚異的だ。
それでも、わからないことは無限にあり、まじめに考えるとだれでも狂気から逃れられそうもない。
 だから、深く考えすぎないようにするか、とりあえず、わかったところを踏み台にして
次の謎解きに挑戦するか、最新の研究成果を入手することで、一応の満足を得るというふうにすることが多いのだと思う。

 科学はわかるわからないがかなり客観的に判断できるからまだ扱いやすい。
でも、おそろしく複雑な宇宙というものがなぜ存在しているのかという問いにはかんたんに答えられないだろう。科学も狂気をはらまざるをえない。

 人間の精神生活は始末に悪い。
死という不可避の結末から逃れはない。いつ訪れるかもわからない。
不安定だ。不安だ。はかない。おそろしい。どうせ死ぬならなにをしても無駄か?死ぬまでは充実した生をまっとうしたい。いろいろな価値観がありうる。

 歴史をふりかえれば、宗教と無縁の民族はなかったようだ。
なんらかの信仰が生まれてきた。
精神的なよりどころがなければ人は生きていけないのだろうか?
道徳というものもある。
イデオロギーもある。
社会科学という学問分野もある。

 アメリカという最強の国家も、キリスト教の影響力は強い。
ローマ法王の影響力も絶大なものがある。
イスラム教。仏教。ヒンズー教。など。
多くの宗教がある。それぞれひとびとの社会生活に深くかかわっている。
宗教同士が争いのもとになるという不幸な事実も多く見られる。

 なにが正しいのか。正義とは?善悪とは?
好き嫌い?美醜?喜怒哀楽。快不快。生老病死。運命。
問いは無限。答えは相対的。

 価値観は絶対的ではないが、これまで生きてきた人類の歴史の蓄積はある。
経験的な価値だ。
生命の安全。表現の自由。基本的人権の保障。
おたがいにいやなことはしないようにしよう!
根拠なく負担や被害や罰を受けないようにしよう。など。
共存共栄のための工夫が作り出されてきた。

 それでも争いは起きる。戦争も発生する。災害や病気や事故も起きる。殺人や強盗や詐欺恐喝も起きる。
 見渡せば、世界中が悪の見本市だ。
だが、よく見れば、愛し合える人間もいる。信頼しあえる友人もいる。花も鳥も風も月もある。
 おいしいワインや料理もある。音楽や美術や文学。ファッション。温泉。ゴルフ。つり。パソコン。ケイタイ。交通機関。テレビや映画。マイホーム。マイカー。家族。隣人。
好ましい存在も無数にある。
悪とともに善の見本市でもある。

 そこに救いがあり、知恵もある。
生きるヒントがある。

 ところで、宗教の役割とはなんだろう?信教の自由。
熱心に神に祈る人を冒涜してはいけない。
だが、神を信じきれないひともいる。
宇宙を創った神のような存在までは否定できないひとが多いと思うが、
それはいわゆる宗教と呼ばれるものの枠を超えた存在のような気がする。
今の日本人の多くが、なんらかの宗教の熱心な信徒ではないような気がする。
あるいは、自覚していないだけで、無意識になんらかの「信仰」を持っていると見るべきだろうか?

 かりに、相対的に宗教心が薄い国民が多いとしよう。
そのことにはプラス、マイナス両面の効果がありうる。
プラス面があるとしたら、寛容性だろう。
マイナス面があるとしたら、精神的不安定性かもしれない。

 では、詩と宗教とはどういう関係にあるだろう?

 詩とイデオロギー?

 詩と価値観?

 詩と科学?

 詩は、精神の自由を確保するところに大きな価値があるとしたら、
あらゆることから自由になることに価値があるかもしれない。
だが、下手をすると、狂気の沙汰に陥るリスクもあるかもしれない。

表現は常に「リスク」を伴うということに通じるのかもしれない。

答えは、簡単に出ないだろう。

ミケランジェロの最後の審判もダビンチの最後の晩餐も宗教画だし、
バッハの受難曲もモーツァルトのレクイエムもミサ曲だ。
日本の仏像も仏教文化だ。

これまでの偉大な芸術作品は、多くが宗教と密接な関連があったことは否定できない。

では、これからの芸術はどうか?

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by nambara14 | 2007-12-30 19:15 | 論考「価値観の研究」第一部 | Comments(2)




4.思想信条と詩

難しい問いかけをしたついでに、芸術と思想信条との関係についても考えてみたい。
 話をわかりやすくするために、たとえば、戦争について。
 そのときどきの社会環境によってどういう立場から書いたほうが書きやすいとか発表しやすいとかが決まる。だから、絶対的な基準は立てにくいだろう。
 その国の発展段階や政治情勢、経済状況、社会構造、宗教事情等さまざまな要素がからまりあって現実の状況はあるので、戦争反対、戦争賛成、中立とかの立場も相対的になりやすい。今の日本においてなら、戦争反対が当然だが、戦時中だったら、事情はまったくちがっただろう。

 ある立場をもとに詩を書くことはどうか?
 それは自由だと思う。
 立場が違う人の書いた詩をどう評価するか?
 これはむずかしい。
 戦争反対のひとが戦争賛成のひとの書いた詩を読んで感動することはありえないと思うから。
 では、立場が違えば、詩もまた違ってきて、相容れないということになるのか?
 思想信条を超えてひとりの人間として喜怒哀楽を共有することはできないのか?
 宗教も思想も信条も人間が生み出してきた文化だ。
それらの違いは大きいが、その違いを超越して共存共栄する方法はないのか?
 詩もまた、そういう次元で書き、読むことは不可能なのか?
 この問いにもいろいろな答えがありうる。
 統一的な答えが出るとは思えない。
 だが、こういう問いが繰り返しなされてきた事実は重い。
 今現在の日本においてさえ、以上のような問いは各個人に重くのしかかり、
政治状況と類似の詩的状況が見られると思う。
 歴史認識の統一が困難なように
詩の評価もまたばらばらでしかありえないのだろうか?
 相容れないグループがそれぞれのグループ内で詩作を続けていく以外に道はないのだろうか?





5.優先順位

さて、世の中には、さまざまな国家があり、国民がいて、利害関係も複雑である。
ひとつの国においても複雑さはかわらない。
世の中には、誠意と善と愛と献身と正義と勤勉と自由と無私と平和を標榜するひとばかりいるのである。
 実に聖人君子のかたまりなのである。
しかし、それにもかかわらず、争いは頻発し、利害は衝突する。現実は、不正と悪と憎悪と自己中と邪悪と怠慢と拘束と私欲と戦争に満ち満ちているのである。
このパラドックスはどうしたことか!
ここに、人間社会の本質があり、悲しみがある。キリストならずとも、人間は罪深く生まれてくるにちがいないのである。
科学的には証明できないが、歴史的にはかなり説得力のある見方だろう。
つまり、人間社会は科学と思想のアマルガムだということだ。
いま核開発のことが国際的な焦点になっている。
核拡散防止条約というユニークな条約があって、日本はそれに加盟している。
それに反対するイランや北朝鮮は、「悪の枢軸」というレッテルを貼られている。
これは「力は正義である」という論理がまかりとおることを示している。
科学的には矛盾していると思うが、歴史的な視点からは、肯定されうるわけである。
政治は、力関係の側面を強く持つ。自由・平等といった絶対的な価値観もより大きな利害関係によって束縛されることがあるのは、歴史が示している。
つまり、人類はあるべき理念や向かうべき方向があって、それに向かって着実に進んでいるはずだと信じることができるかどうかだ。相変わらず、科学的な論証は困難だ。
ひょっとして、「科学と思想」をひっくるめた「科学」が成り立つのか?それができたら、革命的な進歩といえるだろう。多分、「社会科学」といわれている学問が、真に科学的なレベルに達すればそれが達成されたことになるのだろう。

 ところで、世の中には、さまざまな役割が求められ、多くのひとびとが助け合って生きている。
政治家、経営者、勤め人、芸術家、スポーツマン、医者や看護師、マスコミ、科学者、IT,通信、行政、
警察、司法、軍人、交通、観光、飲食、娯楽、その他多くの業界や職業がある。
分業という意味ではそれらに貴賎や優先順位はないともいえるが、個人レベルでは、適性や好みや人生の
目標その他の事情によって、どんな職業を選択するかの優先順位を決めることは重要だ。
そして、住む家、家具や電気製品、PCやケイタイなども選択しなければならない。
人生の伴侶や恋人や友人知人もある意味では選択しなければならない。
限られた収入の使い方も優先順位をきめなければならない。
限られた時間の使い方も同様だ。
選挙があれば、だれに投票するか決めなければならない。
国際政治や国際経済にも歴史や文化にも目を配らなければならない。
国際交流も重要なことだ。
税金のことや社会保険・介護保険、年金も重要なことだ。
出産や育児や教育も。
環境問題も。
さまざまな楽しみや娯楽も。
遺伝子工学や量子力学も。宇宙の構造も。
先端医療サービスも。
感染症の予防も。
無数にある問題や事象や選択肢。
個人はそれぞれの判断と責任において、
ひとつひとつ決断し選択しなければならない。
複雑怪奇な現実にあって、限られた情報と判断力を前提にしながら、
自分としては最善と思われる選択をしていくべきだろう。
そこに優先順位の重要性がある。
とりあえず優先順位をつけるというところから、
ひとは出発せざるをえないし、そのつけ方が、望ましい次のステップにいけるかどうかに
おおきな影響を与えるだろう。














6.決定権

さて、問いかけは続く。
きょうは、さまざまな優先順位の決定の重要性とそれに基づく選択の話の次のステップに移る前に、
だれが決定権をもっているかが重要な要素であることを取り上げたい。
個人的な事柄であれば、当該個人に決定権があることはいうまでもない。精神的な問題をかかえている者が補佐人を必要とするのは別問題として。
たとえば、総理大臣は、多くの決定権をもっている。
野党から、マスコミから、あるいは、多くの反対者から、批判がなされ、反対意見が述べられても、最後に決定するのは総理であるという案件がきわめてたくさんある。
早い話が、閣僚人事だ。だれを大臣にするかどうかは総理が決める。天皇の国事行為はそれを認証する役割といってよい。
閣議案件でも総理が反対すれば通らない。法律・予算・税制多くの重要な国政にかかわる案件は基本的には総理大臣のオーケーが必要である。
民主的なルールが憲法、法律によって決められている。過半数とか、3分の2、4分の3以上の多数とかがそれだ。
手続きは重要だ。決定のための手続きがはっきりしていないと賛成反対がわかれる現実においてなにごとも決まらなくなるから。

 さて、話を詩に当てはめてみよう。
詩集に対してさまざまな賞が与えられる。
その場合、選考委員が何名か選ばれて、かれらが受賞者を決める。何百何千という読者のアンケートで決まるわけではない。それでもそういう手続きで選ぶことになっているので、結果に異を唱えようがない。もちろん、選考委員の選択に意見を述べたり、選考結果を批判するのは自由だが、結果にはなんの影響も与えない。
賞ごとに受賞者がばらついているのは、ある意味で当然だし、いいことだろう。いろいろな書き方があってよいし、評価がわかれてもふしぎはないからだ。
ひとつ、気になることがあるとしたら、特定の選者にはどうしても好みがあり、類似の詩作品を評価する傾向があることだ。その結果、芋づるのように似たもの同士が詩人グループを形成し、権威をふるうようになることだ。しかし、人間社会にはつきものの現象なのでとやかく言ってもはじまらない。
おそらく、時間が解決するだろう。
今評価されても、直に忘れ去られる詩もあるだろうし、今あまり評価されていなくても何年かあるいは何十年か後に評価される詩もあるだろう。ひょっとして、百年後にはほとんどすべての詩が藻屑と消えているかもしれない。
ひるがえって、ある枠組の中では決定権を持っていても、その枠組みをとっぱらえば、だれにも決定権はない。いやより正確には、その時代時代の読者の感性や価値観や需要によって変わり行くものだろう。
永遠があってほしいが、それは困難だろう。
紫式部の源氏物語や清少納言の枕草子、万葉集、古今集、新古今集、芭蕉の俳句など、日本文学にも、古典といわれる財産がある。とりあえず、いまはそういう評価がさだまっているが、千年後はわからない。
バッハ、モーツァルト、ベートーベンの偉大な音楽だって未来の評価はわからない。
個人としては、今現在の能力の限りを尽くして、すぐれた詩はなにかを追求することしかないだろう。歴史的な評価など個人にどうこうできることではないから。だが、普遍的な価値があると信じて、永遠の芸術的な価値を生み出そうとする真摯な姿勢なしには、一時的な傑作すら生み出すことはできないだろう。
多くの芸術家諸君!受賞できなくても気にしないでいいのではないか。
きみのなかにおいてはきみ自身が決定権を持っているのだ。
きみの詩が傑作だときみが評価できるかどうか、とりあえずはそれが問題だ。
その先は、現在そして将来の読者にゆだねよう!




















