カテゴリ:詩集・詩誌評等( 14 )

最近の詩集評(13)

谷口典子詩集『刀利』。亡くなった夫のことを書いた詩作品が並ぶ。故人を忍ぶ詩なら珍しくないが、この詩集はもっと生と死を突き詰める鋭い視線がただならぬ気配を感じさせる。「刀利」は夫の故郷だそうだが、その語感も緊張感を与える。「添い寝」は、男女の愛を問い直す怖い程の重厚さに満ちている。 山本萠詩集『寒い駅で』。人、虫、草、花梨、蜂蜜など多くの動植物や静物が細かく観察されるとともに、それらを配した家、庭、駅、川などの情景が丁寧に描写される。命あるものが必ず失われていくのだという溢れる思いが言葉をたぐりよせ、また、言葉が生きとし生けるものを悲しくも美しく描き出す。 北見俊一詩集『S・Iへの私信』『わたしは一本の河を』『自転車にのるひとの脚の素描』『人魚姫』。一挙4冊刊行(箱入)。北見は、詩人であるだけでなく水仁舎の社主でもあり、造本家の本領を発揮した瀟洒な手作りの詩集は、17歳から30歳前後までに書かれた詩篇を収録したものだ。自己を見つめ、他者へ語り掛ける言葉が、独自の詩世界を作り上げている。この時期に過去の詩をまとめて刊行したのはそれなりの理由と決意があったのだと推測する。北見の今後の一層の活躍が楽しみだ。

池田康詩集『エチュード四肆舞』。4行4連の詩ばかりで構成されたエスプリとユーモアに満ちた詩集。壱弐参肆4つの各パートには12篇の詩が収録。こだわりに溢れたスタイルの中に、人生や社会への鋭い洞察が深いポエジーと洗練された言語技術を駆使して描かれる。「淋しい遊びに揺れる/童の影」(参ⅵ)。              長嶋南子詩集『家があった』。罪のない嘘からブラックユーモアまで読者を笑わせとりこにする手練手管に満ちた詩集。生きることと死ぬことにだれしも翻弄されるが、苦しみや悲しみや淋しさもこの著者にかかると笑いに一変する。スピード感があり意外性に満ちた展開。言葉の魔術師の手腕に魅了される。 ヴェチェスラウ・クプリヤノフ&武西良和著『鉄の二重奏』。「鉄」という共通のテーマでロシアと日本の詩人が「響き合う東西詩人:詩的対話」と題して一冊の詩集を刊行した。前半は日本語、後半は英語の詩集となっており、前例を見ない意欲的な詩集の構成が硬質な内容と相まって高い効果をあげている。

小川三郎詩集『あかむらさき』。雑然とした現実世界を特殊な装置でろ過することで得られるのは普段は隠されている人間の感情のありのままの姿だ。人間社会の根底にある不条理が単純化されて描かれる情景は読者に真実を突き付けて恐ろしいまでだがどこかユーモラスなタッチと精密な技巧が救いを与える。

望月苑巳詩集『クリムトのような抱擁』。古典から現代に及ぶ文学、美術、音楽等の幅広い教養が上質の熟成したワインのような香りを放つ詩篇に結実した。紫式部や定家を描く技法も見事だが、さまざまに描かれた「抱擁」こそ、紛争の絶えない世界へのスキンシップの提起として本詩集の白眉をなしている。 今鹿仙詩集『永遠にあかない缶詰として棚に並ぶ』。バッハ、ジャコメッティ、子規など芸術家名の引用、歴史意識、デブリ―、子供のころの思い出、日常の様々な情景、言葉遊びなど、直感に任せて選ばれた詩句の不連続性の齎す意外な危うさと巧妙な語り口が、とんがり効果と独特の魅力を生み出している。


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by nambara14 | 2018-06-10 19:03 | 詩集・詩誌評等 | Comments(0)

最近の詩集評(12)

竹内美智代詩集『聲にのせたことばたち』。『詩人の聲』プロジェクトで聲を撃ち込んだ、鹿児島弁による詩篇。方言はふしぎな力を持つ。串木野が身近に感じられる。「人間なんか 沈んじょいほが うかっよ/じゃっどん とっどっ 浮きゃがっとよ/いっど 沈んと 二度目は こわなかっよ」(「筏」)。

小島きみ子詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』。膨大な書物から溢れ出してくる詩人や哲学者などの言葉を深い思考により濾過し再構成して作られた詩世界は、知的パノラマとしてだけでなく、草花をこよなく愛し育てる自然愛や人間愛に裏打ちされ、観念と感情の見事な釣り合いを示している。

為平澪詩集『盲目』。手を切り落とすとか彼をズタズタに裂いたとか、衝撃的な場面が詩集全体にあふれているのだが、人が生きているということの悲喜こもごもで切実さに満ちた現実が、パワフルで的確で巧みな言葉によって作り上げられた虚構によって逆光のように浮かび上がり、怖いほどに心を揺さぶる。

細田傳造詩集『アジュモニの家』。戦時から現在までの思い出が小気味よいリズムでユーモラスに語られる。よく読むと人間が生きることの悲喜こもごもや苦みや矛盾が鋭く観察されている。戦争、殺人事件、おわい船、エロス、韓国語等が巧みな話芸によって絶妙なエンターテインメント詩に仕上がっている。

丁海玉編『金時鐘詩選集』。一人の詩人の詩にほれ込んだ詩人がとことん読み込んだ上で厳選した詩選集。韓国語と日本語、韓国と日本、韓国人と日本人。デリケートな関係において感じ経験してきた様々な出来事を直視し強靭な精神から発せられる強靭な言葉が読む者の胸を打つ。選者の稀有な情熱にも脱帽。

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by nambara14 | 2018-01-03 21:36 | 詩集・詩誌評等 | Comments(0)

最近の詩集評(11)

松尾真由美詩集『花章ーディヴェルティメント』。森美千代の写真とのコラボ。花を限りなく緻密に観察して具体的な描写をしながらしかも擬人法的な感情の機微がさまざまに語られる。そして花の喜びと悲しみが音や色や言葉を通して抽象芸術に昇華される。徹底して新たな表現を追求する姿勢に圧倒される。

