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カテゴリ:論考「価値観の研究」第二部( 11 )

 



               『 価値観の研究 』

 
                        = 第二部 =


        
                      南原充士




                平成21年9月







【 目次 】
   
   〔タイトル〕                〔 掲載年月日 〕

1.  朝青龍のこと                H19. 8. 2
2. 赤城農相のこと                    8. 2
3. 無宗教は可能か?                   8.19
4. バカロレア                      8.20
5.「価値観外交」とはなんだろう?             8.24
6. 決断                         8.31
7. 朝青龍問題(その2)                 8.31
8. 価値観の共存                     9. 1
9. 平山郁夫                       9. 5
10.愛国心の問題                    10.13
11.安倍前総理辞任のこと                10.26
12.本屋の利用法                    11.14
13.表現と本音                     11.29
14.人間はみな不完全                  11.29
15.名目GDPの減少                   12.27
16.責任                    H20. 1.14
17.ニュートラルとは?                   1.30
18.議長斡旋                        1.31
19.生老病死                       2.17
20.健康法                        3.25
21.健康法その1=食事篇                 3.26
22.衆参両院のねじれ国会                 3.26 
23.健康法その2=適度な運動               3.27
24.健康法その3=ストレスの解消             3.27
25.健康法その3の2=気の持ちよう            3.31
26.人間ドック                      4.19
27.医師の役割                      4.21
28.情報の偏り                      6.12
29.もぐらたたき                     7.15
30.歴史的なアプローチ                  8.16
31.教育の重要性                     8.19
32.歴史的なアプローチにおける戦争責任論など       9. 1 
33.人物の評価                      9.29
34.人物の評価=その2                  9.30
35.人物の評価=その3                 10. 1
36.人物の評価=その4                 10. 2
37.歴史的な観点から見たアメリカの金融危機の評価    10.14
38.アメリカの金融危機に際して(補論)         10.28
39.田母神、前航空幕僚長の発言について         11.13
40.異なった価値観は常に存在し続ける          12.29
41.デュー・プロセスについて          H21. 1.20
42.言葉と行動                      1.30
43.「生きがい」について                 3.12
44.《ひとはだれも死をまぬかれない》という認識      3.16
45.老いることは悪いことか?               4. 3
46.選択するということ                  4.15
47.アラサー、アラフォーについて             4.17
48.アンケート調査の位置づけ               4.21
49.革命とはなにか?                   4.22
50.世界は今?                      4.23






(注)この論考は、平成19年8月から平成21年4月にかけてマイブログに発表したものを、平成21年9月に、若干の手直しを加えた上、番号順に並べかえたものである。

by nambara14 | 2009-09-14 20:31 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)

1.朝青龍のこと

朝青龍が二場所出場停止処分を受けた。マスコミはおおむねそれを支持しているように見える。
 日本相撲協会の規定に基づいた適正な処分だから、手続き的には問題がないのだろう。
 しかし、反対意見もありうると思う。

 まず、朝青龍が診断書に基づいて巡業に参加しないことについては適正な手続きによるもので問題がない。

 モンゴルでサッカーの試合に出場したことは好ましくはないが、出場停止するほど重大なルール違反があったといえるか?

 巡業とサッカーの親善試合は肉体的な負担が全然異なる可能性もある。

 これまで、朝青龍は何年も一人横綱として相撲界に大きな貢献をしてきた。
 先場所もけがを押して優勝した。
 強い者は価値がある。

 プラスとマイナスを公平に量りにかければ、厳重注意か減俸処分ぐらいで十分だったのではないか?

 二場所も最強の横綱を出場させないなんて、ファンを軽くみている。

 礼儀正しくて弱い相撲取りより、少々暴れん坊だが、土俵上で無類の強さを発揮する相撲取りのほうが価値が高いとも言えるのではないか?

 モンゴル人であることや、モンゴル政府との関係が今回の処分に直接の関係はないと思うが、「横綱としてとんでもないことをした。厳罰に処するのが当然だ。」みたいな雰囲気が世間をおおっているようにも見える。

 果たして、今回の処分が的確だったかどうか?

 冷静に考えてみる意味はありそうだ。
 
2.赤城農相のこと

 赤城農林水産大臣の辞任については、非難轟々の環境の中で追い込まれた決断だっただろう。

赤城農相を弁護する意見はあまり聞かれない。

わが国のひとつの特徴であり、また、危険な点でもあるといわれるのが、付和雷同型の社会であることだ。

 みんなが反社会的とか、道義的責任を果たしていないとか、非常識だとかレッテルを貼ると、それに異をとなえるのが非常に困難になる傾向がある。

 赤城農相のしたことはほんとうに悪逆非道だったのだろうか?

 事務所経費について、ルールに従った情報公開はした。それ以上のことは義務じゃないことを理由に公表を拒んだ。

 週刊誌に領収書の二重計上が指摘されたり、問題がなかったわけではないだろう。

 しかし、金額から言って、辞任に追い込むほどの不当性があったと見るのはいかがなものか?