7.科学と思想

すぐれた科学者の中には敬虔な信仰者あるいは確固たる思想信条の持ち主である者もいるだろう。
科学的であろうとする者もさまざまな外的な制約や影響を受けざるを得ないだろう。
湯川秀樹は熱烈に平和主義を唱えたようだ。
核兵器につながる発明発見をしてしまった科学者たち。
科学技術が軍事に結びつくことは避けにくい。
どんな研究にどれだけの金とひとをつぎ込むかは重要な判断だが、それとて、国家的な政治や経済との関係を抜きでは考えにくい。
しかも、歴史は不幸な過去の連続であり、それらを引きずって現在がある。
正義が支配することを望みながら、そうはいかない現実を見てしまう。
正義もまた思想であるかもしれない。
思想は科学的でありえないのか?
人類の経験の科学としてとらえうるだろうか?
たとえば、平和のための戦争などという矛盾した表現も
ときには大きな旗印となる。
現実を正確にとらえたうえで、次のステップでは、
なんらかの判断と行動が求められるが、そのとき
判断の根拠となるのはある思想・価値観だろう。
科学と思想が融合して現実が動いていくところに
人間社会のむずかしさがあるのだろう。














8.価値観の競争

では、現実にはどのように物事は決まるのだろうか?
一言で言えば、「価値観の体系」である。
たとえば、政治家は「マニフェスト」+アルファ、経営者は実績、芸術家は作品、スポーツマンは成績、芸能人は人気、一般人はそれなりに。
国のトップがどのように選ばれるかは国によって異なる。
制度や慣習が異なる。
そういう制度や慣習もまた歴史的に構築され承認されてきた@価値観の体系」だ。
たとえば、総理大臣は、政策を競う。もちろん、純粋に政策だけでは決まらないだろう。政党や地域などのさまざまな利害関係や、個人の能力、人格、品格、イメージ、支持率、人気、マスコミの報道などが総合的に加味されて、選挙結果が決まる。
そこには、いくつもの「価値観の体系」が競争をくりひろげている。
同様に、会社も競い合っている。
会社の場合は、商品やサービスが売れるかどうかが勝負だ。
商品やサービスの質に加えて、販売網、広告宣伝、管理能力、社員の質などが総合的に「価値観の体系」つまり「ブランド」を形成して競争する。
かつては、なんでもありで、殺し合いに勝てばいい、「勝てば官軍」が徹底していた時代もあった。
『価値観の体系』は、時代により、地域により、国により、民族により、異なってくる。
どこまでが連続していると見るべきかはむずかしい。
少なくとも、今の日本について言えば、言論の自由が相対的には保障されている国だと思う。
そういう環境の下では、言葉による「価値観の体系」の構築が非常に重要だ。
マスコミの影響力も甚大である。
情報の発信力も競争を左右する大きな要素だ。
もちろん、「金の力」が基本的には最大の影響力をもっていることは言うまでもないが。
余談ながら、文学は、言葉で「価値観の体系」を表現するには最適の手段だ。
ふしぎなことに、文学は森羅万象を飲み込むことができる。
政治経済社会文化科学技術なんでも描ける。
答えが出せないことについては、問いかけをするという道もある。
言葉は人間が動物界で飛躍的に力を得るための最大の武器だったらしい。
文学がそういう役割を果たすものだと考えれば、その価値は大きいものがる。
あらためて、言葉をつかうことの意味を確かめることができる。


9.紛争の解決

価値観の体系が異なれば衝突も起きる。
衝突が起きたときにどう処理するか?
これも重要なシステムである。
一番典型的な解決方法は、裁判である。
司法権という権力が基盤となる。
判決が確定すればだれも争えない。
斡旋・仲裁・調停などという手法もある。
和解・示談というのもある。
弁護士がかかわる場合や当事者だけで話し合って解決する場合もある。
暴力的な決着もありうる。
刑法犯として裁判にかかる。
国家間なら、外交、国連といった場で交渉する。
それでもだめなら戦争だ。
戦争が終わると、戦後処理をめぐってまた外交や国連が登場する。
戦後復興についての仕組みや国際協力のプログラムが提案される。
そのつど「価値観の体系」が準備され、議論され、投票にかけられ、決定される。
紛争処理のサイクルは以上のような感じだ。
それでも、過去に数え切れないほど、繰り返された戦争や、紛争、衝突、流された人間の血や失われた命は肥やしとなって現在の価値観の体系のなかにとりこまれている。無駄にはされていないはずだ。
どうしようもないほど、おろかでやりきれない人類の歴史。それでも、歴史を参考にして、すこしは進歩が見られると思うし、思いたい。この辺は証明がむずかしい。












10.価値観の形成

では具体的に自分なりの価値観をどのように構築していったらいいだろう?
簡単な答えはあるはずもない。
手っ取り早いのは、先人の知恵だ。
すぐれた先人は数多くいる。
それらの先人から学ぶことがひとつの有力な方法だろう。
同じような問いかけをした先人は無数にいて、どのようにそれを処理していったのか?
いろいろなアプローチがあったはずだ。
正解はないかもしれない。
しかし、時間を越えて生き残っている価値観はある。
たとえば、デカルトだ。「我思う、ゆえに我あり」で有名な「方法の話」など。
ぼくなりに解釈すれば、たいせつなのは、専門家の意見だ。
自分の専門分野については自分が責任を持って判断する。
専門分野以外のことについては、専門家の意見を尊重する。
どの専門家の意見が傾聴に値するかも重要な情報だろう。
そのような前提の下に、
自分の価値観の体系を創ってみる。
それをレビューしながら、修正をくわえていく。
それは自分にとって最善の価値観であるが、他人にはそうであるかどうかはわからない。
そこで、以前に述べたような、価値観の体系間の競争が起きる。
個人レベルで勝ち負けがつかないこともあるが、選挙では勝ち負けが決まる。
終わりのないストーリーだが、
人類が生きている限りは、このようなプロセスがくりかえされるだろう。
価値観の体系がこれからいかに形成され、どのような価値観が優位を保っていけるか?
予想は困難だが、私見では、偏見のない自由な精神を維持しながら、真理を洞察しうる眼力を
ベースにして構築された価値観の体系が優先されるだろうと思う。
詩歌についてもそうあってほしいと願っている。







11.価値観の要素

「価値化の体系」とは、人口に膾炙した言い方をすれば、「思想」とか「世界観」とか「主義」とか「イデオロギー」とか「信条」とか「生き方」とか「理念」とかと言い換えることもできるかもしれない。

だが、それらの用語には一定のニュアンスがつきまとうので、ここでは、あえて、「価値観の体系」という言葉を使ってみた。

価値観の体系について総論的なことは述べたので、以下、各論に移っていきたい。

なお、「価値観の体系」の具体例は、前述のように、たとえば、総理大臣の選挙に際して表明される公約や政策がある。安倍晋三総理、小泉純一郎前総理などの発言を思い出してもらえばわかりやすいだろう。

体系というからには、いくつかの要素が組み合わさっているわけだ。

たとえば、安全保障問題。
憲法。
国家組織。三権分立。
地方組織。
経済問題。
税制。
金融。
産業・通商。
CIQ.
科学技術。
医療・福祉・介護。
年金。
人口。少子高齢化。
教育。
雇用・労働。
外国人の受け入れ。
治安。防災。消防・警察。
交通基盤整備。
消費者保護。
生活安全。
環境保護。自然保護。
国際関係。国際協力。

情報通信。
観光・レクリエーション。
地域振興。
芸術。文化。芸能。娯楽。
スポーツ。
宗教。
ボランティア。

このように、大きく分類しただけでも、膨大な内容がある。

そこで、話を単純にするために、
「言論の自由」ということを取り上げてみよう。
たとえば、憲法改正について賛否両論がある。
国会で成立した法案は有効になる。
まだ予断を許さないが、国民投票が行われるというステップがありうるだろう。

それでも、成立した法律の内容に反対するのは自由だ。
かつて、現行制度を批判しただけで逮捕され投獄された事例もあったが、
今の日本では、違法な暴力的な反対行動を起こさない限り、あるいは、名誉毀損などに該当しない限り、
どんな発言も許される。
これが、長い歴史を経て、成立された「言論の自由」だ。
まだまだ、不十分だという意見もあるかもしれない。そういうひとは、これからもずっと反対意見を表明し続けることができる。そういう制度がよいというふうに「価値観」が選択されてきた。

いまでは当然と思われる「言論の自由」も歴史的、あるいは、地理的に見れば、必ずしも自明ではない。

衆愚政治批判という考え方もあった。
民衆はおろかだから、政治は少数のエリートにまかせておくべきだ、とか、
言論の自由を認めると、世の中が混乱するから公益に反する、とか、
まじめに考えられたこともあった。

時間の経過は人類を進歩させるかどうか?
よくわからないが、長い眼で見れば、人類は進化し、成長して、賢くなっているのだと思いたい。

いまの民主主義をベースとする日本においては、
選挙や投票などの法的なルールを基礎に、多数決でものごとを決定することが基本だ。
そして、反対者は、合法的な範囲において、反対運動を続けることができる。
次の機会にまた選挙や投票によって自分の「価値観」が勝利する可能性がある。

「言論の自由」という価値観の体系のひとつの要素を見てみたが、
さまざまな要素が複雑に組み合わさっているのが現実である。

それをきちんととらえた、正確な議論が求められる。
その上で、公正な手続きによって結論が出されるべきだと思う。




















12.性善説か性悪説か?

 性善説を信じたいが、歴史をふりかえればそんな甘い見方はできない。
では、性悪説が正しいだろうか?
歴史を振り返れば、そうとばかりもいえない。
どうやら、人間は、正邪両面をもっているらしい。

 ひとりの人間の中に天使と悪魔が共存する。

 皆殺しを命じ、命乞いをするおんなこどもさえ切捨て、家屋敷は焼き払った残酷無比な武将も、舞を愛し、茶の湯やハイカラな文物を好んだ。有能な部下を取り立て活用した。商業の発達を促進した。武芸に秀でただけでなく、経済や文化や風俗にも意を用いた。芸術への理解もあっただろう。

 人間の内面は脳科学や心理学、社会学などが総動員されなければ研究が進まないと思う。

 ともすれば、善悪。正邪、真偽、明暗、強弱、など、二元論に陥りやすいのが、人の常。

 できるだけ科学的に、人間を人類を観察して、歴史を分析する視点が不可欠だ。

 歴史認識が単純に共有できるとは思えないが、統一しようとする努力は大切だと思う。

 結論とともに、プロセスも重要だ。

 姿勢や運動、行動がともなってはじめて、価値観が実証的になり、説得力をもつのだと思う。

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by nambara14 | 2007-12-30 19:14 | 論考「価値観の研究」第一部 | Comments(0)

13.団塊の世代

藤原伊織氏も団塊の世代、全闘共世代に属していた。

一口に団塊の世代といっても何百万人もいる。

ひとくくりにすることには無理がある。

しかし、「どんな特色があったか、またいまあるか?」ということを考えてみることはおもしろいし、意味があることだとは思う。

歴史をどうとらえるか?というときの、ひとつのヒントとしても興味深い。

まだ、過去になりきっていない時代のことや世代のことを描いてみれば、過去になってしまった時代の
ことをどうとらえるかについての手法を考えるのにも役に立つはずだ。

「団塊の世代」の定義について厳密な議論をしたいとは思わない。

戦後のベビーブームに生まれた世代。
昭和22,23,24年あたりが中心だろう。

名付け親は、堺屋太一氏らしい。

ぼくは昭和24年北関東の地方都市に生まれて、東京の大学を出た。
学生運動の真っ最中だった。

個人的な経験をベースに当時の東京の大学生についての特徴を挙げれば、

おおきく3つグループに分かれた。
1.政治運動に積極的にかかわらない。(いわゆるノンポリ)
2.全共闘(といっても多くのグループに細分化していた。角材、鉄パイプ、ヘルメット、タオルでマスク、というスタイルで、デモをしたり、集会をしたり、アジビラを配ったり、校舎を占拠したりした。)
3.民青(共産党系)

 ノンポリといっても左翼的な発想、中立、右翼的な発想、無関心派など詳しく見ればいろいろあった。
 デモとか集会に積極的に参加しないというだけで、政治に関心がないというわけではなかった。

 最初は、これらの学生はクラスメートとしてひとつにまとまっていた。やがて、学生運動が激化するとともに、3グループはけっていてきな対立関係に陥り、信頼関係を失ってしまった。

 卒業してからも、基本的には、3グループの分裂状態は解消していないと思う。
 ここに最大の不幸があると思う。

 自分のクラスメート(法律専攻)についてみれば、
 卒業してからの進路は、ノンポリが、一般企業、公務員、大学、マスコミなど。
 全共闘は、弁護士、一般企業や公務員、大学。
 民青は、弁護士など。

 学習意欲にはいまの若者と差はないと思う。
 ただ、パソコンやケイタイなど便利なものがなかったので、情報量や情報の処理力はいまの若者のほうが上だろう。
 ただし、人間と人間が話し合うという機会はいまより多かったかもしれない。
 生涯雇用がふつうだと思う人が多かった。いまの若者は自分の進みたい道に忠実かもしれない。

 スポーツや遊びについては、選択肢はいまよりせまかったものの基本的には大きな差がないような気がする。ただし、マージャンはよくやっていた。
 合コンなどもそれなりにやっていたような気がする。
 群れて画一的で権威主義的だという見方があるが、それほどでもないと僕は思う。
 
 今団塊の世代は、60歳にちかづいた。
 全体としてどういう特色があるのかよくわからないが、まず自分たちのことをよく知ることが世界認識の第一歩であることはまちがいないだろう。

 「価値観の体系」を考えるうえで、「団塊の世代」の考察も自分の重要なテーマとしてみたいと思う。

14.立場

価値観の体系を構築するときに忘れてはならないのが、立場という観点だ。
たとえば、今の世の中のことについて批判するとしよう。
批判はどんな立場からするのか?は重要なポイントだ。

憲法改正はわが国の将来にかかわる重要問題だろう。
これについて、防衛省の職員が、公式に反対の態度をとることはむずかしいだろう。
しかし、個人的なレベルでは、反対と考えている職員がいないわけではないだろう。

これに対し、職業的に憲法改正についての態度に特別の制約がないという国民のケースであれば、公私共に賛成とか反対とかの立場を貫けるだろう。

政治的な活動に制約を受ける職業もあれば、そうでない職業もある。
さまざまな立場をもった国民がいるので、意見も微妙に変わる。
評論家という職業もある。政治評論家としての発言というものもある。
庶民が雑談のなかであれこれ意見をかわすときは、なんの責任もなく自由気ままに発言できるだろう。

憲法に定められていることといえば、国家権力のことと基本的人権のことが中心だ。
国民は、さまざまな権利を保障されている。そして、さまざまな義務も負う。

ある国民がいる。自分の支持する候補者に投票する選挙権がある。しかし、所得税や住民税を納める義務を負う。社会保険料も納めなければならない。

ある国民が、さまざまなことに舌鋒するどく批判するとしよう。

たとえば、教育制度に問題があるから学校でのいじめが増加する。だから、教育にかかわる法律や制度や教育委員会や教員養成方法や学習指導要領などを改正する必要があると主張する。

その者が、学校関係者であるか、学校に通う子供を持つ父母か、直接関係をもたない者であるかどうかによって、発言の意味と重みはかわってくる。

多くの場合、利害関係のある者はその立場上、責任ある発言を求められるので、真剣さや正確性や状況把握や問題解決の方向性について、利害関係のない者より高いレベルの準備をすることが期待される。