鈴木正樹詩集『壊れる感じ』。男と女の関係が力みのない言葉でさまざまに語られる。性を真正面から見て研究生が写生をするような視点から書かれた詩は意外と少ない。ユーモアも悲哀も喜びもあきらめもたくまずして詩を魅力的にしている。短歌の情感と相まってすんなり読者の心に入って来る詩篇である。

紫圭子詩集『豊玉姫』。対馬の和多都美神社に祀られる豊玉姫と山幸彦は古事記に登場するそうだが、二人の愛の物語が、著者が訪れて聲を奉納した現在の対馬の情景と重なって生き生きと蘇る。ギリシャ神話の神々さえメタモルフォーシスにより豊玉姫と山幸彦と重なっていっそう雄大だ。「遠く離れた場所へ/ひとの思いは飛び火する/神話から/現実へ/精神感応の扉は開かれるのだ/わたくしの体をめぐる血のざわめき」(「デーメーテル、豊玉姫」部分)


細田傳造詩集『かまきりすいこまれた』。なにげない日常の風景はいつのまにか怖い想像の世界に飛躍する。気骨がありユーモアもあり独特の発想をする老人の視点から観察し感じたことを実に軽妙に的確に面白く表現する。冴えわたった詩的感性や意表をついた言葉の使い方に読者は我知らずすいこまれる。


広田修詩集『vary』。哲学的なアプローチとさまざまな技法を用いながら細部にまで詩の表現を徹底させたいという意識と情熱を感じさせる意欲的な詩集。特に、機知に富んだ11の短い詩篇から成る「神話」は印象的だ。(たとえば「昔、とても謙虚な男がいた。……こうして綱渡りが生まれた。」など)


紀の﨑茜エッセー集『うたの森』。詩や俳句とのかかわりを、実作者としてまた読者としての長い経験を踏まえて、しみじみと語る。戦争に係る記事も多いが、決してヒステリックにならずに冷静に事実を見つめる視線が共感を呼ぶ。特に、軍人だった父の負傷についての顛末は切々とした訴えに満ちている。


壱岐梢詩集『一粒の』。肉親(特に母)を亡くした思いを見つめて丁寧に言葉にしていく姿勢が真剣であるので、読者もまた思わず心を重ねてしまう。亡くなった父が半分だけ食べたバニラアイスのカップが冷蔵庫に残っているのを母と見つめるようすは感動的だ(「見つめる」)。「卵が落ちた」も魅力的だ。


中井ひさ子詩集『渡邊坂』。とてもやわらかいタッチの言葉遣いの中から日常のさまざまな情景やひとびととの思い出が浮かび上がる。思いと言葉のギャップがなつかしさや寂しさを呼び起こすが、照れくささがユーモラスな表現をもたらす。やさしさに満ちた視線が、人だけでなく、動植物などにも注がれる。


日原正彦詩集『瞬間の王』。日常のなにげない経験や出来事や情景や思いや出会いがさまざまな問いかけにつながる。現実が言葉と呼応するが、言葉は自立して現実を重層化する。自分をとりまく世界を見つめるとすべてはよくわからないことがわかる。「生」とは深い謎だ。瞬間の王が全てを統べている。


吉田義昭詩集『結晶体』。空を見ても大地を見ても海を見ても科学的な見方をする著者が年齢を重ねて人生論といった観点にも重点をおくようになってきた。全体に落ち着いた調子で著者自身の経験や思いが語られるが、その陰には妻を亡くした悲しみが通奏低音のように奏でられていて思わず胸が苦しくなる。


たなかあきみつ詩集『アンフォルム群』。恐るべく豊富な語彙と横溢し重層化するイメージ。文学、美術、写真、音楽等あらゆるジャンルからの夥しい引用。新聞記事などもないまぜになった複雑な構造の文体を読み解くのは容易ではないが、ある種マニアックで意外性に満ちた展開は独特の魅力を持っている。


吉田隶平詩集『この世の冬桜』。余分な力が抜けて、観察した情景や思いがそのまま言葉に変化しているところに、人生経験の深さと言語表現の妙が感じられる。年齢が高くなっても悟りは開けず、生へのいとおしさと死への恐怖が、箴言のようなつぶやきとして生まれてくる詩のありように強い共感を覚える。


現代詩文庫238『三井喬子詩集』。9冊の詩集からの抜粋。エッセイ。詩人論・作品論。詩表現の多様性と困難性を熟知したうえでとことん実験的な言葉の使い方に挑戦し続けたことがよくわかる。一見すると屈折した表現が多いが、よく読むとその中に潜む人生への深い洞察とやさしい心情が見て取れる。


橋本シオン詩集『これがわたしのふつうです』。「鉄塔の周りで生きた私と、鉄塔のない東京で生きる私の分裂」「泣きながら書いた」「想像のできない二十八歳になるための、私の東京のお作法で、十七歳の私を墓に埋めるための、ひとつの儀式の、詩集なのかもしれない」。心の叫びに耳を傾けるだけだ。


武西良和詩集『忍者』。23篇の日本語の詩とその英訳とからなる詩集。猫や蜘蛛などの動物が簡潔にユーモアたっぷりに描かれる詩篇はしゃれているし、著者の観察眼の鋭さが読み取れる。『Ninja』というタイトルも内容にぴったりしているし、自ら英訳した努力にも敬服を表したい。お勧めの一冊だ。


広瀬大志詩集『魔笛』。伝説や神話や歴史や映画など物語への連想に満ちた詩篇、そして物語の中に人間の生と死を追求する詩篇、さらには言葉の音楽性を追求した詩篇など、貪欲に新たな詩表現を求める試みが様々な形で現れ、それぞれがまた新たな詩想の展開を期待させる大いなる可能性に満ちた詩集だ。



水田安則詩集『八月の家族』。どの詩にもぴりっとするような緊張感とある種の虚無感が漂っている。家族の持つ意味は大きいが、この詩集では父と母、とりわけ亡くなった父のことがくりかえし語られる。いかにも幸福そうな家族像とは異なるのが現実の家族の姿なのだろう。家族の意味を考え直させられる詩集だ。


マーサ・ナカムラ詩集『狸の匣』。恐るべき詩人の登場だ。一見民話風の詩篇は、素朴というより洗練された技巧が凝らされ、単なるお話というより人間の生や死を歴史的に展望するために最も効果的な仕掛けとなっている。非凡なユーモア感覚の持ち主は、人間社会に潜む多くの悲しみや苦しみを見逃さない。