 法律やルールは守る義務がある。違法行為はきびしく追及されるべきだ。

だが、ルールにないことを道義的な責任だとして追及するときには、おのずから、限度というものがあるはずだ。

 今回、赤城農相は、

「1・ルールにのっとった処理をしたこと。

2.軽微な誤りはあったことは認めて、是正することを約束したこと。」

を主張しつづけて、最後は半ば強制的に辞表を書かされたようだ。

 途中、顔に湿疹ができたことも、マイナスの印象を強めたのかもしれない。

 参議院選挙の敗戦という不幸も重なって、人身御供的な犠牲を強いられたとも言えよう。

 水に落ちた犬はたたけ!という雰囲気がわが国社会には隠然として(歴然として?)存在している。

 悪者のレッテルを貼られたら大変だ。国民全体が敵になりかねない。

 どんな場合でも、冷静さを失わず、公平中立に判断を下す姿勢が肝要だ。

 そういう自分なりの判断をこころがける国民がひとりでも多くなることが、日本の将来を考えると、不可欠ではないかという気がするのだが・・・。





















3.無宗教は可能か?

お盆のシーズンということもあって、テレビでは、仏教関係の特集番組がいくつか放映されている。

ゲストが、仏教や仏像への敬虔な思いを述べるのを聞くと、なるほどという気持ちを感じるとともに、そんなにすんなりと宗教心て持てるのだろうか?という疑問も湧いてくる。

ブッダの教えや生涯のこと、その後の各地へのひろがりのこと、寺院や仏像や曼荼羅などの存在などを知るにつけ、人類には宗教は不可欠なのかという気もしてくる。キリスト教もイスラム教もその他の宗教も実に長く強く世界のひとびとに影響力を持ち続けている。

宗教は人類普遍の精神的な支えなのだろうか?

美術も音楽も文学も、生活習慣も、さまざまな生活の局面において、宗教の影響は陰に陽に見られる。

京都や奈良の伝統文化もひとことでいえば仏教文化といえるだろう。

ミケランジェロもバッハも宗教と芸術が切り離せない。

21世紀の今日、宗教に依存しない精神生活は不可能なのだろうか?

無宗教と自分では思っていても、どこかでなにかを信じているのだろうか?かつて、イザヤ・ベンダサンが「日本教」とでもいうべき日本人の生活規範があるという指摘をしていたように。

ぼくは、これまで、自然科学と社会科学というふたつのアプローチをしてきた。そして、ひょっとするとふたつは峻別困難かもしれないという指摘もしてきた。

しかし、科学的な態度は捨てるべきではないという思いは強い。

わかったこととわからないことを明確に区別することこそ、科学的なアプローチの基本だと思う。

信教の自由は尊重すべきだが、信じない自由も尊重されてしかるべきだ。

「悟りを開く」ということはどんなことなのだろうか?開けないのではないか?という見方もあると思う。

神というものをどうとらえるか?人類にとって最も困難なテーマだと思う。

多くの人は神を見出し信じるようになっている。しかし、少数かもしれないが、神を見出すことができず信じきれないひともいるだろう。

冠婚葬祭がなんらかのかたちで宗教に関係付けられている現実を見ると、無宗教を徹底しようとすると日常生活にさえ支障をきたすかもしれない。

だが、科学的な姿勢を維持しようとするとき、正義や善悪や道徳もまた相対的な価値観であることを忘れてはならないのではないだろうか?

絶対的な価値観は、自然科学においてしか成立しないような気がする。社会科学の領域における価値観は、人類の経験が生み出してきた価値観であって、最後まで絶対化することは困難ではないだろうか?

だからといって、経験的な価値が低いと言うことではない。たとえば、「人を殺すな!」という教えは普遍的で説得力のある価値観だろう。だが、事情によっては、絶対ではないかもしれない。

はたして、そういう相対的な価値観のままで、人間が正気を失わずに生きていけるかどうかはよくわからない。無意識に、なにか超越的な存在を信じて心のよりどころとしているのかもしれない。そのあたりは、まだ科学的に解明されていないような気がする。

「ひとは無宗教なまま生きていけるか?」というのは深刻な問いだが、そういう問いかけをわすれるべきではないと思う。そこに人間の精神さらには人間存在そのものの真の恐怖も感じることになるかもしれないのだが・・・。


4.バカロレア

テレビで、フランスの大学入試=バカロレアのことをやっていた。

文科系のバカロレアでは、哲学の比重が高いそうだ。哲学ってなんだろう?たとえば、「独裁政治家を暗殺することは許されるか?政治と道徳とのかかわりにおいて述べよ」といった問いに記述式で答案を書かなければならないという。社会的な重要な問題について自分の頭で考える力をチェックするのだという。つまり「思考力」を見ようというのだ。

ふと思ったのは、このブログの『価値観の研究』って、まさに『哲学』じゃないか!ということだった。ぼく自身には、哲学を深く学んだ経験もなく、哲学というものへの理解や関心もそれほど強くもってなかったのだが、自分が追求していたのは、要するに、世間でいうところの『哲学』だったのかといまさらながら気づかされた感じだった。