もちろん、言論の自由は、利害関係のない者の発言を否定はしない。しかし、発言には責任がともなうので、責任の重さによって発言の尊重度に差が出てくることはありうる。

自分の意見を形成するときに、そういう「立場」の持つ意味を忘れてはならないと思う。

「価値観の体系」の構築のひとつの前提として、自分がどんな立場からものをとらえて、意見をもとうとしているのか、チェックしなくてはならないと思う。



























15.社会批判の視点

世の中には、むかしから、賞賛もあれば批判もあり、風刺や皮肉や揶揄もあった。

庶民が、不満を言う方法はいろいろあったが、時代によって、言論の自由の程度が異なるから、
その言い方も変化にとんでいる。

では、庶民を代表するつもりで、いろいろ批判的な発言をするひとがいるとする。

自民党は親米一辺倒で主体性がないとか、憲法改正は戦争への危険性を高めるおそれがあるから反対だとか、財政赤字は政府の責任だとか、社会保険や年金制度について国民に展望を与えないとか、税負担が不公平だとか、金融政策が失敗だとか、証券取引法や外為法に欠陥があるとか、教育制度に欠陥があるので、いじめや自殺などの問題が発生しているとか、雇用政策の欠陥のせいで、ニートが発生したとか、
とにかく、あらゆることに対して批判的な言辞を弄する者がいるとする。

それらの批判には反論が可能だろう。根拠資料や論理展開を突きつけあって議論は展開されうるだろう。

そういうまったく利害関係や立場を離れた議論がなされることは悪いことではない。
ただ、その場合、「批判のための批判」であったり、「批判が愉快」だからとか、「応援団の喝采をえたいから」とかの不純な動機が働いていないことを確認する必要があると思う。

批判は重要な改革の契機となりうる。
しかし、批判のもつ構造や性質にも注意を払うことを忘れてはならないだろう。










16.建前と本音

「価値観の体系」を構築しても、すべてを思うまま表現できるわけではないのが現実だ。

 言論の自由ほどたいせつな権利はないと思うが、言論によって、トラブルを引き起こす恐れがあるのも事実だ。

 たとえば、名誉毀損にあたりそうなことを書いたり言ったりすること。発表してみなければ確定的なことはわからない場合もあるだろう。

 宗教に対する批判や揶揄などもリスクが大きいと思われる。

 人種や民族や習慣の違いなど、デリケートな事柄についても、発言するときは慎重にする必要があるだろう。

 ときどき、勇気ある人物が、明確な批判や皮肉を述べて、抹殺の危機に瀕している例もある。

 政治家の発言が典型的だが、建前と本音というもがあることは明らかであろう。

 自民党の国会議員は、基本的には、同じ政策を共有している。

 安倍総理が、日米関係を基本として、外交、安全保障、経済政策等を進めていくというとき、

厳密には、アメリカへの批判的な要素がまったくないとは思っていないはずだ。しかし、そういうことを正直に述べることが得策ではないと思えば、そういう事柄には言及しないだろう。

 また、外交上の秘密事項もあるだろうから、言いようがない事柄もあるだろう。

 発言は精密に構築された価値観の体系に基づいてなされたとしても、すべてを発言することはむしろ稀有であろう。

 つまり、現実世界では、政治家だけではなく、経営者も、団体も、個人も、それぞれのおかれた環境や立場という制約の下で、利害得失や影響を考慮しながら、発言や行動がなされる。

 したがって、解説者や評論家があれこれ、コメントを添える余地も意義も生じるわけである。

 都合の悪いことが言われないことは多い。

 また、建前と本音がちがう場合も往々にしてある。

 「価値観の体系」が秘密裏に構築されても、それは、特定のひとたちの間の秘密事項として処理されることが多いと考えるべきだ。

 したがって、発言者は、複雑な状況を踏まえて発言するはずだ。

 「なぜそういう発言をしたのか?」とか「なぜそういう行動をしたのか?」を考えるとき、

 その背後にあるさまざまな事情や配慮を念頭に入れなければ正確な判断はできない。

 情報収集と分析能力を鍛えることによって、情報の持つ断片性や、操作性を克服することがすこしでも可能になると思う。

 情報化社会といわれるいまの世の中では、そうした情報処理能力がますます重要になっているのではなかろうか?












17.情報の洪水

たった一日分の新聞に載っている情報量でもめっちゃ多いのに驚く。
 
 政治、国会の動き、経済、社会、外交、国際、スポーツ、芸術、文化、芸能、テレビラジオ番組、出来事、事件事故、スキャンダル、トピック、エピソード、囲碁将棋、お知らせ、連載小説、広報、広告、特に、週刊誌の広告などジャンルも多様で、内容も多岐にわたっている。

 とてもじゃないが、すべての情報をつぶさにチェックすることはできない。自分にかかわりのあることや、関心のあることに限ってフォローするということにならざるをえない。

 ここに、「情報の取捨選択」がなされる。

 ひとそれぞれ、利害関係や関心事の範囲、理解能力や自由時間の量などの違いによって、取り入れる情報の種類や量や優先順位は異なってくるだろう。

 ある全国紙の朝刊があるとする。一面トップ記事はなにか?二番目、三番目は?
 2面3面4面・・・30何面まであるだろう。

 たとえば、ぼくの読み方をご紹介しよう。

 新聞社の優先順位とは別に、ぼく個人にとっての優先順位を考える。

 その優先順位にしたがってある記事をどれくらいまで読むかどうかを決める。

 ・・・なーんてえらそうなことを言っても、実は、いい加減な直感でそういう取捨選択をしているだろうなあ。

 大部分は読んだそばから忘れてしまうだろうし。

 しかし、何日か連続して新聞を読んでいると、ひとつのテーマが繰り返されるので、記事への理解力は高まる。それでも、報道された記事の内容の評価は、慎重にしなければならない。それは自分なりに考えた上で決定しなければならない。

 きょうのニュースを読み取るには、きのうまでの情報の蓄積が役に立つ。

 ぼくは、ジャンルごとに漠然とではあるが、ある程度の考え方をまとめている。「価値観の体系」の各部分として。

 僕の考えでは、なんといっても重要なのは、国の安全だ。安全保障。つきつめれば、軍事力と警察力だ。
したがって、外交や軍事についてのニュースを最優先して読む。日米安保条約。基地問題。
国連安保理の動向。北朝鮮関係。中国、韓国、ASEAN。などなど。天皇皇后両陛下がヨーロッパ各国を歴訪されているというニュースなどは、眼に止まりやすい。

 イラクの情勢はあいかわらず泥沼だ。イランも核開発について独自路線を貫いている。
 最近では、レバノン情勢も不穏だ。パキスタンやアフガニスタンも不安材料がいっぱいある。その他、世界には、紛争地帯がなんて多いのだろう?心が痛む。いつになったら、解決されるのだろうか?

 宗教によっては、夫婦でもないひとが人前で抱き合ったりキスしたりするのが、教えに反するということがある。某国の観光大臣がスカイダイビングのインストラクターと抱擁しただけで辞任に追い込まれそうだという報道があった。こういうことに対しての判断はむずかしい。いろいろな戒律や教義がありうることを再認識させられる。

 安全の次にたいせつなのは、経済だ。まず、食べること。着ること。住むこと・衣食足りて礼節を知る。の類だ。日本の経済状況がどうか?これからどうなるのか?そういうことについて、自分なりの見方を持つ。経済成長率。国際収支。輸出輸入額。失業率。企業の経営動向。金融の動向。証取法や外為法の違反状況。M&Aの動向。など。

 次に、社会が安定していることが重要だ。家族がしあわせに暮らせるためのさまざまな要素。職業。教育。育児。医療。介護。年金。結婚。離婚。冠婚葬祭。地域。社会基盤。水道光熱。電話。通信。テレビ。PC.ケイタイ。交通。など。安心して生活できる社会環境が整備されることがたいせつだが、これは、国や公共団体。企業。学校。隣人。親類。家族。友人知人。幅広いネットワークによって確保される。

 その次に、娯楽やレクリエーションだ。スポーツ、芸術、旅行、映画演劇コンサート、カラオケ、つり、賭け事、登山、ハイキングなどいろいろなごらくがある。ひとぞれぞれの好みによって、そういう楽しみを見つけて、実際に行動に移せるような仕組みが形成されることがたいせつだ。

 さらにはボランティアなど社会奉仕や社会貢献といったジャンルがあるかもしれない。

 このように、自分なりに、ジャンルわけをし、優先順位をつけて、新しく入ってくる情報を評価し、仕分ける。

 それによって、断片的な毎日の出来事も、自分の中では、「価値観の体系」の中に取り込まれてきちんと位置づけられるということになる。

 実際にそこまで緻密な操作はできないまでも、そういう方向性をめざして情報を受け入れている。

 ほかのひとの参考になるかどうかはわからないが、一応、ぼくなりの新聞やテレビからの情報の受け取り方の一端を述べてみた。























18.タブー

言論の自由、精神の自由は重要だ。偏見のない覚めた観察眼と客観的な判断力が求められる。

 しかし、忘れてはならないのは、人間が科学的であろうとすればするほど、狂気に近づくおそれがあるということだ。

 歴史に教訓を見出そう。

 過去の宗教の多くが、現世と来世。現世での行いが来世での幸不幸を決定する。

 最後の審判や天国と地獄。極楽と地獄。三途の川。閻魔大王。人間は死ぬときに、天国に行くか地獄に落ちるかを裁かれるのである。

 来世があるなどということは科学的には証明困難だ。しかし、「神」とか「超越者」とか「創造主」とかいう人間の能力を超えた神のごとき存在があるのではないかという主張には説得力がある。

 宇宙や生命の神秘を考えるとき、とても人間が生み出せるはずがないと感じる。

 すると、神とか宗教が生まれる必然性もあり、科学的といえるほどの社会的歴史的な重要性を有しているのだろう。

 しかし、懐疑論者にとっては、証明できていないことはあくまでも仮説として分類すべきことになる。

 単純に言えば、証明できたこととそれ以外のことを峻別するのである。

 さて、現実をよくよく観察してみれば、日本でも、神社仏閣が津々浦々に根を下ろしている。
 冠婚葬祭は仏式や神式あるいはキリスト教式など日常生活はそれと切り離せない。

 あるひとが、自分が死んだときには、宗教と関係なく葬式をやり、お墓も宗教と関係ないところに作ってほしいと望んだとしても、遺族はそれを実行するのにけっこう苦労すると思う。

 美術や工芸も寺院や神社に多く存在する。宗教の教えを表現したものも多い。

 雅楽なども高貴な家柄や儀式と密接な関係があるだろう。

 もちろん、歌舞伎や浮世絵や日本舞踊や小唄など、宗教というよりは、民衆のなかから生まれてきたものもたくさんあるだろうが。

 バッハの宗教音楽。ミケランジェロの宗教絵画。芸術を理解するのに、宗教と切り離しにくい例も多い。

 人間は、病気やけが、そして死という最期に向けて徐々に歩まざるを得ない。なにびとも死をまぬかれないし、いつ死ぬかもわからない。
 そういう現世の不安や恐怖が救いや慰安を求めることにつながるのはわかる。
 神を信じれば、心の平安を得られ、成仏できるといわれて、信仰に走る心理はもっともかもしれない。

 逆に、不信心だと、心の迷いがとれず、病苦に侵されやすく、成仏できないと脅されれば、弱い人間は、信心に向かうだろう。

 こうして、科学的には証明できていないことでも、死をまぬかれない人間の宿命があるという冷厳な事実があり、「あることについて差しさわりがある=たたりがある」というような心理が働き、ひいては「社会的なルール=タブーや禁忌」として確立していくというプロセスがあるのだと思う。

 表現には常にタブーがつきまとう。なんでも言えるわけでも言うべきでもない。言論の自由にはそういう制約や配慮事項もあることを忘れてはならないと思う。









19.情報の自動仕分け機能

情報をまじめの取り入れようとすると、情報の洪水にはまっておぼれる危険がある。

そこで、人間は、たぶん、無意識に必要な情報、関係のある情報、興味を持てる情報だけを仕分けしてとりいれ、その他の情報は無視して捨て去るという作業をしていると思う。

 情報洪水への自己防衛である。

 すると、おそらく、世界全体を知り尽くすことは不可能だろう。

 結局、自分の「価値観の体系」にしたがって、情報を取り込み、処理し、「価値観の体系」にとりこんでいくというステップがとられるのだと思う。

 では、あらゆる人間が、群盲象を撫でるがごとき、部分的な把握しかできないのだろうか?

 論理的にはイエスだろう。

 しかし、人間の知恵はもうすこしましな位置においてくれるのではないか?

 基本的な基礎や骨格がしっかりとしていれば、建物がかんたんには崩れないように、
「価値観の体系」もしっかりと構築されていれば、日々の現象面での情報を取捨選択する過程において、
かなりの正確さでそれが可能になると思われる。

 反復して、チェック作業をしていれば、おおきなズレが生じないうちに軌道修正も可能だろう。

 さまざまな情報=真実、うそ、意図的な情報操作、タブー、悪意、偏見、嫌悪感、憎しみ、溺愛、欲望、ねたみ、虚栄心、いきがかり、立場、利害関係、駆け引き、など、情報には、それにまつわる複雑な背景や状況や要素がある。そういう複雑な情報を的確に処理するには、かなりの知性と努力が必要だ。

 なにも考えずにのほほんと生きていくことも可能だろう。そういう生き方を選んでいる人間もいる。

 そういうひとなりの「価値観の体系」があるのだろう。

 「価値観の体系」は無数にあり、常に共存したり、競合したり、対立したりする。

 「個人=それぞれの価値観の体系」といってよいだろう。それほど、多様なものだという気がする。





























20.戦死したティルマンの場合

パット・ティルマンはアメリカのフットボールのスター選手だった。
 彼は、2004年アフガニスタンでの戦闘中に仲間の銃弾によって戦死した。

 彼の死について調査したある中佐が、
「もし人が無神論者で、何の信仰ももたないとしたら、死んでも行くところがないだろう。虫けらになるだけだ。」というような発言をしたことが、ティルマンの家族から猛烈な反発を招き、大きな社会問題となっているらしい。

 要するに、無神論者は成仏できない、ということだろう。

 信仰を持った人間にとっては、信仰をもたない人間は下等に見えるのだろうか?