日原正彦詩集『虹色の感嘆符』。既刊詩集14冊からの抜粋。「ポエジーの根幹には抒情が必ずある」。驚くべきは、何十年にもわたって「抒情詩」に拘り続けてきた確固たる詩への姿勢だ。若い頃から最近の詩篇までほぼ一貫して初々しい感性と抒情味が溢れていて、読者に大きな喜びと慰めを与えてくれる。

秋亜綺羅著『言葉で世界を裏返せ!』。詩人として詩集、詩誌、パフォーマンスなど幅広い活躍を示している著者のエッセイ集。ソフトな語り口を通して読み取れる確かな観察眼と文章力は著者の人間としての総合力の高さを感じさせる。さまざまな文章の中でも、特に「秋葉和夫校長の漂流教室」が胸に残る。

葉山美玖詩集『スパイラル』。自己認識や家族関係や恋愛や料理や服装など女性としての関心事が一見素直に描かれているようだが、その陰には女性として生きることの喜びや悲しみや甘みや苦みがたしかに存在することが読み取れる。人生に正面から向き合うことから生まれるけれんみのない詩に共感する。

平成29年12月9日、1年ぶりの『英詩を読む会』。ヤリタミサコさんがボブ・ディランの詩を、イギリス在住の南川優子さんがイギリスの女流詩人パスカール・プティの詩を紹介してくれた。英語の詩を読むことで日本語の詩との違いや詩法や言葉の使い方や文化的背景の違いがわかって実に面白かった。ボブ・ディランが意外と日本の現代詩に似た詩の書き方もしていることを知って驚いた。また、パスカール・プティは、女性が男性との関係で傷つくといつまでもトラウマとなって心身をさいなまれるということをわからせてくれた。



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by nambara14 | 2017-03-06 19:35 | 詩集・詩誌評等 | Comments(0)

最近の詩集評(10)

小網恵子詩集『野のひかり』。「野の空気や光は身体を心をやわらかくしてくれる」。植物への強い愛着は生きることの難しさの裏返しかもしれない。ひととの交流も木や花や公園や湿原など植物とのかかわりで描かれることが多い。静かな観察から時折熱い思いが漏れてくるが、とりわけ「林檎煮」は傑作だ。

小松弘愛詩集『眼のない手を合わせて』。何気ない日常や個人的な思い出などが豊富な人生経験と英知を通して簡潔で親しみやすい詩篇として結実している。「眼のない手」(わたしの手)を「眼のある手」(,千手観音の手)の前に合わせる敬虔な姿勢と柔らかな言葉の陰に謙虚さと優しさと強い意志がある。


坂多瑩子詩集『こんなもん』。日常にひそむ恐怖感や悪意や滑稽さなどをさまざまなひとや動植物や事物を用いたコントのように描いてみせる手腕は一級品だ。巧みなブラックユーモアに思わず笑ってしまうが、同時に、多くの人や物との関わりにおいて生じる複雑怪奇な人間心理に気付いてはっとさせられる。


現代詩文庫『広瀬大志詩集』。詩集〈喉笛城〉、〈髑髏譜〉、〈激しい黒〉など、恐怖に満ちた詩集を刊行し続けて、今や「広瀬ワールド」は現代詩の世界で確固たる存在となっている。生を肯定したいがために、あえて死や不吉で不気味な表現に拘っているのだろうか。散文「ぬきてらしる」には特に惹かれた。


中村不二夫『辻井喬論』。詩人・作家の辻井喬の詩や小説を丹念に読み込むとともに、経営者堤清二としての活動をひっくるめて論じた詩人論。膨大な作品と資料と取材をもとに、個人的な交流も踏まえ、深い敬意と親愛をこめて書きあげられた労作。客観的なアプローチに徹した執筆姿勢には好感が持てる。


長嶋南子『花は散るもの 人は死ぬもの』。21人の物故女性詩人論。与謝野晶子から氷見敦子まで、女性詩人像が詩の引用とともに怖いぐらいにくっきりと鋭くしかもおもしろく共感をこめて描かれている。男は気取るが、女は身を飾るのが身上でもいざとなれば皮ふを剥いで内臓をさらけだせるものらしい。


秋川久紫『昭和歌謡選集』。「恋のフーガ」等20の昭和の歌謡曲を取り上げ、詞・曲及び歌手・作詞家・作曲家について論じた労作。秋川による替歌の掲載は著作権の壁に阻まれたようだが、昭和歌謡曲へのオマージュと分析が平成の文化や社会の状況を打つための契機を与えるという意図は果たされている。


広瀬大志『ぬきてらしる』。穀象をめぐる八つの物語。1862年にアメリカからイギリスに送ったトウモロコシの中にいたコクゾウムシが日本にもやってくる。内外の著名な同時代人や著者の先祖(?)を登場させた奇想天外の物語。あまりのおもしろさとたしかなポエジーに完全に脱帽。まれにみる傑作だ。


山田兼士詩集『月光の背中』。Ⅰ飛鳥・大和に想を得た詩篇、Ⅱ俳回文日詩Ⅲ詩論詩、Ⅳ追悼詩その他。アカデミックなボードレール等の研究者は、軽妙洒脱な詩人でもある。幅広い教養や深い思索をひけらかすことなく、ウィットやユーモアや抒情性に富んだ親しみやすい表現で他者との内なる対話を試みる。

瀬崎祐詩集『片耳の、芒』。明るくて旅情に満ちた水彩画を描く画家でもある詩人。詩集では、絵とは逆に、不条理極まりない人間を究極まで追い詰め、恐ろしいまでの絶望や悲しみや救いがたさや諦念がモノクロームで描かれる。生きることの痛切さが淡い水墨画のように美しく浮かんできて涙がこぼれる。

伊藤浩子詩集『未知への逸脱のために』。フィクションの技法がたしかな現実観察を踏まえて多様なイメージや人物や言葉や知識や教養を自在に操って独自の詩物語を作り出す。ロゴスとエロスを融合した濃密でエレガントな言葉の醍醐味に読者は舌鼓を打つ。著者は言葉のグルメでありかつ言葉のシェフだ。