 宗教について、異教徒に対する寛大さや、理解、共存のための工夫が必要だろう。

 価値観が違うものが価値観の違いを認め合って共存する・・・それこそが今世界でもっとも必要とされていることだと思う。

 アメリカという世界最大の強国が、いかに寛大さを示せるか?注目していたい。

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by nambara14 | 2007-12-30 19:11 | 論考「価値観の研究」第一部 | Comments(0)

21.野党の役割

年金法案が衆議院の本会議で強行採決されたニュースがテレビや新聞のトップニュースとなっている。

 与野党の対立。議場でもみあう与野党の議員たち。怒号がとびかう。

 これを見ると、なんだか与野党は戦争をしているように見えるかもしれない。

 しかし、今の政治の仕組みでは、すべては基本的には、役割を演じているといってよいだろう。

 仲良しの与野党などというのは本来形容矛盾である。

 対立してこそ与野党だ。激しく議論し、ときには暴力沙汰寸前にまで至る、真剣な論争・闘争が

 野党の存在理由である。

 おそらく、年金法案は内容的には、大きな対立はないように見える。だが、野党が、強い反対を示せなければ、衰退して、与党に吸収されるだろう。

 国民が、注視すべきは、与野党の対立という表面的な現象ではなく、議論の中身だ。それは、与野党を超えて検討されるべき内容だ。

 議論により、問題点が明確化され、解決の方策が見出されるというプロセスが望ましい。

 与党と野党の政策すなわち「価値観の体系」は衝突する。摩擦を起こす。

 与党の原案が野党とのぶつかりあいによってどれだけ、改善されるかに注目すべきなのだが、マスコミはそういうとらえ方はしない。

 マスコミには、事件事故や対立、紛争を優先とするという宿命があるからだ。マスコミの価値観の体系はそういう束縛のもとにあることを見抜いた上で新聞やテレビの報道をとらえる必要が国民にはあると思う。

22.発言の科学的な解釈はどこまで可能か?

これまで、「価値観」についていろいろ述べてきたが、なぜそんなことをくどくど書いているかというと、「自分」をできるだけ正確に知りたいからだ。

 だれしも、自分の与えられた環境に、意識するしないにかかわらず、制約をうけている。
 なぜ、自分はこのように考え、思い、行動するのだろう?

 それがはじめの問いである。

 保守的とか革新的とか、民主的とか強権的とか、右翼的とか左翼的とか、温和とか過激とか、利己的とか利他的とか、信心深いとか無信仰とか、猪突猛進とか冷静沈着とか、いろいろな形容詞がある。

 人種差別や優越感・劣等感、家族観、社会意識、道徳観、生きる目的、やりがい、死生観などもかなりばらつきがある。

 問題は、共存共栄できるかだ。違いがあってもおたがいを侵すことなく友好的に生きていけるかだ。

 「価値観の研究」は、そういうところから、出発したわけである。

 今回は、断片的で、恣意的で、利害関係に影響された、「発言」をどう解釈すべきかということをとりあげたい。

 たとえば、本能寺の変。明智光秀は、なぜ織田信長に反旗を翻したのだろう?

 歴史家や小説家などが、いろいろな説明を試みている。

 資料をもとに推理をしながら、自分なりのストーリーをまとめる。絶対的な真実は究明できないが。

 現在においても事情は同じである。

 評論家や学者や関係者がいろいろなできごとに対するコメンテーターとして登場する。

 犯罪ならば、警察によって逮捕され、裁判になれば、法廷であらそわれるので、真実がかなりの精度で明らかになる。

 しかし、現実には、違法行為に該当しない事案が多い。

 だれかに金銭的な援助を受けている場合の発言は基本的にはバイアスがかかると思われる。

 たとえば、広告宣伝はスポンサーからの資金提供で作られる。

 大学の先生の発言はどうか?

 比較的中立に近いことが期待される。しかし絶対ということはない。

 すると、もっとも客観的な解釈は隠れたところにあると考えたほうがよさそうだ。

 本音は、ひそかに手記に記される。あるいは、書かれずに頭の中にのみ記憶される。

 手記だって、科学的な正確性とは一致しない。ただ、真実への道への導きにはなりやすいだろう。

 以上見たように、さまざまな事実をより正確に理解するには、補完的な情報が不可欠だ。

 しかし、その補完的な情報をどのように入手し整理するべきかどうかについても、慎重に検討しなければならない。

 かように、真実への道は困難なのである。

 しかし、可能な限り、科学的な認識、科学的な解釈をしようとする姿勢と努力無しには、そちらへ近づくことはできないと思う。

 だれもが生まれながらに持っている種々の制約を一旦対象化し、その上で、できるだけ偏見のない自由で客観的なアプローチをすることがたいせつなのではないだろうか?



23.利害関係

人間が「言うこと」と「行うこと」の間に食い違いが生じる一番大きな理由は、利害関係だろう。

 いま、ドイツのハイリゲンダムでサミットが開催されているが、「各国首脳の発言をどう受け止めたらいいか?」を考えるときには、国益が基本にあると思ってよい。

 国益と国益の駆け引きである。

 地球環境問題が脚光を浴びている。

 京都議定書は、アメリカが参加していない。中国などの大国が、CO2の削減義務を負わないなどの問題を抱えている。1990年を基準に、なん%削減するか国ごとに目標を掲げ、それを2008~2012年の間に実現しようとする枠組みだ。日本は。ー6%の削減目標だ。実際には、削減どころが増加している。

 それで、開発途上国で、削減プロジェクトを実施することにより、排出権を獲得し、その分を自国の排出量から差っぴいてもらうというスキームが取り入れられている。

 おそらく、Co2削減はかんたんには行かない。生活水準にかかわることだからだ。

 それでも、科学的なアプローチにより、未来の地球を守れ!未来の人類の子孫を守れ!という大義名分のもとに、対策は講じられるだろう。資金も技術も人材も動くだろう。

 EUは積極的。日本もかなり積極的。アメリカは独自の提案をするなど、姿勢に変化が見られる。中国は総論賛成でも、具体論ははっきりしない。ロシアもようすを見ている感じだ。

 それでも、全体として、この問題に取り組もうという合意形成に至ったようだ。いろいろ事情はあっても、地球に生きる運命共同体として、世界各国は協力せざるをえないからだろう。

 利害をベースにしながらも、どこかで「正義」「人類愛」「平和」みたいな目標を共有することが望ましい。

 国家間の複雑な利害関係の中から、なにかが生み出される。それが、前向きの材料であってほしい。

 人間の英知と良心を信じきれるかどうかだ。

 できれば信じたいものだが。






























24.同性愛者の問題

アメリカの軍隊の話し。

 アメリカにはけっこう同性愛者が多いらしい。

 米軍では、The "don't ask、don't tell" policy(「聞かない、話さない」政策)というのがあって、

うやむやにすることによって、同性愛者でも軍人として勤務できるようにしている。

 ところが、最近、ある軍人が同性愛者であることを公表したところ、軍当局から解雇されたというのだ。それを軍関係者向けの新聞がとりあげたところ、メディアでの論争の火種となったそうだ。

 その後、軍当局から軍人あてに、待機命令が届いたそうだが、任期を全うするためにという説明がなされたそうだ。

 1993年にこの政策が実施されて以来、ペンタゴン(国防総省)は、約12,000人の軍人を解雇してきたという。

 最近、この問題は、大統領選の争点のひとつにもなっているそうだ。

 性にかかわる事柄は、タブー化しやすい。けれども、人間にとって、根源的な問題だ。正面から同性愛者を認めよという意見もあるだろう。イラクをはじめ多くの紛争地に軍隊を派遣しているアメリカにとっては、深刻な問題だ。

 「あいまいさ」がひとつの選択であることもある好例といえよう。

 「あいまいさ」もときには「価値観」の重要な構成要素になるということだろう。

 




25.言葉と行動

昨日のイベントでの谷川俊太郎の発言に、「言葉は現実のほんの一部しか表現できない。言葉は不完全なものだ。現実は複雑で矛盾に満ちたものだ。言葉より行動を重視すべきだ。」という趣旨のことがあった。

 昔から「不言実行」とか「有言実行」とか「言行不一致」とかいろいろ言われる。言うこととやることが一致しない場合がけっこう多いということだろう。

 「価値観の体系」を論じるとき、とりあえず、「言語表現」が重要だと述べた。と同時に、言語には策略がからんでいて、文字通り受け止めることができないこと、タブーのように表現を避けるべきこと、意図的な韜晦や誤謬、不用意な発言、能力不足による不適切な発言、など解釈が不可欠であることも述べた。さらに、発言をフォローしていき、発言者がどんな行動をしたかということを見極めて、発言と行動を比較検討する必要がある。多くの場合、言行は完全には一致しないだろう。複雑な要素がからむので、微妙なずれが生じやすいから。

 もし、「発言」と「行動」にちがいがあったときに、どちらを重視すべきだろうか?

 やはり、「行動」がそのひとの「本音」に近いと見るべきだろう。

 現実には、「発言」と「行動」は入り組んでおり、発言が行動そのものだったりもするし、不作為という事態もあったりするので、ふたつを峻別するのが困難な場合もあるだろう。

 話をわかりやすくするために単純なケースについて述べるとすれば、まさに、「行動」こそ現実としての影響力を強く持っている。

 恋愛関係にある男女を想定しよう。

 「好きだ。愛している。早く結婚して幸せな家庭を作ろう。」などといいながら、

さっぱり結婚について具体的な行動を起こさない男がいたら、それは多分、ほんとうには結婚する気がないか、少なくとも迷いがあると考えた方がいいだろう。

 国際関係にも、そういう場合が頻繁に見られる。

 以上のように「言語」と「行動」の関係は、とらえるのがむずかしいが、行動が優先するからといって、言語をみがく意味がないというわけではないと思う。あいまいな側面を強く持つことは避けられないとしても、少しでも正確に意思疎通ができるように努力することは大切なことだと思う。

 特に、言葉というのは、個人的な伝達手段ではなく、社会的なものだから、個人の努力だけでは限界がる。社会全体が、言語に対して前向きの姿勢をとることが必要だと思う。




























26.憲法改正問題

わが国にとっていま最も重要で難しい問題のひとつが憲法改正問題であることは異論がないだろう。

 賛否両論がある。無関心なひともいるかもしれない。

 賛成派の論拠は、「敗戦直後ならともかく、戦後60数年経った今日、独立国として、自国の防衛を自国の軍隊が責任をもって担うのは当然だということだろう。北朝鮮の脅威に見られるように、国家間の関係は予測できない不確実さがある。こちらが攻撃しなくても相手が攻撃してくる可能性もある。安心して暮らすためには、しっかりした国防力が必要だ。日本の防衛は、アメリカまかせではなく、まず日本の軍隊が中心の役割をにない、そのうえで、補完的に同盟関係を築くべきだ。そのためには、憲法9条を改正する必要がある。」

 反対論の根拠は、いくつかの意見にわかれるかもしれないが、「今の憲法を改正すれば、平和国家が維持しにくくなる。戦争を放棄するからこそ、日本は国際社会から信頼をえることができた。太平洋戦争の経験に照らせば、日本人は、軍事力を持てばなにをしでかすかわからない。まだまだ、成熟した国家国民ではないのだ。だから、今は現行憲法を維持して、平和国家として内外に平和を訴えていくべきだ。」
反対派の中でも、たぶん、日米安保条約については意見がわかれるだろう。「日本の安全を守るためには、日本が自衛隊以上の武力をもたない以上、アメリカの軍事力によってカバーされる必要がある。」とか、「日米安保条約があるからかえって日本は攻撃されるおそれがある。条約を破棄して、非武装中立路線で言ったほうが、むしろ安全度はますはずだ。」とか意見はわかれそうだ。

 そのほか、すこしづつ意見の細部にはバリエーションがありうるだろう。

 自分が賛成だろうと反対だろうと、影響力はほとんどないからといって、真剣に考えない人もいるだろう。

 そもそも、政治問題に関心のないひともいるかもしれない。

 いろいろな意見をもったひとが日本人のなかにもいるだろう。

 自分がどういう意見をもつかは、慎重に考えなければならない。

 こういう問題はえてして、感情的になったり、対立的になったり、誹謗中傷しあったりしやすい。

自分の家族や地域の戦争とのかかわり具合によっても、見方や立場が異なるだろう。

 みな複雑な過去をひきずり、複雑な利害関係の中で生きている。

 それだけに、この問題については、簡単な結論はでないと思われるが、政治家だけにまかせることなく、国民ひとりひとりが自分の意見をきちんともつことが大切だと思う。


























27.憲法改正問題(続)

きょうの朝日新聞の朝刊に心理学者岸田秀氏が、安倍内閣の憲法改正について、論評している記事がある。

 その論旨は、次のとおり。

「日本の歴史を、{外的自己}と{内的自己}との葛藤、交代、妥協などの歴史ととらえる。
外的自己は、外国を崇拝する自己。
内的自己は、外国を憎悪し軽蔑する誇大妄想的な自己。

戦後の日米関係は、まさに、外的自己が前面に出て、内的自己は抑圧されている。
ときどき内的自己がはけ口を求めるが、大勢に影響はない。(たとえば、牛肉問題など)

いまのような従属的な日米関係では、たとえ憲法を改正してもアメリカに都合のいい改正内容にあるおそれが強い。いまは、臥薪嘗胆に耐えるしかない。

自己欺瞞に陥ることなく、隷属的な状況から目をすらすことなく、やがてそこから抜け出すための道筋を見出すべきである。」

 以上であるが、なかなかユニークな見方だと思う。

 ぼく個人としては、賛同しかねるが、そういう見方もあるものかと思ったしだいである。













28.人間関係(その1)(恋愛関係)

人間の数だけ「価値観」があるわけだから、現実には、価値観は人間関係の中に現れてくる。
したがって、次のステップは人間関係、さらには社会関係、職場関係、国際関係などさまざまな関係をどうとらえたらいいかということが重要なテーマになる。

 まず人間関係から考えていこう。

 「人間がどんな存在であるか?」ということからはじめるべきかもしれないが、それではあまりに大きすぎるので、いくつかの典型的なパターンを想定して考えていきたい。

 ちなみに、人間の存在をとらえようとすれば、医学的なアプローチ、進化論的アプローチ、遺伝子的アプローチ、脳科学的アプローチ、心理学的アプローチなど、個々の人間についての科学的なアプローチがある。また、人間社会という集団的なとらえ方もあるだろう。ある時代の雰囲気や行動規範、政治や治安情勢や経済状態や生活水準など、人間とそれをとりまく環境を全体としてとらえる方法論もあるだろう。歴史的な推移、民族的な違い、宗教的な違い、政治体制のちがい、気候や地理的なちがい、など複雑な関係が存在する。

 民俗学的なアプローチでは、過去のさまざまな社会慣習や地域の特性など、さまざまな分野の歴史についての資料やヒアリング、現地調査等を通じてひとつのレポートをまとめる。できるだけ客観的に歴史をとらえようとする。

 社会科学は、本来科学的なアプローチが困難な分野に科学的な手法を導入しようとした。そのこころみは画期的なことだっただろう。マルクスもウェーバーもそういう意味での先駆者だったと言えるだろう。

 本来複雑な人間関係というものを、単純化して述べようとするのが、ここでの狙いである。

 だれでもわかりやすい例は、「恋愛」だろう。

 相手を好きになるとはどういうことか?