阿蘇豊詩集『とほく とほい 知らない場所で』。マレーシアとベトナムで日本語教師として暮らした七年間の経験がベースとなった詩集だが、異文化との接触による違和感が誇張されることもなく、日常生活に根差した確かな観察と思いと言葉が差し出される。特に「クラウン・シャイネス」は素敵な作品だ。

武西良和著『詩でつづるふるさとの記憶』。『わかやま新報』に連載した記事のまとめ。詩とその添え書きと写真で構成。地元和歌山の様々な景色や土地やできごとを詩情深くつづった内容は、郷土愛に溢れていると共に、万葉集や英詩など幅広い教養を持つ著者の洞察力に満ちたエスプリに裏打ちされている。


原田道子著『詩の未来記』。独自の視点と表現へのこだわりを持って詩と詩論を書き続けてきた著者の渾身の評論集。言葉と人間社会への関心の強さと豊富な知識や経験が、歴史的な視野の中でさまざまな事象へ向かうとき、詩は新たな意味を求められる。尊敬する先人との対話や広範囲にわたる研究の成果そして丹念に引用された詩作品が、本書の言説を厚みのあるものとし、未来への示唆を与えるものとしている。



尾久守侑詩集『国境とJK』。街や教室で見かけた女性たちとのリアルとヴァーチャルの境目の、少年少女向けの漫画か小説に見られるような、淡い恋心を描いた詩篇が多いが、著者は医師らしく、病院における検査や治療の場面から巧みに独自の雰囲気に満ちた詩空間が作られている詩篇もある。あいまいでとらえきれない生の感覚がやや寂しく切なそうに表現されている胸きゅんの詩集だ。


ジェフリー・アングルス詩集『わたしの日付変更線』。英語と日本語、過去と現在と未来、アメリカと日本等マージナルな時空での自我の分裂感覚が、運命的な言葉である日本語と出会って、「意味と抒情」を兼ね備えた新たな日本語詩として結実した。44歳にしての実母との出会いも強い陰影を与えている。


神原芳之詩集『青山記』。Ⅰは、戦争に係る悲しみや痛みに満ちた詩篇、Ⅱは、様々な花に託して人生への思いをしみじみと述べた詩篇、Ⅲは、多くの人生経験をもとに物語風に描かれた詩篇。おだやかな筆致ながら、人間存在や歴史への透徹した眼力が、深い感慨を込めた詩作品となって読者の心を揺さぶる。




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by nambara14 | 2016-08-11 18:38 | 詩集・詩誌評等 | Comments(0)

最近の詩集評(9)

広田修詩集『zero』。現在は過去とつながっている。目に見えるものも目に見えないものを孕んでいる。時間も空間も謎だ。論理的で体系的で整合的で完璧な表現をめざす私を、理解不可能な鋼鉄の正義をふりかざして追撃するものがある。それが詩だ。異教徒として別の身体を得た私は詩人の覚悟をする。

池田康『詩は唯物論を撃破する』(詩人の遠征7)。雑誌『洪水』の編集者であり詩人でもある著者が、近現代のマテリアリズムの絶望から人間の精神を解放する「生の秘儀」を遂行しうるのが詩であるとの仮説の下に、いくつかの詩篇を取り上げつつ、鋭い読解と論証を試みる、哲学的洞察に富んだ詩論書だ。

平野晴子詩集『黎明のバケツ』。こころの迷子になった夫との日々。繰り返し描かれる排泄の場面。病名を告げられてから七年間は書けなかった現実。ためらいながらも書くことは夫と付き合う大切な方法となっていった。重たい日常を見つめ続ける中で綴られた言葉は、自らに救いを与えるように見える。

「 生きているのを忘れるほどに
 美しい秋の日の縁側
 刈り取られていくオリザが
 かぐわしく匂ってくる

 こんな日は ただ
 吐いて吸って生きていたい」

       (「秋の日の縁側で」最終部分)

宇宿一成詩集『透ける石』。石に関わる詩が13篇、その他が11篇。東日本大震災後の作品を集めた。さまざな災害や災厄が頻発する地球上で いかに平和な国をつなげるかを真摯に問いかけるとともに、一人の人間として詩人としての誠実な思いが述べられる。静かな語り口の中に強い人間愛が感じられる。

 「地球という
  生きた大きな割れ石は
  巧みに命を地上に描き
  またひと噴きで
  消し去ることもできる」

        (「石の息吹」部分)

南川優子詩集『スカート』。イギリス在住の詩人南川の感性は意外性へと向かう。平凡な見方はない。りんごは爆弾、スカートは土を詰めた透明のビニール製、母はタンスだ。斬新で奇抜な発想の詩篇は知的でありユーモアに満ちている。とりわけ「骨」という作品は、人間の生死と情愛を巧みに描いた傑作だ。

日原正彦詩集『163のかけら』。163のアフォリズム集といった体裁だが、実は、短い詩の形で、他者というよりもむしろ自分に向けて話しかけたり答えたりしているように見える。生きることのさまざまな思いや感情が飾りのない言葉で述べられる。そばに寄って黙って頷きたくなるような心境を感じる。


     「花はひらいて己の美しさを忘れ
      鳥は飛んで空の深さを忘れる」

          (「126」最終連)


菅井敏文詩集『コラージュ』。日常生活から社会観察更には人間存在についての哲学的問いかけまでが、ユーモアや諧謔に富んだ言葉遊び詩、巧みなメタファーを駆使した詩そしてきまじめな情感に満ちた詩等さまざまなかたちの詩となって描かれる。骨壷に骨を納める場面を描いた「壺」の描写は実に正確だ。

吉田義昭詩集『空気の散歩』。ガリレオを初め科学者が登場する詩、臨床心理学関係の詩、故郷長崎を取り上げた詩、計20篇を収録。若い頃から高いレベルの詩を書き続けてきた詩人の筆致は、人生経験を積んで益々渋みを増し透徹を極めている。科学を詩と融合させた詩人の面目躍如たるものがある詩集だ。


水田安則詩集『残像』。肝臓病に冒されて亡くなった父の、家や病院での病状の変化を詳細に綴った、極めて重たい内容の詩集だ。今やどこにでもありうる高齢者の病気や介護だが、自分の身に降りかかれば深刻な現実となる。「ぼくの生体生理が/飢餓状態に陥るたび/柑橘の果実をむさぼりつくすしかなかった」(「柑橘の記憶」第2連冒頭)。