 これも、脳が感じているのだろう。

 はじめに好意を持つ。次に、それを態度に表す。相手が自分に好意を持ってくれれば関係は発展する。
そして、愛情を感じるようになれば、さらに関係は深まり、通常は肉体関係に進む。

 そのあと関係が熟成すれば同棲や結婚への道が開ける。もし、話し続けるうちに、相手の考え方に自分と違う部分が見つかり、それが重要な相違であると関係の進展はむずかしいかもしれない。また、ともに行動しているときに、そこに否定的なものを見出せば同様に危機が訪れる。たとえば、食事をするときのマナーが下品で気に入らないと気づけば幻滅するかもしれない。あるいは、約束を破ってばかりいるとか、他人に接する態度にいやな部分を見てしまうとか、さまざまな幻滅の機会はあるだろう。

 このように、ひとりの人間と接することは、心身全体で接することである。ひとつの「価値観」をもった人間が刻々と変わる現実の局面に応じてなにかを感じ判断し、行動する。それが他者とかかわる過程でさまざまな理解、好悪、快不快、利害、愛憎、別離などの感情や成り行きに結びつく。

 ひとりの人間を観察するだけでも、多くの時間と労力を要する。ましてや正確にとらえようとすればさらにエネルギーが必要だ。ここでもまた、ひとは人間関係の取捨選択を迫られる。人間関係の優先順位というものが重要なテーマとなってくる。

 きょうはここまで。














29.人間関係(その2)(職場)

人間関係にはいろいろある。前回は{恋愛関係」をとりあげた。

 今回は、職場での人間関係をとりあげたい。

 国や地方公共団体と公益法人と営利企業では人間関係がかなり異なる。

 公益を目的にする組織では、人事評価は、売り上げや利益への貢献度というような客観的な評価指標はない。

 政策立案能力、交渉力、リーダーシップ、協調性、行動力、説明能力などによって、制度をきちんと維持し、自分の組織の権限や予算、職員数、組織力の拡大に貢献した者が評価される。もちろん、上司への印象付けもたいせつかもしれない。

 営利企業では、もうけに貢献することが手っ取り早い。文句を言うひとが出にくいからだ。

 社内では、上司、同期、後輩、部門間の関係者とのじょうずな連携が求められる。

 対外的には、取引先の開発、取引先の維持拡大、企画力、プレゼンテーション能力、もうかる仕事の獲得などが求めらる。

 なんといっても、利益の追求が最優先。国民全体のために貢献する、などと考える余裕はなかなかない。

 自営業や個人事業者以外は、勤務先での仕事や地位、収入がすべてだ。やりがいのある仕事と十分な収入。それが両立できたら理想だ。

 社長やトップの地位に就けば、考えるべきことや行動するべきことが、一般の社員とは自ずから異なってくる。結局、組織人は、組織の目的にそったかたちで行動すことが求められる。

 個人は、組織の中で、なにを求めるかを自覚し、立身出世、高収入、仕事のやりがい、などのなにを優先したいかを明確に意識していかに振舞うべきかを決めるべきだろう。

 結果的に成功するかどうかはわからない。ただ、目的意識を持つか持たないかで先行きに差が出てくることは容易に想像できる。

 大学や研究所などは教育や研究機関として、存在理由があるので、そういう観点からの評価が優先するだろう。経営的な要素もあるが、自分がそこでどういう地位にあり今後どんな地位を目指しうるかをきちんと踏まえておくことはムダではない。研究部門でいい結果を出すか?それとも、事務局のなかで生きていくか、など。


 繰り返すが、組織の中での人間関係は、基本的には、組織の存在理由にそってどれだけ成果を出せるかどうか、成果を上げたらそれをどうアピールするかが重要だ。その際、自分が正しいと思ったことは勇気を持って主張し、説得に努めるが、うまくいかないときは辛抱して次の機会をうかがうことが賢明だろう。上司には敬意を表し、同僚にはできるだけ、にこやかに接し、マナーをたいせつにすることも大切だと思う。

 自分でできるだけのことをして、あとは人事権を持つものの判断待ちということだろう。

 基本的には、人間関係は重要だが、成功や栄達には、運任せという部分もけっこう大きいかもしれない。

















30.人間関係(その3)(家庭)

人間関係の基本は、親子であり、家庭だろう。

 だれも、「生まれる」のであって、選択権はない。芥川の「河童」
とはちがうのである。
 
 気がつけば「この世にいた」のだ。

 幼児体験はどう見ても人格形成に大きな影響を与える。

 きちんとした親がいてきちんとした家庭があって、きちんとした育てられ方をすればかなりの割合で
きちんとした子供が育つ。やがてきちんとしたおとなになる。

 きちんとした子供や大人の割合が少ないということは、とりあえず家庭に問題があると疑うことができる。

 ある程度の収入、栄養を考えた食生活や、清潔な部屋、明るい会話、両親の信頼関係などがあれば、基本的には問題ない。

 もちろん、先天的な資質ややむをえない病気や事故や離婚等の事情できちんと自立できる人間になれないことはありうる。

 家庭内のしつけがきちんとできていないとあいさつもできないこどもがふえる。思いやりのない子供が増える。エチケットやマナーをわきまえないこどもがふえる。

 逆に、成人した人間は、自分の両親や家庭環境を振り返ってみるといいかもしれない。自分の価値観に及ぼしたであろう親の価値観!それを冷静に客観的にレビューするのは無駄ではないと思う。

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by nambara14 | 2007-12-30 19:02 | 論考「価値観の研究」第一部 | Comments(0)

31.人間関係(その4)(学校)

今回は、人間関係のうち、学校での人間関係をとりあげたい。

いじめや非行化や校内暴力が問題にされる学校。

まず、保育園。仕事をもつ両親にとってはたいせつ。安心して預けられる施設が望まれる。保母さんの資質も重要。幼児はそこでしつけられる。

無認可託児所問題など解決すべき問題は多い。

幼稚園。施設と教員の質が重要。

送迎バスなどを見送るママやパパの間の付き合いもポイントか?

とにかくしつけはたいせつ。あいさつとマナー。言葉遣い。

教えるほうがきちんと学んでいないとねえ!

小学校。ちょっと成長して、先生と生徒。生徒同士の関係も複雑化。
ケイタイなど持つ子が多いだろうし。
いじめが深刻化しやすい年齢にさしかかる。
学校側の努力が必要だが、家庭内のしつけがあいまってはじめていじめの防止が可能になると思う。
100%防止はありえないが、いじめが発覚したときに厳正に対処するルールづくりと意識が必要だ。

中学生は、しだいに大人にさしかかるころ。心身の成長が著しく不安定になりやすい。
生徒のかかえる問題を把握し解決するのは、やはり、本人と、学校側と、家庭だろう。
強い生徒はいいが、弱い生徒をいかに救うか?最適のシステムづくりをして最善を尽くすしかないだろう。

高校生は、かなり大人に近い。受験や就職をひかえて、おおきな希望と不安に板ばさみになる。
おまけに性的な関心も強まり、男女関係に興味を示す。
仮に、暴力沙汰になると半端じゃすまない。
教育や進路指導や生活指導などがうまく組み合わされる必要がある。
教師の質が大きく問われる。情熱と責任感にあふれた校長や教頭や教師がいてはじめて、学内の信頼は醸成され、問題が解決される。
生徒もまた、かなり大人同士の付き合い方に対応を迫られる。友人関係のたいせつさを自覚するような指導も必要だし、やはり家庭の協力も不可欠だ。

大学は、もはや自立した大人の関係と考えてよいだろう。
もし、基本的なマナーなどについて、欠ける部分が発見されれば、友人同士あるいは教員が指摘することが望ましい。一般教養を幅広く身に着けることが期待される。
不幸にして、往時の学生運動のような事態が起きたら、大学側が毅然とした対応をとることが望まれる。
秩序は、ルールを守ることによってしか保たれない。
暴力がふるわれれば、基本的には、許してはいけない。

総じて、教育機関では、先生と生徒という特別な上下関係が形成される。そこでたいせつなのは、コミュニケーションだ。方針の明確化だ。自由に意見を交換したうえで、決定したことには従うことが必要だ。
生徒同士がうまく付き合えるような環境づくりは学校側の責任である。
そして、家庭もまた当然ながら重い責任を負っている。
そういう関係者の協力関係なしには、有効ないじめや校内暴力の防止は効果的に行えないだろう。

そのうえで、最後は、生徒自身が自分の運命をきりひらいていくしかないだろう。













32.人間関係(その5)(劇団の場合)

ちょっとケーススタディをひとつ。

昨日、ある著名な劇団のプロデューサーと話す機会があった。
まだ、30代の若くてかっこいい青年だった。

ぼくは、「どのような俳優が有望なのですか?」と聞くと、
彼は、「演技力があるというのは当然必要な条件ですが、人間として基本的なことが
できているひとが伸びますね。」と答えた。
ぼく、「具体的にはどういうことですか?」
彼、「きちんとあいさつができるとか、話ができるとかです。」
ぼく、「えっ、そんなことがたいせつなのですか?」
彼、「そうです。プロデューサーや演出家とコミュニケーションがきちんととれないひとは絶対に評価されません。使ってもらえませんね。」
ぼく、「それは意外です。でも、あいさつやマナーがたいせつな要素だと聞いて安心しましたよ!最近の日本人の中には、あいさつがきちんとできないひとがふえているような気がするし、マナーの悪い人も多いような気がするので。」

ざっと以上のようなことだった。

劇団というと、なんとなく、マナーよりも、美貌やスタイルやかっこよさや演技力が優先されるのかと思いきや、あいさつやコミュニケーション能力が大切な評価要素だと聞いて、ほんとうにうれしくなった。

彼によると、新人の採用の際や、配役の決定の際も、そういうチェックをして選んでいるのだそうだ。
30人ほど俳優がいるらしいが、今年の新人の採用は、たったひとりだけだったという。オーディションには3~400人の志望者がきたそうだから大変な倍率だったわけだ。。

そういう話を聞いて、彼のようなプロデューサーがいる劇団の公演なら是非見に行ってみたいと思った。

その劇団の名は?

「演劇集団『キャラメルボックス』」である。
33.人間関係(その6)(地域社会)

人間関係のひとつの重要な要素が、地域における人間関係だ。

 向こう三軒両隣とか、隣はなにをするひとぞとか、相隣関係とか、遠い親戚より近くの他人とか、隣の芝生とか、隣組とか、村八分とか、町内会とか、近所づきあいとかにまつわる言葉が多いのを見ても、人間にとって近所付き合いは気を使わざるを得ない人間関係であり、生きていく上で無視できない要素だと言ってよいだろう。

 江戸時代の長屋に比べれば、平成時代の近所付き合いはかなりちがった面があるだろう。
むしろ、近所付き合いが希薄化しすぎて問題視されている面がないとはいえない。

 地方と都会では事情は異なるだろうが、都会のとなり近所というのは、ほんとうに隣との付き合いがないことが多いような気がする。名前さえ知らないとか、顔をあわせたことがないという例はざらにある。

 留守にするからといって隣に一声かけるというものでもない。

 泥棒が入りやすい状況と言えば言えるだろう。

 たしかに、家族構成によって、近所関係は変わりうる。

たとえば、ちいさな子供がいる家族とおとなだけの家族とでは、付き合い方がかわるような気がする。

 子供を通して親が付き合いだすというパターンもよくある。

 老夫婦だけの家族だと、なかなか親しい隣関係は築きにくい。

 それにしても、人間にとっては、コミュニケーションというものが重要だと思うが、社会のシズテムが変われば、それに従うしかないだろう。付かず離れず、不信感や不安を感じない程度のあいさつぐらいは気をつけるとして、無理に付き合いを深める必要はないかもしれない。

 自分にとって、どういう交友関係を優先するかどうかを考えておけばいいのかもしれない。

 たとえば、家族、職場、学校時代の友人、恋人、趣味友達、地域といった具合に。

 地方では事情が異なるだろう。

 長く地元に住み続けていれば、否応なく人間関係は濃密になり、監視しあうような面も出てくる。きちんとあいさつしたり、町内会の行事や冠婚葬祭などにもかかわらざるをえない。

 うっとしい面もあるかもしれないが、人間が人間とのかかわりで生きていかざるを得ないと言う宿命を思えば、それを喜びにかえるぐらいの工夫や知恵をしぼる価値があるかもしれない。

 どうしてもそれがわずらわしいと思うなら、どこかへ引っ越さなければなるまい。

 見知らぬ人々の間で暮らすことの孤独感に耐えられるなら、都会のマンションぐらしはいいかもしれない。

 もちろん、ひとにはいろいろな事情がある。家族関係とか、メンツとか、経済状況とか、行きがかりとか、隠れた事情とか・・・。そういう事情を踏まえながら、自分で最適の地域社会を選ぶか、選びようのない場合はその域社社会でうまくお茶をにごしていくしかないだろう。

 他人の目としての地域社会はへたにつきあうとおそろしい敵にもなる。敵対することだけは避けなくてはいけない。最低限地域社会で悪い評判が立たないように気をつける必要はあるだろう。

 コミュニティーといえば聞こえはいいが、へたをすると、自分の首をしめるかもしれない。

 地域社会への用心を忘れてはならないと思う。





34.人間関係(その7)(相性)

人間関係共通に、「相性」というものがある。

はたして、科学的に解明しきれているかどうかはわからないが、「相性」を軽視すると痛い目に会う。
だれにもそういう苦い経験があると思う。

 英語では、ケミストリー=化学という言葉によって、人間関係の相性のよさわるさを示すことがあるようだ。

考えてみれば、人間も生体として、内部でさまざまな化学反応が行われているのだから、人間関係を生化学反応としてとらえてもおかしくないのかもしれない。

 多くの脳科学者など研究者が、脳の機能の面から感情や感覚を解明する努力を続けているようだ。その成果に期待しよう。

 ゲーテの小説に「親和力」というのがある。

 二組の男女がいて、相性のいい男女同士が結びついたので、ペアが入れ替わってしまうと言う話だ。
 それは、酸とアルカリが化合して、水と塩ができる反応に似ている。

 実は、HとOの結合力が強いので、それが結びついてH2O=水ができる。結果として、塩が残ると言うことらしい。
 男女関係もより強く引き合う男女がいればその二人が先に結びつき、残ったふたりはやむをえず結びつくということだ。

 あるいは、無理して結びつかなくてもいいのかもしれない。

 さびしさに負けて、恋人を求めたら悲劇が訪れるおそれがある。

 これは恋人関係だけではない。

 友人関係や、上下関係、嫁と姑との関係、取引先との関係、国際関係などあらゆる人間関係に当てはまる。

 相性をまず見極めることがたいせつだ。

 悪ければ、できるだけ近づかないのが賢明だ。

 仕事上近づかざるをえないときなどは、細心の注意を払って、相手を傷つけないように努める必要がある。

 「相性」=ふしぎなものだが、重要な要素だ。

 人間関係における相性の大切さを再認識しておこう!

























35.人間関係(その8)(コミュニケーション)

前回、相性が悪いと思った相手からは、可能な限り距離をとるべきことを述べたが、しかし、人間の相互理解は相性のわるい相手であっても、断念すべきではない。白黒のレッテルをはりすぎるのは、(価値観の異なる人間の共存というのが最優先の目的なので、)適当ではないと思う。

 自分の経験からして、人間は言葉をかわすことによってかなりの親近感をかちえるものである。
 いやなやつだという思いをもっていた相手でも、ちょっとした会話をきっかけに見方がかわることはよくある。

 メールや手紙という方法もある。

 いずれにしても、距離をはかりながらも、できるだけニュートラルな気持ちを維持し、機会があれば、接近するチャンスをうかがうぐらいの積極性が必要だと思う。

 あいさつもそうだが、ひとがひとに不信感をもたないようにする第一歩といえるだろう。

 これは、組織間でも、国家間でもいえると思う。

 外交政策は複雑だが、首脳同士が会談をすることは重要だ。会談を拒否することも外交政策の一環だろうから、一概には言えないが、基本的には、さまざまなレベルやチャンネルで交流を図ることが平和の第一歩であると思う。


 だから、政治家や企業の交流だけでなく、市民レベルの交流、観光、スポーツ、学会、留学、研修などさまざまな交流の機会がもたれることがのぞましい。

 まず接する。
 うまく接する。

 距離感をまちがわない。

 相手のプライドを傷つけないように配慮して、最低限、疑心暗鬼、不信感、敵対心をもたないように最大限の努力を傾ける必要がある。

 もちろん、相手が攻撃してきたり、誹謗中傷してきた場合には、それに対して、バランスのとれた反撃や防御策を講ずべきは言うまでもない。

 個人的な関係においても、相手が明らかに攻撃をしかけてきたときは、自己防衛のための手段をとらざるをえないのと同様に。

 要は、人間関係は、可能な限り、コミュニケーションを密にとることによって円滑化を図ることを基本としつつ、衝突の場合にそなえて、心の準備や対策を用意しておく必要があるということである。


























36.人間関係(その9)(嘘も方便)

前回、人間関係におけるコミュニケーションの重要性について話したが、コミュニケーションは常に真実が語られるとは限らない、「作戦上、嘘をつく」とか、「都合の悪いことは言わない」とか、「おたがいの平和のためにあえてうそをつく」とか、「うそによってその場を盛り上げる」とか、「悪意をもってあえて嘘をつく」とか、いろいろなケースが考えられる。

 もちろん、一般的には、嘘をつくべきではない。道徳的にはそうだ。また、法廷でも、偽証罪に問われたりする。嘘発見器などというものもあるぐらいだ。人間の発汗作用や脈拍、脳波などををチェックしてうそをついているかどうかを判定しようということだろう。科学がどれだけ人間の心理にまで踏み込めているか?研究は続けられるだろう。

 真っ赤な嘘とかホワイト・ライ(white lie)(罪のないうそ)とかいう言葉もある。

 うそつきは泥棒の始まりとも。うそついたら針千本飲ます、とも。
 うそをつくと閻魔大王に舌を抜かれるとも。
 二枚舌とも。
 うそをめぐる言葉や言い伝えは多い。

 さて、賢明な方ならおわかりであろう。

 うそは人間関係において不可避なのである。
 国際関係においてもしかり。

 だとすれば、「嘘」というものをきちんと位置づけ、うその役割や効用、対処の仕方をきちんと整理しておく必要があるのではないだろうか?

 うそをついてはいけないと教えるのはたやすい。

 だが、大人の社会で生き延びるには、「嘘」についての裏表を学ぶ必要がありはしないだろうか?




37.人間関係(その10)(全体と部分)

人間関係には距離感がたいせつだと述べた。
 では、人間同士は、どのようにかかわりあうのだろうか?

 わかりやすい例を引こう。

 夫婦の場合だ。しかも、相思相愛の夫婦の場合だ。
 精神的にも肉体的にも完全に一体化していると感じあう。
 こころもからだも素直に裸になれる。素になれる。理想的な関係だ。うそもいらない。かけひきもいら
ない。喜怒哀楽はあっても、憎しみや妬みがあっても修復可能だ。疲れたり、健康状態が思わしくないときには、それなりに放置しておける。元気なときは夢中で話したり、出かけたり、愛し合ったりする。

 理想型としての人間関係は「全的な」人間関係といえよう。
 実際には、存在しない。それに限りなく近いということはあっても。
 いわば、ふたつの円が重なり合う面積のように、ひとによって人間関係の面積は異なる。
たとえば、親友でも、病気のことや借金のこと、恋人のことは秘密にするかもしれない。
 90%の重なり。

 ふつうの友人関係なら、それなりのプライバシーもすこしは知っているが、知らないことも多いだろう。60%の重なり。

 顔見知り程度なら、あいさつぐらいはしても、プライバシーには立ち入らない。天気のことやテレビのニュースなどあたりさわりのないことを話題にする。重なり具合は、30%。

 顔と名前がかろうじて一致する程度なら。10%。

 おそらく、仕事の取引相手とは、せいぜい30%だろう。なかには意気投合できる場合もあるかもしれないが。

 さて、相性が悪くて、接点を持つべきではないのに、もってしまったことにより、嫌悪感や憎悪が残ってしまった場合は、(マイナス)-?%だ。

 こういう場合は、できるだけ接点を持たないようにして、マイナスが消えるのを待つべきだろう。どうしても顔を合わさざるを得ない場合は、忍耐心が求められる。じっと我慢するしかない。

 一種の比喩でしかないかもしれないが、人間関係には、全的な関係=100%の信頼関係を理想としながら、現実には、部分的な人間関係が形成されるしかないという(?%)ことに注意すべきだろう。






























38.人間関係(その11)(人格形成)

一人の人間が、ある価値観をもとに発言し行動する。
 すると、他人からの反応なり見方がありうるはずである。

 ある集団のなかでのある人物の評価というものがある。
 その「人物評価」はどのようになされるのだろう?

 ある程度の時間の経過とそのあいだになされた発言と行動そしてその結果や成果によるだろう。

 生来の性格や能力そして本人の努力の総合体として決まるのだろう。運もあるだろう。

 ある発言に耳を傾けるとき、発言者に対する敬意や好意がベースにあればすんなり入ってくる。

しかし、発言者に不信感や嫌悪感をもっているときは、同じ発言内容でも。伝わり方が違ってくるような気がする。同じことを言っても、誰が言うかで影響力や、受け止め方に違いが生じることはよくある。

 そこで、言葉による影響力を望むものは、すべからく、自分の人格が他人に受け入れられているかどうか、プラスの評価を受けているかどうかを気に留める必要がある。

 ある程度評価が定まり、有名にでもなれば、他人ははじめから、敬意をもって話を聞こうとするだろう。

 したがって、本来は、ある発言内容とは関係ないはずの人格や過去の実績や歴史がかかわって発言力を増減させる効果をもつことを忘れてはならないだろう。

 ある人物がどんなに誠実に努力をしても他人から十分な評価を得られる保証はない。しかし、人格形成への努力をしないひとは、尊敬の対象にはなりにくいだろう。

 発言に力を求めるには、まず人格を磨き、言葉を磨き、行動を磨いて、総合的な人間としての評価を得ることが重要なのかもしれない。

 もちろん、科学的な発見などは、内容だけが勝負かもしれないが・・・。
39.人間関係(その12)(三角関係)

人間関係も1対1の関係ならわかりやすい。
だが、現実は多くの人間が存在して、複雑な力学が作用する。

 そこで、とりあえず。三角関係をとりあげてみよう!

 ぼくの友人にAとBとがいるとする。
 AとBがけんかをして、絶交し、当面仲直りの見通しが立たないときにどう付き合っていくべきか?

 とりあえずは、両者の言い分をさぐる。そして、仲直りの仲立ちをする用意があることをにおわせる。

 考えられる限りの和解案を出しても見込みがないときは、あきらめるしかない。

 では、ぼくはAとBと友人関係を維持すべきだろうか?

通常は、不可能である。

 かならず、AもBもぼくに相互に悪口を伝えたり、不快感を感じると告げるだろう。すると、両者はほかならぬぼく自身に不信感をもつようになるおそれがある。

 ということから、ぼくはどちらかを選ばざるをえなくなるだろう。

 どちらをとるか?
 それはさまざまな要素を総合的に勘案して決めるしかないだろう。

 これは、グループや派閥にも応用できる理屈だと思う。

 ふたつの派閥に属することは、一般的にはありえない。
  人間は、八方美人ではありえない。そんなことを狙うと全員を敵にするおそれがあるからだ。

 利害関係は、選択を迫る! 
40.人間関係(その13)(グループ)

前回は、二人の人間関係と三人の人間関係の違いについて述べた。それでは、4人、5人、6人・・・と人数がふえていくと人間関係はどのように変化するのだろうか?

 友人だけの場合、職場での場合、地域の場合、他人が混じる場合、パーティーの場合、ボランティアの場合、旅行でたまたまいっしょになった場合など、ケースバイケースかもしれない。

 ここでは10名程度のグループについて考えてみよう。
 
 ひとつのグループとして行動するには、なんらかの計画やリーダーやガイド役が必要だ。
 それが明確に定まっていれば、円滑な行動が可能になる。

 しかし、それが不明確であったり、リーダーにリーダーシップが不足しているときなどには、トラブルが発生しやすい。

 意見が分かれるとか、利害が反するとか、責任感がないとか、いろいろな事情により、物事が進まないことはよくある。

 仕事なら、上司の立場にあるものが決定するしかない。それができなければ、その上司は、追々、異動になるだろう。
 私的な場合なら、流れに任せてみて、うまくいかないなら、やめてしまえばいい。

 お気づきのように、価値観が複数あって競争関係になるときは、選挙とか、上司とか、決定のための手続きによって決められるのが望ましい。

 手続きが明確でないと、無用な争いを招き、時により、暴力沙汰になる。

 ある程度、人間がふえてくれば、意思決定のプロセスがきわめて重要になる。

 そして、競争に決着がつかざるをえない、競争関係にある複数の価値観と、
     共存しづける複数の価値観が、ありうる。

 たとえば、選挙では、だれが当選するか決定される。
 しかし、選挙民がだれを支持するかとか、どんな食べものがすきかとか、どんなタイプの人間がすきかとか、は勝ち負けはつかない場合である。

 また、価値観には、グループとしての論議を経て統一された価値観と、グループ内での個人の価値観が統一されることなく行き続ける場合とがある。さらには、同好会のようなグループでは、おおきなくくりとしての価値観の共有がみとめられても、細部においては、個々人の価値観が生かされる、というようなケースも想定される。

 グループの性格と、個人のグループへの属し方によって変わってくるのだといえよう。

 こうしたとらえ方の延長線上に、もっと大きな人数の組織や社会における価値観の存在の仕方(たとえば、共存とか、競争とか、階層性とか、相互否定とか・・・)が浮かび上がってくるだろう。最終的には、地域、国家、さらには国際関係へと。

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by nambara14 | 2007-12-30 18:59 | 論考「価値観の研究」第一部 | Comments(0)

41.国家

とりあえず、団体までの価値観のありようについて考えてきたので、次に、価値観の典型的な表れとして、「国家」というものを考えてみたい。

 「国家とはなにか」ということについては、それに関する専門の教科書を参照していただきたい。
 ここでは、そういう基礎知識を前提として、ぼくが考えることを述べたい。

 国家は領土と国民を有する権力の主体だといえるだろう。
 権力は、国家を運営するために不可欠だが、同時に、濫用の危険をはらむ。
 憲法は、そうした過去の教訓を踏まえて制定されたといえるが、制定時の内外の状況にも影響されたはずだ。主権在民の明確化、三権分立、戦争放棄、基本的人権の保障といったことが眼目だ。

 現在の日本では、権力は、相互にさまざまなチェックを受けるようになっている。
 異議があれば申し立てもできる。訴訟も起こせる。陳情や請願もできる。
 
 権力機構は、憲法に基づき、諸般の法律で規定されている。
 憲法、法律、予算等国家の重要事項は、国会で論議されて、決定される。
 
 国会は国会議員で構成される。
 国会議員は選挙で選ばれる。

 国会の論議を茶番だと思う向きもあるかもしれないが、実は、国家にとって重要なこはここで決められる。したがって、信頼できるレベルの高い国会議員を選ぶことは重要である。

 内閣総理大臣は、国会議員の中からえらばれる。総理は閣僚を選ぶ。内閣は行政権の頂点だが、国会でのチェックを受ける。

 司法もまた、最高裁判所を頂点とした権力組織となっている。

 法律等のルールが制定されても、それを運用する者が適正に業務を行わないと、国民の権利や利益の保障がされない。

 制度を運用する人材の採用、教育、活用が重要な要素のひとつである。

 そして、不適切に制度が運用された場合の処理方針が明確にされることが望ましい。
 たとえば、年金額をあやまって計算した場合の、訂正、補償。
 たとえば、誤認逮捕したときの謝罪や補償。
 たとえば、職員の故意・過失による損害の補償。