原田道子詩集『かわゆげなるもの』。現代の巫女が語る現代の神話といった趣があり、宇宙的な広がりや時間の流れ、人間の歴史、最先端の科学に基づく知見等が、マクロとミクロを併せ持つ巨大なパノラマのように描かれる。「子宮」「ガイア」「美月」等のキーワードが人間をかわゆげなるものにしている。
               
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by nambara14 | 2016-06-11 00:00 | 詩集・詩誌評等 | Comments(0)

最近の詩集評(8)

八覚正大詩集『重力の踵』。退職による無常観に苦しむ自分に向かい合って今後はいかに生きるべきかを熟考して見出した方向性を、ⅠⅡⅢの三部構成の詩篇で表している。特にⅢ部は、自分史を率直に語り、行動と言葉と他者との関係を組み立て直そうとする思いが述べられていて、深い感動と共感を覚える。

倉田良成詩集『こどものじかん』。小学生の頃の授業の様子など子供時代の思い出が活き活きと語られるように見えるが、それはいつの間にか大人になった自分へとつながっている。同時に、今の子供たちへのメーセージにもなっている。昭和時代を慈しむように振り返った著者自身の切なさに満ちた昭和詩集。

望月遊馬詩集『水辺に透きとおっていく』。ファッション誌から抜け出してきたような少女や少年のしぐさや思いが限りなく洗練された言葉で綴られる。水辺は性や生死の象徴としてくりかえし現れる。超絶技巧の修辞に舌を巻く。「詩はいつも故郷として野辺へうちあがり親類の匂いをさせている。」(「距離感の愛へ」から)。

武西良和詩集『遠い山の呼び声』。故郷紀ノ川に戻って畑仕事をしながら、ふるさとや身近にいた人々のことへの思いを丹念に綴った詩集。平易な言葉遣いが、著者の故郷に向き合う真っ直ぐな気持ちを確実に伝える。「おおーい。」と山の畑から向かいの山に叫ぶ声を、読者もたしかに聞き取ることができる。

天童大人『長編詩ピコ・デ・ヨーロッパの雪』。スペインでの経験を中心として旅立つ前の日本でのこと、モスクワ経由でヨーロッパへ向かう道中のこと、コロンビア国際詩祭のことなどが、多くの人々との出会いの中に活き活きと描かれている。名立たる朗唱家の詩篇を文字で味わうのも、耳で聴くのとはまた別の面白さがある。

新延拳詩集『わが流刑地に』。さまざまな経験や知識や教養を踏まえて、過去を振り返り、現在の自分を観察することで、言いようのない人生の寂しさや悲しさが見えてくる(「気がつくと自分自身が流刑地となってしまっていた」)のだが、それらを受け入れて人生への挽歌を歌うことで、むしろ生きる意味を再確認しているように見える。文学、聖書、音楽、美術など幅広い教養と巧まざるユーモアと人懐こい言葉使いが深刻な中身に軽みを与えているのが魅力的だ。

大石聡美第二詩集『Rainingー二人が忘れ去られてゆくねー』。「父の初盆の悲しみをすこしでもまぎらわそう」と手作りで出した詩集。二十代の頃の著者の経験、特に恋や恋心が殆んど脚色されることなく述べられる。雨がキーワードであることを自覚する若い女性のパッションが強烈に伝わってくる。

詩の絵本『ひらめきと、ときめきと。』(詩*秋亜綺羅、絵*柏木美奈子)。「うそ」というキーワードがむしろ真実を浮かび上がらせる。なんという心温まる絵本だろう!伸びやかな詩人の感受性と画家の心優しさがマッチして、人間の心の根底にある「ひらめきとときめき」にあらためて気づかせてくれる。

福原恒雄詩集『友に点の文字』。詩集全体に「点字」が明示的にあるいは暗示的に用いられ、戦時中子供だった著者の思い出が独特の視点から活き活きと描かれる。著者は、点字を打った経験もあるようだし、指で点字を読み取ることもできたようだ。ユーモアが、息詰まるような作品世界に救いを与えている。

金井雄二詩集『朝起きてぼくは』。「詩が一番にあるのではない。生活があるのだ。」という認識が示されるが、生活に喘ぐ中から詩が生まれるという自覚もある。日常生活のなにげない情景や思いがさりげなく描かれる陰には、おそらくどうしようもなく辛くて悲しくてやりきれない経験が隠されているのだ。

神品芳夫『リルケ 現代の吟遊詩人』。リルケの生涯と詩業との関係を丹念にたどることでその人物像と詩作品の全体像を明確に描いた労作。日本におけるリルケの受容の歴史も紹介され、いくつかの詩篇についての著者独自のアプローチや国際化の進む世界に生きる詩人の先駆者としての位置づけも興味深い。

花潜幸詩集『初めの頃であれば』。おそらく悲惨な戦争体験を聞かされて育ったのだろう。それらの辛い過去が著者の時間感覚を微妙に変え、様々な記憶を静かな語り口の物語として表現させるに至ったのだろう。たとえば、「…あの母の姿をまたそっと探してしまうのも、裸になった感情が、手足に孤独をつなぎ合わせて、時々ふとあらわれる卵のように未熟な奇跡を、密かに割ろうとするからなのでしょう」(「時のありよう」から)。

吉田隶平詩集『露草の青のような』。70歳という年齢は、自分の来し方を静かに振り返らせたり、行く末に不安を感じさせたりするもののようだ。なにげないことに生を見出すと同時に死というものを意識すると、自分に言い聞かせるようなつぶやきが漏れる。「一大事なのに/死ぬことに覚悟はいらない」。

小川三郎詩集『フィラメント』。日常に潜む裂け目や虚無感を一見平易な言葉で描いてみせるが、よく読むと、矛盾や反語や飛躍といった高度な表現技巧が駆使されており、言いようのない悲しみや絶望が見事にあぶり出されている。同時に、そこに沈潜することで一種のカタルシスがもたらされる、いわば現代の神話とも言うべき構造を持った新しいポエジーが稀有な魅力となっている。