 複数の価値観が競争して、ある価値観が公的に採用されると、現場では、とりあえずの指導監督の方向が決まる。

 権力は、根拠が明文化されるので、その限りにおいて価値観の競争には決着が付く。もちろん、問題があれば、改正の機会はありうる。

 国家は国民との関係では、守る面と攻める面とを持つ。さまざまな保護や救済。さまざまな税金や保険料の徴収など。

 国家は、他方、国家間の関係にさらされる。
 外交、貿易、投資、観光、文化、援助、協力、など。

 最悪のケースが戦争だ。

 平和と経済的な繁栄をめざして、さまざまな努力がなされる。
 これも、総理、外務大臣等閣僚が先頭に立つ。

 二国間と多国間の国際関係がある。
 六カ国協議。
 国連等での論議や行動。

 それぞれ対処方針が的確に作られる必要がある。
 それは、いわば「国家としての価値観」の形成といえるだろう。

 国家は個人レベルと同様にとらえることが困難であり、適切ではない面もあるだろう。
 ただ、これまで、「価値観の研究」として、整理してきた議論の方法論は準用できるかもしれない。

 次回もまた、国家について考えてみたいと思っている。
42.国家(その2)

国家と国家の関係は団体間の関係であり、主権と主権の関係なので、とてもむずかしい。
 まず考えなくてはいけないのは、既述のとおり、利害が基本だということだ。
 国益が根底にあって、美辞麗句もあり、飴とむちもある。平和や平等や共存共栄の目標もある。では、正義はどこにあるのか?自由博愛平等平和不可侵とかいうもっともらしい人類共通の願いを正義だととらえたいのは大多数の人間にとって共通しているだろう。
 だが、歴史を冷静に振り返れば、隷属侮辱差別戦争侵略がないまぜになっていることは否めない。現実は、正邪・善悪・好悪・美醜・といった正反対の要素がくりかえしあるいはからまりあって動いてきた。
 現実から眼をそむけては繁栄はありえないことは歴史の教訓だ。しかし、真実を唱えれば勝利を呼び込めるほど安易でもない。
 科学・非科学総合的な価値観が、国家にも不可欠である。
 政党が複数あり、政策を競うことは望ましい。だが、選挙で最適の結果が出ることが重要である。
 少なくとも、いまある政党の中で最善の政党が選ばれて政権につくことが望まれる。
 六カ国協議を見守ればわかるが、北朝鮮を除く5カ国が一枚岩かといえばそんなことはなさそうだ。
 拉致問題は日本にとって大問題だが、ほかの国にとってはそうでもなさそうだ。
 日米同盟は強固なものであると信じたいが、日本とアメリカにだって利害が一致しない部分がたくさんある。アメリカの言うとおりにすればいいというもんじゃない。だから、ひとつの選択としてありうるのは、日米の基本的な同盟関係を確認しながら、個々の案件ごとに対処方針を慎重に打ち立てて、それを最大限実現すべく国の関係者が一致協力して臨むことが望ましい。
 そこで、留意すべきは、国民にすべてが知らされるわけではないということである。機密情報は公表されない。また、二国間あるいは多国間の交渉も公表される部分と公表されない部分、さらには意図的に強硬発言をしたり、柔和な懐柔策をとったりする部分もありうる。
 すべて交渉には戦略と戦術が必要だ。十分に練り上げられて構築された戦略・戦術が。
言い換えれば、「国家としての価値観」の構築がきわめて重要なのである。それは、国家の政策であり、政権にある政党そして内閣総理大臣の政策ということである。
 なんだ、そんなものか?といわれるかもしれない。
 だが、現実にあるのは、実にありふれた政策である。新聞やテレビでしょっちゅう眼にしたり耳にしたりする情報が、実はきわめて重要なのである。そのことを忘れてはいけないと思う。 あまり興味のないひとも多いかもしれないが、選挙は最重要な機会だ。
 来る参議院議員選挙には積極的に投票しましょう!
43.歴史

価値観には、個人レベルの価値観、グループや地域社会や会社の価値観、国家の価値観など、階層があることは前に述べた。

 では、時間的な経過によって価値観はどのように変化してゆくだろう?

 価値観は人間と同様に生まれ、育ち、死ぬ。「価値観の一生」とでもいえるサイクルがある。

 ここでたいせつなことは、歴史的な視点である。しかも、できるだけ客観的な視点である。
社会科学としての「歴史学」という観点から事実を評価することが肝要である。

 日韓や日中の歴史の共通認識をめざす取り組みがなされている。きわめて重要なことだ。人間にはそして、民族には積年のうらみつらみもある。感情をぶつけるだけではなにも解決しない。

 苦しいが、現実を見る。過去を見る。冷静に。

 そして、一つの判断をくだす。絶対ではない。ひとによって異なりうる判断だ。
 それらの判断をつき合わせて議論する。一致点を確認し、不一致点を整理する。

 こうして、ある時点での歴史認識が整理される。
 このプロセスはある意味で無限に繰り返される。
 終わりがない。結論が出ないこともありうる。

 だが、こういう科学的な姿勢がたいせつだ。

 歴史は、その時代とあとになって振り返るのでは、まったく異なるものに見えるはずだ。

どうしてそんなおろかなことをしたのか?とか
なんでそんなばかげたことを信じたのか?とか

後世の人間がいろいろ批判するのはたやすい。
だが、過去の時点においてどのような社会環境であったか?どのような情報が得られたのか?とかの前提条件を仔細に調べてみれば、やむをえない判断や行為が多いと思われる。

限られた情報と利害関係や力関係のなかで決断は下されてきた。
過去を批判し否定するのは簡単だが、それだけでは真実を明らかにできない。

歴史的な学問的な視点から過去を評価するのが、価値観を常にレビューするため
の第一歩である。





























44.失言

価値観をめぐっては複雑な要素がからまりあい、また変化していくものであることを述べてきた。ここで、ちょっと横道にはいって、意思疎通の精度について触れておきたい。

 ひとがある価値観に基づいて発言し行動するときに、すべてを自覚し、正確にコントロールできているのだろうか?そんなことはありえないだろう。

 まちがってこそ人間。常に勘違いや間違いがつきものである。あるいは、表現能力の問題、理解能力の問題もある。

 ひとはお互いに誤解しあいながら、コミュニケーションをとっている。そういうものなのである。
 よくある政治家の「失言」もそういう類かもしれない。

 失言はそのひとの注意能力にかかわるが、知的な能力にもかかわるような気がする。

 信じられないような失言をする政治家がいる。それもくりかえす政治家がいる。
 そういうことがわかった時点で、そういう政治家はやめてもらったほうがいいだろう。

 その政治家の「価値観」の一部が明確化し、否定されるべきことも明らかになったわけである。

 そういう場合の、けじめのつけ方に、またひとつの「価値観」が問われる。本人はもとより、党首なり、総理大臣なりの判断力が問われる。

 概して、問題が起きたときの処理の仕方で、信頼できる価値観かどうかが見えてくる。

 「失言」はだれにでもあるが、信じられないような重大な失言は許されない。くりかえしも許されない。ましてや失言を失言と思えない場合は、弁解の余地がない。

 失言をするにしても、じょうずに危機管理をすることが求められる。




45.誤解

価値観を持った同士が接するとき、おたがいの言葉や行動をどう理解し受け止めるか?は重要だ。

 真剣に伝えようとする場合でも、100%真意が伝わることはありえない。

 よく伝達ゲームというのがあるが、ひとりのメンバーが一枚の紙に書いてある内容を暗記して次のメンバーに口頭で伝えていくうちに、数人いるうちの最後のメンバーに伝わるころには、最初とはまったく違った内容になっているという例がしょっちゅう見られる。

 一生懸命伝えようとしてもその程度だ。
 ましてや、なんとなくコミュニケーションをとっているときには、真意は伝わりにくいと思ったほうがよい。

 理解には、不十分な理解、曲解、誤解、勘違いがなどがつきものである。
 表現能力や理解能力の影響も大きいだろう。
 社会はそういう理解と誤解の複雑な関数である。

 また、同じことでも、だれが言うかによっても、伝達力が異なる。親しいものが言うことと嫌いなものが言うことでは、受け止め方が異なるだろう。上下関係や利害関係や立場や状況によって、理解度は大きく違ってくる。

 発言や行動の前に、発言・行動の主体の信用度などがきわめて大きな方向性を与える。

 理解ということに潜むそのような複雑な方程式をよくふまえておかないと、「すぐれた価値観」を提示しても世間を説得できるとは限らない。

 そこに、読みや駆け引きの要素が入ってくる。

 時には、意図的に、誤った情報を投げかけたり、嘘をついたりもする。情報の混乱を狙うこともある。

 他人同士を、疑心暗鬼におとしいれようとする場合もありうる。

 人間は、さまざまな状況においてさまざまな駆け引きを使う。たとえ無意識であっても。それは生きる方便だ。

 したがって、「価値観」は、現実には、そのときどきの人間関係や状況でゆり動き、変容を余儀なくされる。

 生きている人間や社会の発言や行動に密接にかかわる価値観は、同様に、そのときどきにおいて、とっさの対応を迫られる。

 価値観は生き物の側面を持つことを忘れてはならない。



























46.科学と価値観

これまで、科学と科学以外のことがきちんと区別できることを前提に話をしてきた。

 しかし、ほんとうに科学と非科学を峻別することは可能なのだろうか?

 科学的とか客観的とかいうと、きわめて論理的・実証的で疑問の余地がないようにも思える。

 実際にそうだろうか?

 アインシュタインが敬虔なキリスト教徒だったという話もある。

 どんなに科学が進歩しても、宇宙や生命のなぞはとけそうもないのだろうか?

 宇宙のはじまりについては画期的な理論が提唱されている。宇宙の歴史や構造についても、驚くべき発見や理論展開がなされてきている。まさに天才的な発展といえるだろう。多くの天才の功績も大きい。

 だが、どうにもわからないことも膨大ななぞとして存在しているようにも思える。

 そもそも、なぜこの宇宙があるのか?

 空間と時間とはなにか?

 どうしてこんなに多くの動物や植物や物質が存在するのか?

 人間ひとつをとっても、なんでこんなに高機能の生物が生まれてきたのか?

 こうした宇宙や生命の設計図をかけるのは、超越した存在しかありえないのではないか?

 「神」ともいえる存在がなければ説明できないような気がする。しかし、それは証明するのがむずかしそうだ。

 神の概念は宗教と密接に結びついているが、ここでは、宗教とは別に、科学的なアプローチとしての「神」の問題が残されているということを指摘しておきたい。

 かりに、科学が、思想や信条や道徳観など科学以外の分野と明確に区別しきれないとしたら、話はややこしくなる。

 科学的な思考も、哲学的な思考と結びついているとしたら、科学もまた相対的な理論にすぎなくなるかもしれない。いわば、たしからしい理論として、「仮免」はもらえても、絶対の真理としては公認されないのだ。

 科学の発達、そして医学の発達。それはさまざまな難問に光を当ててはいるが、すべてに解答を与えているわけではない。

 ユークリッド空間と実際の宇宙空間とは違うらしい。次の理論も完全には現実を説明できないかもしれない。それでも、すこしづつは、真理が明らかにはされている。

 そのように、科学といえども、完全とは行かずに、どこかファジーな要素をはらみながら、相対性と絶対性をあわせもち、、さらには未解決の現実を膨大にかかえたまま、研究が続けられているのかもしれない。

 「科学」という言葉の持つ「魔性あるいは「陥穽」」に幻惑されないような注意が必要かもしれない。















47.善意と悪意

価値観の競合はいたるところに見られる。

 価値観が生き物だというとらえ方についてはすでに述べた。

 では、価値観はどのように優劣が決まるのか?あるいは強弱が?

 正当性とか論理性とか宣伝能力とか?

 価値観の競争ということを分析するとき、ひとつ注意すべきことがある。

 それは、善意と悪意ということである。

 たとえば善と悪との対立という構図なら話は単純だ。

でも、現実は複雑だ。善悪は区別困難だ。

 仮に、善意だとしても、善意同士の真摯な競争や衝突というのが現実にはよくある姿だ。

 とくに、自分こそ正義の具現者だと信じ、真剣に自分の価値観を主張し実現を図ろうとする者が多数存在し、競争状態にあるとしよう。

 そういう場合は、どの価値観を選択すべきか迷うだろう。

 また価値観が共存しうるのか、選択を迫られるのかも重要な要素だ。

 さまざまな事情の違いに応じて価値観のあり方や競争関係もかわってくる。

 ただ、善意ならいいとか、悪意だから悪いとか、単純な判断はすべきではないということには留意する必要があるだろう。





48.正義

価値観の体系および要素についてはすでに述べた。

 ただ、個人の価値観と社会の価値観にはちがいがある。

 社会道徳などは個人の道徳観を拘束する。

 正義もまた個人の正義感と社会的正義は異なりうる。

 正義は、絶対的なものではない。

 社会科学が価値観の科学的な解明をすすめることは重要だが、完全に科学的な解明ができるとは思えない。

 では、「正義」とはなにか?

 自然科学については一定の制約はあるものの、証明可能な法則や事実がある。

 社会科学は、一般には、相対的な価値観だ。

 歴史的に積み上げられてきた価値観である。

 たとえば、ひとを殺したり傷つけたりしてはいけない。

 ひとの自由をうばってはいけない。財産を盗んでもいけない。

 侵略的な戦争はいけない。人種差別はいけない。誹謗中傷はいけない。

 正義は、公平、公益、公正、非暴力、自由、博愛、平等などのなかにある。

 弱いものを助けよ。病人を手当てせよ。体の不自由な老人を介護せよ。身寄りのない孤児を救え。などなど。反論しようのない立派なスローガンだ。

 だが、見方を変えれば、正義は別のところにある。

 一昔前の世界は、戦争をやむをえないこととみていた。

 であれば、力は正義となる。

 常に軍事力をたくわえ、すきあらば、敵にせめかかり、勝利を手にするのである。

 日本でも、家康が権力を掌握するころまでは、戦国の世が長く続いていた。

 国際的にも、いまだに戦争は各地で行われている。

 「正義」を標榜しない戦争はないはずだ。少なくとも、戦争をしかける者は、正義のために戦うことを宣言するだろう。

 正義と正義の衝突が、見かけ上の戦争の実態だ。

 だが、第三者的な立場で見れば、状況はまったく違って見える。

また、後世になって振り返れば、状況は違って見えるだろう。

 正義というものは、さように、歴史的な意味づけがなされるものであることを忘れてはならないだろう。

 ただ、人類が、正義に向かって進化していることを信じたいのはやまやまである。

ぼくもまた、それを信じたいし、そういう努力をすべきだと思う。それが歴史的な知恵であり、価値観だと思う。










49.無意識

価値観を考察するとき、忘れがちなのは、意識と無意識の関係である。

 なにごとも覚めた眼で観察し、判断していると思いたいが、現実はそうはいかない。

 幼児時代の環境によって、味覚や生活様式や価値判断など、かなりの範囲にわたって、個人の価値観は影響を受けざるを得ないし、社会の中の一員として道徳観も身につくこととなる。

 先入観や偏見なく物事を見ようとしても、無意識に形成された価値観は変えにくいのではないか?