石原明詩集『風の断片』。「『戦後』という今にして思えば不思議な空間とそこでのキリスト教との出会いを中心にまとめた」詩集。たしかな観察眼と大人たちから聞かされた戦争の話と少年時代の幼稚園での経験がないまぜになって、著者の「生きることへの深い問いかけ」が痛切に浮かび上がってくる。

『現代詩手帖12月号』「2015年 代表詩選」を読んだ。さまざまな物の見方や表現法があることに興味をそそられた。その中で、特に印象に残ったのは、鈴木志郎康さん、北川透さん、近藤洋太さんの詩篇だった。

「大転機に、ササッサー、っと飛躍する麻理は素敵で可愛い。」(鈴木志郎康)は、個人的なことを題材にしているが、詩作品として成り立たせる高度な技巧が凝らされている。難病に襲われた妻と脚の不自由な自分との生活は不安に満ちているはずだが、深刻ぶらずにユーモラスに描いてみせる胆力に脱帽だ。

「なぜ詩を書き続けるのか、と問われて」(北川透)は、神経がぴりぴりする現代社会で多くのひとびとが不機嫌になり、批判的になり、ともすれば攻撃的な言辞を弄しがちになる中で、善悪や好悪や快不快を吹き飛ばすような豪胆さが痛快至極だ。現実に流されずそれをしっかりと見据えているのはさすがだ。

「南羅鼓巷幻聴」(近藤洋太)。北京のアメ横みたいな小路を歩くと、まわりは中国人ばかりだ。彼らの話す中国語は、日本人である自分の耳には、日本語の断片が混じっているように聞こえる。その聞こえ方を、平仮名で記してみせた所が、実にリアルで面白くて説得力がある。アイデア賞といったところか。

丁海玉『法廷通訳人』。法廷通訳人として日本語と韓国語のはざまで苦労する著者の心情がひしひしと伝わってくる。法廷での審理の詳細な描写は短編小説のような迫力がある。詩人としての力量がこのような文章にもはっきりと読み取れる。良識を持った人間は日本にも韓国にもいるのだと感じさせてくれる。

八重洋一郎『太陽帆走』(詩人の遠征6)。物理、化学、哲学、思想、文学などへの幅広い知的好奇心が、「太陽帆船」の宇宙飛行という斬新な表現に如実に表れていて読者を引き込む。575,57577という音律について、小野十三郎を取り上げつつ述べた箇所は、詩歌についての鋭い論評となっている。

山口敦子詩集『文人達への哀歌』。21人の文人達へ宛てた、俳句2句と詩1篇。深い愛着や敬意をもって作品や生涯を辿る独自のスタイルが興味を引く。特に、種田山頭火へ宛てた「燃えつきるまで」は、感極まる。「きっとあなたは 薄紫の蝶となって/私の手となり 足となって導いてくれるでしょう」。
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by nambara14 | 2015-01-04 15:25 | 詩集・詩誌評等 | Comments(1)

最近の詩集評(7)

          
伊藤浩子詩集「Wanderers」。女性の生理に根ざしながらも様々な知的操作を通して鮮明に描かれる悪夢のような情景は、生の謎を解き明かすこともできずに彷徨い続ける人間の宿命なのか、あるいは不条理に満ちた現実を詩によって再構成することによるカタルシスなのか?鋭く問いかけてくる。

森山恵詩集「岬 ミサ曲」。妖精の物語の世界に誘われたかと思うと、とてもシリアスな現実世界が現れたり、宗教的な厳粛さを感じさせたり、水底にひそんだり、言葉遊びが繰り返されたり、心象風景がめまぐるしく変化するが、それらを通じてひとの生きる姿や思いが不思議な透明感をもって描き出される。

北爪満喜詩集「奇妙な祝福」。父や母や祖母と過ごした過去の情景が、いとおしむように丁寧に描かれる。視線は自己の内面へと向けられ、なつかしさと同時に喪失感にとらわれる。ヘアーサロンでの美容師との会話で他者とのつながりを感じるデリケートな感性。わたしの誕生を祝福したのはだれだったのか?

海東セラ詩集「キャットウォーク」。行分け詩、散文詩、ひらがな詩、ビジュアル詩など様々なスタイルを試みる。鋭敏な視覚が対象の動きやかたちや色彩を精密にとらえる、点描画やモザイクのような手法が印象的だ。言葉の印象派と言えるだろう。客観的な描写の陰にほの見える人間の感情が確かに感じられる。

石原明詩集「パンゲア」。エロスと死がシュールレアリスティックに描かれる。愛し合う男女の体も解体されて絡み合う。タランチュラ、アンドロメダ、ラフレシア、サラマンドラ、アンドロギュノス、ブラックホール、パンゲア等想像力を刺激する多くの言葉やイメージや技法が独自の詩の世界を生み出した。

石原明詩集「雪になりそうだから」。だれかに話しかけるようなやわらかな文体で語られるのは、結局は人間の生であり恋であり死であり答えのない問でありノスタルジアであるようだ。ラプラタ河の土手の小さな穴からこの世界に目を見張っている仔ウサギ。そのような視点から丁寧に紡がれた物語だ。

有働薫詩集「モーツァルトになっちゃった」。モーツァルトの音楽に惚れ込み、その生涯をたどりつつ、後世のモーツァルト観もとりまぜた、熱狂的なモーツァルト讃歌となっている。恋人を見つけてはしゃいでいる詩心がほほえましくもありうらやましくもあるが、同時に、生きることの悲しさも感じさせる。

野田新五詩集「月虹」。満を持して刊行された第一詩集。父母や友人知人など今は亡き人々の思い出がしみじみと語られる。どこかさびしそうで人懐こそうな著者が、さまざまな人物のようすやしぐさや口調などを、親しみを込めつつユーモラスに描写すると、いつのまにか読者も深い共感にとらわれてしまう。

中村不二夫著「戦後サークル詩論」。「サークル詩」について、膨大な資料をもとに、戦後における活動を詳細にたどり、多くの詩誌、詩人、作品を紹介する研究書。ハンセン病や結核などの療養所、国鉄等の職場における詩的活動は、政治や社会との関わりにおいて文学を捉えようとする運動だと位置づける。