 マナーやエチケット、衣食住、言葉、挨拶の仕方、冠婚葬祭、ショッピングの仕方など、もろもろの生活の細部に、価値観は現れる。

 列に割り込むことに目くじらをたてる人とさほど気にしない人がいたら、けっこう事件にさえなる。

 がんつけた、とかで刃傷沙汰に至る例もある。

 価値観を形成する歴史や先人の知恵には敬意を払う必要があるが、やみくもに信じるのは問題だ。また、自分の価値観の中に無意識が大きな役割を果たしてきたことも意識すべきである。

 価値観は、切磋琢磨して、よりよいものに改善すべきである。絶対的な「改善」かどうかはわからないが、一応、いま生きているひとたちの大多数によって支持されている価値観には敬意を表すべきだろう。その上で、自分の価値観をレビューし、修正し続けること。それこそが、不完全な存在である人間にできる最善の行き方ではないだろうか?

 わけがわからないまま生まれて、わけがわからないまま死んで行くというのが大部分の人間の一生だろう。

 それでも、生きている限りは、平和で、充実した、幸福な一生を送りたいと望むのが人の常だ。

 そういう素朴で基本的な原点にかえって、人間の生きる道を探し求めることがたいせつではないか?

 価値観とは、生きるためのよきガイドブック、マニュアルとして活用されるようなものであればよいと思う。































50.価値観の共存共栄に向けて

価値観についていろいろ思いつくことを述べてきたら、もう50回めの記事ということになった。

 これまでは、かなり基本的なことを、抽象的に、体系的に述べてきたつもりである。

 ところどころに具体例を挿入したが、どちらかというと論理の展開に重点を置いてきた。

 50回をもって、「第一部 理論篇 」を終えたいと思う。第二部は 応用篇」として、具体例に即して価値観がどう働いているかということを追ってみたいと思う。ただ、気が向いたときに書くつもりなので、あまり定期的な記事を期待しないでほしい。もっとも、愛読者がいてくれたとしての話だが(笑)。

 最後に言っておきたいことは、十人十色といわれるように、人それぞれ外見も好みも考え方も違っている。白人、黒人、アジア人というようなちがいもある。生物種もおびただしい数がある。

 多様性が生物の価値だと言えるらしい。

 そこで、自分の価値観を磨くことと同時に、他者の価値観を理解し、尊重しようとする姿勢が重要なのだといえるだろう。

 個人レベルでも、グループレベルでも、組織レベルでも、地域レベルでも、国家レベルでも、さらには、国際関係でも、価値観は常に異なる価値観が存在し、衝突し、争いになりやすい。

 価値観はまた、全体として、また、部分として機能する。そして、切磋琢磨し、競争し、相反するテーゼが止揚され、変化し続けていく。

 したがって、価値観を担う主体が、どんな姿勢を持ち続けられるかが重要である。価値観は価値観をもった主体(ベースは人間)がとる姿勢や行動として現れる。言語と行動のように密接不可分である。

  人間がいかに偏見のない自由な精神をもてるかどうかが鍵である。

 それは、科学的に保障されない経験的な人類の価値であり、引き継ぐべき遺産だ。

 経験的な価値が社会的に認証され受け入れられるプロセスおよびその成果が価値観といってもよいだろう。

 もちろん、自然科学や社会科学といった科学的な成果とあいまった、総合的にして哲学的な価値観というものが究極の価値観としてとらえられるべきものであろう。 

 つまり、科学的に実証可能な部分と経験的にしか成り立ち得ない正義とか道徳的な教えとを総合的に組み合わせた、総合的な価値観こそ求められるものである。

 それは静的なものでなく、姿勢や発言や行為としてダイナミックに機能するものである。

 そのような「動的な総合的価値観」の形成(=人格形成に近似しているかもしれない)の努力と競合の結果として、最大限、異なる価値観が共存共栄できるような社会や国家のあり方が追求され実現されることが望まれる。

 つまるところ、究極の人類の目標は、平和と繁栄の共有であることは言うまでもない。

 「価値観の研究」もまたその目標にすこしでも貢献できれば幸いである。


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by nambara14 | 2007-12-30 18:54 | 論考「価値観の研究」第一部 | Comments(0)

角を曲がるわたし


    角を曲がるわたし



角を曲がるのは わたしです
振り返ると 太陽がまぶしくて
わたしがやって来た方向が見えません
でも あちらからやって来たのは わたしです

細い路地でつまずいて転んでも
からだがふいに浮き上がっても
新型ウイルスに侵されて激しい痛みに襲われても
それは わたしです

きっと わたしは 最果ての崖っぷち 
あるいは 果てしない無心に向かって 進んでいるのです
やがて わたしは見えなくなります
どんなに固く手をとってくれるひとがいたとしても
つなぎとめることはできません
あのかすかな点 それが わたしです
消えていく わたしです


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by nambara14 | 2007-12-29 13:25 | 新作詩歌(平成19年発表) | Comments(0)


     『 イデヨの左手による覚書 』

    
       (プロローグ)

 
  「なんということだ!」
  彼は 晩秋の公園を 冷たい風に吹かれながら
  乱れきった心に引きずられるように 歩いていた
  さきほど見た光景はなにかの間違いではなかったか?
  暗い道路の片隅で軽くキスをかわしていたのは 
  彼の親友と彼の彼女だったのだ
  思えばその親友とはなにかにつけていさかいがあったのだったが
  とびきりの秀才で きらきらと瞳を輝かしながら
  医学の将来を語る親友のしぐさを見ると
  勉強会をすっぽかしたり 借金を返さないのも
  大目に見てやろうという気になったのだった
  だが 今度はよりによって自分の彼女にまで手を出したのだ
  怒りでふるえる体をもてあましながら歩いていた彼に
  ふと木陰にある銅像が目に入った
  「おや あの有名な医学者の像だ。」
  自信に溢れた表情で 右手に持った試験管を高く掲げ
  左手は軽く握って腰に当てている
  左手のあたりを注意してみたがとりわけ変わったようすはなかった
  その日 疲れきったこころとからだで家に帰った彼は
  なんとなくインターネットでその医学者のことを検索してみた
  さまざまな情報の中に風変わりなメモがあるのが目に留まった
  彼はそのページを保存しプリンターで印刷した
  じっくりと手にとって読んでみた

      *

   【 イデヨの左手によるメモランダム 】

    1
  
どこか草深い地方のようだった
きびしい寒さの中で囲炉裏の火がちらついていた
母は食事を作ったり片付け物をしたりして
目が回るような時間をすごしていた
母がちょっと表に出て仕事をしているときだった
突然赤ん坊が火がついたように泣きだした
見れば 赤ん坊が囲炉裏に落ちている
思わずわが腕に取り上げたが
左手がまっかにふくれあがっている
どうしていいかわからないまま
母は薬箱をさがした やけどにつける薬などなかった
無意識に包帯だけを巻きながら母は思った。
(医者に行こうにもそのお金がない・・・)

赤ん坊はやがて元気に走り回るようになった
左手はやけどのせいで指がくっついてしまっていた
こどもたちがその手を見ては「手ん棒」と言って冷やかした
母はいつも子供にあやまった
しっかり見ていなかったせいでこんなことになってしまった
あるとき手術ができる洋行帰りの医者がいるというので
同級生たちの募金によりついに手術を受けることができた
完全ではなかったが指はある程度分離できた
子供はいつのころからか医者になることを夢見始めていた
トカイに出るためと言ってイデヨは知り合いから金を借り
ついにイナカをあとにした


   2

イデヨは天才タイプではなかった
それでも睡眠時間を削ってまで勉強したので
医学の知識は十分に身につけた
医師の試験を受ければ
権威ある教授さえ気付かなかった病気を見つけて驚かれた
とにかくひとの何倍も努力するしかないんだ。
やがてタサト研究所に採用されて
新たな病原菌の発見のための研究に没頭できると喜んだ
だが実際は雑用しかやらせてもらえなかった・・・

イデヨはあきらめなかった
検疫所に移ってからペストの患者を発見したり
清国へ ペストの国際予防委員会のメンバーとして派遣されたりした
やがてイデヨの医学の実力もしだいに認められてきた
イデヨの医学への執着はじんじんと体の中で燃え上がった
まるで痛みが収まらない内奥部のやけどのように

庇護者たちに壮大な夢を語って大金を借用し
アメリコの医者にたくみにとりいって
イデヨはついにアメリコに渡ることになった

   3

文字どおりの押しかけ渡米だったが
イデヨはかろうじてフレクスナー教授のもとで
蛇毒の研究を手伝う仕事にありついた
不眠不休の仕事ぶりは周囲の者たちを驚かせた

血走った目はいよいよ真っ赤に 癖毛の頭髪はますますねじれて
髪をかきむしり ときおり素っ頓狂な叫びを上げるイデヨ
どうやらイデヨにはもう一匹の獣がすんでいるらしいとのうわさが広まった
あの気違いじみた研究態度のうらには
夜な夜なくりだす歓楽の世界が隠れているのだと言いふらすものがいた
放蕩という語彙を覚えてしまったイデヨの大脳辺縁系は
発火しつづけるシナプス結合を増殖し
真昼に脳裏に焼き付けられた病原体の潜在記憶が抹殺されるために
電位差を与える神経伝達物質を作り出そうとして
赤いふんどしを締めた獣に化けるのだと言い換えられもした

それでも「人間ダイナモ」は一心不乱に研究に没頭し
白人社会にも食い込める成果をあげたのだった
その後フレクスナー所長に招かれて行ったロック研究所では
梅毒スピロヘータの純粋培養に成功した
何万枚もの病理組織標本を顕微鏡で観察して確認した
そのころまでにはメリーという白人女性と結婚もしていた
ノーベル医学賞の候補にさえなった

いちどイデヨはジポンに帰国した
イデヨの名声は国中に浸透しており各地で歓待された
ただそれがイデヨの最後の帰国となった
イデヨの中の獣を見た者もいたからかもしれない

やがてイデヨは黄熱病がはやっていたエクアドルへ派遣された
イデヨはただちに病原体を特定しイデヨワクチンを開発
(ただし今日ではワイル病スピロヘータだったと考えられている)
その地域の黄熱病は収束した
イデヨはまたまたノーベル賞の候補になった

イデヨワクチンはアフリコでの黄熱病には効果がないと聞いた
イデヨの研究に疑問が寄せられているというのだった
たまらず イデヨはアフリコに向かった
ガーナに研究施設を建てて アカゲザルを使って病原体特定に着手
だが急に高熱を発したイデヨ
あえなく国立病院のベッドでイデヨは無念の最期を遂げた
五十三歳。研究への未練を残したまま。黄熱病により。
「なにが、なんだか、わからない。」
それがイデヨの残した最後の言葉だった

    4
 
イデヨはやがて偉人伝にも登場した
千円札の顔にもなった
ヤケドを克服して医者となり人類の救済のために命を捧げた
黄熱病の研究の道半ばで病に倒れた人道主義的な英雄
それがイデヨ像だった

だが イデヨは光と影をもっていた
数え切れないほどの勲章や学位や賞賛を受けた研究成果
ノーベル医学賞候補に三度
そして 誤りも多かった研究論文 更に 度重なる借金と好色と博打と――
でもそのすべてがイデヨだったのではないか?

(ロック研究所の研究員が黄熱ワクチンを開発したのは
イデヨの死後十年余り経ってからだった)

       **


      (エピローグ)


  彼は このメモを読み返し やがてデスクの引き出しにしまった
  頭の中でイデヨの小柄なからだと口ひげと左手がぐるぐる回った
  親友と彼女とのこともすこし距離をおいて考えられるかもしれないと思った
  できればイデヨの詳しい伝記を読んでみたいという気になっていた
  自分の中でうごめいている獣は一体なんなのか
  イデヨの生涯をたどってみれば
  すこしは参考になるかもしれないと感じ始めていた・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  上の作品は、「SPACE77」(平成20年1月1日発行)に発表したものです。

  野口英世の伝記をもとに書きました。

  その際、渡辺淳一著「遠き落日」を参考にさせていただきました。

  渡辺氏のこの伝記小説は、徹底した取材に基づく、活き活きとした描写と野口英世への愛情がひしひしと伝わってくる名著だと思われます。

 野口英世については、毀誉褒貶が錯綜していますが、すぐれたところは評価し、問題があった点については率直に認めるというのが、とるべき姿勢かと思われます。

 これを機会に、野口英世について、多くのみなさんが興味を持っていただけたらうれしいです。

 なお、下の写真は、上野公園の中にある野口英世像ですが、林の中にあるので目立たないのが残念です。
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by nambara14 | 2007-12-27 13:07 | 新作詩歌(平成19年発表) | Comments(2)

匂い



   『 手の先に 』


見えなくて 言わなくていい  聞かなくて

手探りすれば  匂い導く

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by nambara14 | 2007-12-27 11:37 | 五七五七七系短詩 | Comments(0)

足跡



   足 跡


舞い上がる砂塵の中で
地平が傾き始める
足跡はつづく
はじまりの分子の組成によって
決められた筋書き通りに
冷たい闇の空気を感じながら
熱い金属の芯の連鎖的な分裂を背負いながら
重たい袋から質素な粒子をこぼしながら
軽口を叩きながら
見たこともない高温高圧の内部が盛り上がり
爆発しようとする予兆をかぎつけ
逃げ去った生命体の外観を見れば
たとえば オランウータンの腕
虫取り草の消化液
交尾を済ましたカマキリ
ヒトの声で鳴く九官鳥
一瞬の太陽の光で浮き上がる彩りあざやかな
足跡


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by nambara14 | 2007-12-26 16:30 | 新作詩歌(平成19年発表) | Comments(0)