結城文詩集「夢の鎌」。太陽、月、庭木等を見ると自分が今日まで生きてきた過去を思い出すとともに不確かな未来を思う。若かった父母との思い出、ともに暮らした家族との情景、引越しの時に移植した木々のことなど、花鳥風月を思わせる穏やかな筆致の中で、「夢の鎌」は限りある命の大切さを痛感させる。
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by nambara14 | 2014-09-13 10:28 | 詩集・詩誌評等 | Comments(0)

最近の詩集評(6)

吉田隶平著「彼岸まで ふたたび生まれ来ぬ世を」。人生経験に裏付けられた穏やかで澄んだ心境を短い言葉で表している。箴言集と言ってよいと思うが、著者は、詩でも箴言でもないと言う。「死ぬというのは 椅子はあるのに いつもそこに座っていた人が居ないということだ」(椅子)。

「大田美和の本」。歌集「きらい」「水の乳房」「飛ぶ練習」「葡萄の香り、噴水の匂い」全篇、詩篇、エッセイを収録。女性の強さ、弱さ、身体と感情の大きな変化、率直な愛と性、生活に根ざす確かな目と言葉への限りない愛情。歌人にして英文学者の体当たりの生き方が、多彩で奔放な表現を生み出した。

山田兼士著「萩原朔太郎《宿命》論」。30年近い年月にわたって書いてきた詩集「宿命」についての論考のすべてを収録した労作。現代詩の父とも言える偉大な詩人への深い愛情と尊敬に根ざした類まれな洞察と読解と評価は、朔太郎の全詩業に対して新たな視座と再評価への契機を与えるものとなっている。

富沢 智詩集「乳茸狩り」。森に係わる詩が何篇かある中で、「タイトルポエム」は、里山の送電線や積乱雲や熊の風景の中でのキノコ狩りの思い出が活き活きと描かれている。ノスタルジックな思いが肩肘張らない表現の中でやさしい風のように吹いてくる。「ローマの肉屋」のユーモラスな描写も魅力的だ。

渡辺めぐみ詩集「ルオーのキリストの涙まで」。息苦しくなるような緊迫感に満ちた詩篇群。過剰とも言える感受性が生と死をとらえるとき、強靭さと脆弱さのアンビバレンツが、安易な要約や結論を許さない。矛盾に満ちた人間存在、犬や馬や外界との関わり、更には光さえも、答えは宙吊りになっている。

秋亜綺羅詩集「ひよこの空想力飛行ゲーム」。焼酎が好きだったじっちゃんとの思い出(「かわいいものほど、おいしいぞ」)、校長だった父が人生の節目に息子である自分に語った言葉や自分の危機を救ってくれたエピソード(「秋葉和夫校長の漂流教室」)など、柔らかなタッチから深い詩情が感じられる。

秋川久紫散文集「光と闇の祝祭」。美術、詩歌・文学、音楽、映画、時評その他、幅広い分野についての切れ味の鋭い文章が収められている。美術が26篇と最多で、詩歌・文学が17篇。批評の真価は、批評対象もしくは「本当に大切にすべきもの何か」に対する愛を感じ取ってもらうことにこそあるとする。

長嶋南子詩集「はじめに闇があった」。巧みな語り口に乗せられてどんどん読み進むと、ユーモアの陰にある人間の生の恐ろしさや言いようのない哀しみに出会ってしまう。生きることと死ぬことが共存しているかのような奇妙な感覚を、母や息子や猫等身近な存在を通してリアルに描き出す。卓越した表現力。

野村龍詩集「Stock Book」。メタファーのカタログとでも言えるような徹底した技法へのこだわりが、ときおり、現実感に満ちた呼びかけによって休息を得る。たとえば「手紙」は、Rainer Maria Rilkeと関連付けられながら、ひとりの女性への初々しい想いが素直に述べられる。

海埜今日子詩集「かわほりさん」。テーマも表現スタイルも非常に意識的でオリジナリティに富んでいる。現実と幻想、日常と非日常の境目(たそがれ的な場所)で、言葉をつづる。かわほりさん(コウモリ)は、その最も象徴的な存在であり、特別な親しみをこめて描かれている(「たそがれのばしょ」)。
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by nambara14 | 2014-06-03 19:45 | 詩集・詩誌評等 | Comments(0)

最近の詩集評(5)

小林坩堝詩集「でらしね」。「銀色の街を往く、行きどまりの日常に、足踏みしているおれ、が視える。歩行歩行歩行。」視ることへの過剰な固執が言葉を見つけきれない。言い換えても言い換えても言い当てられない。「言葉では軽すぎる沈黙では重すぎる。」根無し草のような「踊り子に静止はない。」

吉田博哉詩集「夢転」。生死のあわいも生者と死者の隔ても人間と動物の区別も夢と現実の境も、曖昧な幻覚の中にある。詩篇は一言で言えばみな奇談なのだが、言葉が極めて巧みで妙にリアリティがあり諧謔とともに限りない人間存在の悲しみを感じさせる。豚に生まれ変わる「お告げ」など、特に胸に迫る。

山口敦子詩集「芭蕉 古の叙事詩」。芭蕉への深い敬意と思慕が俳句と詩のコラボとして結実した。著者の思い出や経験が芭蕉の句や足跡と自ずから融合して、落ち着いた詩情を醸し出す。半ばエッセイ風に織り込まれる史実やエピソードや知識が詩篇の奥行を深くさせ、読者の感性と知性に静かに訴えてくる。

吉田義昭エッセイ集「歌の履歴書」。詩人でありジャズ歌手でもある著者の詩や歌への思いがさまざまな思い出やエピソードとともに語られる。特に急性心筋梗塞を患い死を強く意識することで自分にとって真にかけがえのないものがなにかが見えてきたようだ。詩、エッセイ、歌への新たな意志が示される。

川島完詩集「森のガスパール」。著者にとって森は身近な遊び場だった。だが、江戸の牢破りを匿った森だったことを知って、森は馴染みの場から深く重いものになった。そこから、森は内外のさまざまな文学や芸術とつながるものとなり、小悪魔意識によるフィクションとしての物語を生み出させた。

渡辺みえこ詩集「空の水没」。幼い頃から死を意識せざるを得なかったようだ。特に父や母や肉親の死が繰り返し語られる。生きることの悲しみや痛みが正確に描かれるとともに、生あるものが死を迎える時の密やかな覚悟が透明な空のように示される。「草原の青空」の中で死んでいくシマウマの瞳のように。

指田一詩集「砂浜 蕪村句を読む」。「砂浜」と「蕪村句を読む」との二部構成の詩集。Ⅰ「砂浜」では、「砂浜に建てた小屋に暮らす男と女とこども。海でとれる海藻や貝を食べ、フネを浮かべる」といった描写を通して、どんなに文明が進んでも人間の原点は食べたり飲んだり眠ったりするところにあるという認識が示される。Ⅱ「蕪村句を読む」では、「蕪村」の句を引用しながら現代社会のありようを多彩に描き出す。ⅠⅡを通じて、高度に発達したかに見える現代社会にひそむ危うさへの文明論的なアプローチが詩集を厚みのあるものにしている。著者の詩人かつ造形家としての感性が発揮されている。

竹内敏喜詩集「灰の巨神」。詩の鉱脈の飽くなき探求者として、古今東西の文学や歴史や逸話などを渉猟するとともに、多くの素材を現代へと取り込んで、新たな詩の方法を試みる。私的な思いも垣間見える「回復期」、技巧を凝らした「善人」など、詩篇の幅の広さは、今後益々の発展を期待させるものである。

中島悠子まとめる「覚書 吉野登美子」。詩人八木重吉の妻であり、歌人吉野秀雄の後の妻であった吉野登美子の伝記を通して、八木重吉の詩や吉野秀雄の短歌そしてそれぞれの人となりや人間関係が丁寧に描かれる。一人の女性像が浮かび上がる。著者の吉野登美子への尊崇の念が確かな詩情をまとめあげることにつながったと言えよう。

倉田良成詩集「山海物語集拾遺」。実体験とさまざまな文学書からのエピソードとが融合されたかたちで語られる。物語は、あの世からやって来る疫神や御霊の仕業と思しき人間の苦悩や怨恨に満ちていながら、同時に災厄を引き受けつつ健気に生きていこうとする人間の前向きな思いが感じられるのが魅力だ。
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by nambara14 | 2013-11-01 22:50 | 詩集・詩誌評等 | Comments(0)

最近の詩集評(4)

星善博詩集「静かにふりつむ命のかげり」。死を正面から見据えた精神の強靭さ。死者、骨、柩、墓、葬列などの語彙がくりかえし使われる。宇宙、人類の歴史、命の受け渡しなど、長い時間軸の中に、個々人の短い生を浮かび上がらせる。死を見続けることでかえって生のはかなさとかけがえのなさがわかる。丁寧に選ばれた言葉は的確で読む者の心を打つ。

山田兼士詩集「羽曳野」。[羽曳野]、[安乗の遅刻]、[萩原朔太郎の詩碑]の三部構成。古代への想念に重なる家族との思い出、還暦を意識する自分の来し方、住まった土地、自分に影響を与えた人々、今は亡きひとびとへの追憶など、穏やかな言葉を通して浮かび上がってくる痛切な感情。芭蕉の句のアクロスティックな活用、朔太郎の詩の引用などさまざまな技巧の陰に、著者の人生の複雑な陰影と深い感慨が見えてくる。

吉田広行詩集「Chaos/遺作」。人間の生のはかなさを自覚するがゆえに愛おしさもひとしおなのだが、しっかりとつかまえようとしても世界はまぼろしのようにしか見えない。この世にはChaosと小さく渦巻く遺作のようなものだけがあって・・・。一瞬と永遠。静謐な知性と気品に満ちた抒情の漣。

近澤有孝詩集「指を焼く」。生まれて以来さまざまな病気に襲われるという試練にさらされ、死を強く意識しながらも、エロスによって生き延びうると感じる。それは、快楽である以上に、血と汗にまみれた切ない痛みや寂しさのようなものであり、運命に翻弄される自分に触れてくれる菩薩のようでもある。

水島英己詩集「小さなものの眠り」。湯殿川の散歩者が紡いだダンディな詩篇群。「今ここ」と「さまざまな時と場所」が重なって立体的な効果をもたらす。家族や友人知人さらには過去の文学者への思いがしみじみと語られる。とりわけ「マングローブの林」は、旅する二人の会話と島尾敏雄への敬愛が巧みに溶け合った傑作である。巧みな引用に満ちた落ち着いた文体は詩集全体に確かな陰影と品格を与えている。

倉田良成詩集「詩、耳袋」(山海物語集の内)。現代の神話作家が日本文学の深い造詣を駆使して作り上げた独特の語り口の奇談、怪談集。現代社会に感じる「魂の帳尻」の合わなさへの違和の作者なりの表現だという。豊富な学識に基づく引用と身近な体験を融合させたホラーは人間の生死をさまざまなエピソードによりすさまじくもユーモラスに描き出す。

田中健太郎詩集「犬釘」。日常も非日常も国内や海外での出来事も穏やかな筆致で描かれるが、仔細にみると、心の内は生のはかなさで揺れ動いていることがわかる。その認識が他者への思いやりや共感に通じるのだろう。時には過激になっても、暴発することはない。誠実に自分と向き合う姿勢が印象的だ。

峯澤典子詩集「ひかりの途上で」。きわめて繊細な感性がひかりを見るとき痛々しいほどの刺激を受ける。自分の存在ははかなくあやうくとらえどころがない。だが、子のために自分の乳房をしぼることで理屈を超えたいのちを実感する。すぐれて絵画的なタッチが精密に人間の光と影を浮かび上がらせる。

坂多瑩子詩集「ジャム 煮えよ」。四コママンガのような趣がある。何気ない情景で始まり、辛辣なあるいは残酷な展開があって、最後はブラックユーモアで終わるといった具合に。死者も生者も融通無礙な夢のような世界は、現実の重圧や不安を軽くしてくれる。「母その後」は、とりわけ切ない笑いを誘う。

日原正彦詩集「冬青空」。家庭、バス停、駅、公園、街、青空など日常のなにげない情景に潜むひとの命の厳しい現実。生まれ生き死ぬという定め。昨日今日明日を静かに見つめ続ける目。愛する妻の死の影にふるえる心が切ない通奏低音を奏でる。読者は胸がいっぱいになりもはや読み進めることができない。
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by nambara14 | 2013-06-26 21:13 | 詩集・詩誌評等 | Comments(2)