日本の大学入試では、そこまで深く思考力を問う試験は含まれていないのではないだろうか?あるいは、最近の大学入試では変化が見られるのだろうか?寡聞にして知らない。

ぼくの場合は、50代も終わりに近づいてふと思い立って、はじめて基本的な問いかけをして、自分なりの考えをまとめてみたいという気持ちが芽生えた。そして「価値観の研究第一部理論篇」に引き続いて、「価値観の研究第二部各論篇」に着手したところである。

おもえば、遅すぎる「哲学」的思考への挑戦だったかもしれない。

しかし、ひとつひとつの論点をレンガを積み重ねるように整理してみると、次第に自分の思想の体系(まさに、価値観)が見えてくるような気がする。

人間として社会で生きていくにはとても重要なことだとはじめて気がついたような気がする。

深く広く徹底して考察すること・・・そのことは地味で時間もかかる割りにすぐには結果が出ないし目に見える実利も手に入らないことだ。だが、ひとりの責任感を持った人間として社会の一員として生きていくためには、きわめて重要なことだと思う。

『哲学』というと抽象的だが、『人生や社会の重要な問題について、自分の頭で考え、他者と議論することを通じて、思考力を深めるための学問』ととらえればわかりやすい。

バカロレアという試験方法には、日本人も学ぶものがあると思う。

そして貧しいながらも、「哲学」的な思考を続けることへの位置づけを明示されたような気がして勇気付けられた思いである。

 
























5.「価値観外交」とは何だろう?

最近、安倍総理の外交を『価値観外交』と名づけているようだ。マスコミがそう呼び始めたのか、安倍総理のほうで自らそう名づけたのかは知らないが、ちょっとおもしろい呼び方なので気になった。

なにせ、ぼくは、「価値観の研究」を書き続けている人間だ。とはいえ、安倍さんからぼくにはなんの相談もなかったのは言うまでもない(笑)が、ぼくは今まで「価値観」についてあれこれ考えてきているだけに、普通のひとよりは見る目があるかもしれない。

「価値観外交」自体は明確な方針があるようなので、とくだんとやかく言うべきこともなさそうに見える。自由、民主主義、人権、表現の自由、環境保護といった価値観を共有できる国々との関係を強化しようとすることだといわれている。

 しかし、よく考えてみれば、「価値観」を共有できない国々との関係は疎遠になってもかまわないというおそれもある。「仲良し内閣」という批判があるが、国際的にも「仲良し外交」と批判されるおそれはないだろうか?

外交において、親しくつきあえる国々(それが付き合いたい国々とイコールなら望ましいしいが)とそうでない国々を区別して時間と金とモノの選択と集中をめざすということは大切だが、親しくつきあえない国々との関係をいかにうまくやれるかということも外交戦略として考えておく必要があるのではないか?

もちろん、安倍さんは、閣僚やブレインや外務官僚とともにそのへんの戦略はきちんと練り上げてくれていると信じたい。

ぼくがずっと「価値観の研究」でめざしてきたのは、「異なる価値観の共存共栄に向けて!」ということだ。

地理的な位置関係や人種や言語や宗教や政治体制や自然環境や歴史や文化やさまざまな要素が複雑にからみあった国際関係をじょうずにやっていくのはきわめて困難なことだと思う。アメリカが悪の枢軸とかテロ支援国家だとか明言している国々もある。

好きな国、ふつうの国、嫌いな国・・・そういう世界の200ほどの国々との総合的な外交プランが不可欠だと思う。必ずしも国民に公表されている方針だけではないと思うが、「価値観外交」を進めるにあたっては、以上のような点を十分配慮して、偏りのない外交を進めてもらいたいものだ。要すれば、「優先順位をつけるのはかまわないが、切捨ては避けるべきだ。」ということに尽きるだろう。

by nambara14 | 2009-09-14 20:28 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)

6.決断

わからないことをわからないとするのが科学的な態度だと強調してきたが、研究者ならわかりませんですむところを、政治家とか経営者とかはすべてをわかったうえで決断をするのではないところに問題のむずかしさがある。判断にまよいながらも決断を迫られる。決断した結果は次の事態を生む。いい結果ならいいが、悪い結果なら責任を問われる。

つまり、十分な判断材料が得られないままに、最善だろうと信じる決断を下すという局面が社会の随所に見られるというのがわれわれの現実である。

安倍総理の政治的な決断然り!
トヨタやNTTドコモや松下などのトップもそうだ。

外交や防衛や税制もそうだ。金融も福祉も教育もレクリエーションもみんなそうだ。
世の中は、情報があふれているように見えるが、ほんとうに必要な判断材料など十分に集まることはない。

結局、「えいやっ」の要素が残る。

不完全な情報を元に不完全な人間が下した判断が錯綜しながら進んでいくのが世の中なのだ。

だからといって絶望する必要はない。
古今東西、人間社会はそうだったしこれからもそうだろう。

すこしは科学的な判断システムが進歩するだろうから、可能な限り活用すべきだが、過信は禁物だ。

たいせつなのは、人間の持つそういう限界を踏まえて、蛇行しながらも軌道修正を加えていこうとする基本姿勢だ。

よれよれしながらも、ひとつひとつの課題をよりよく解決していこう。まちがったら直していこう。
よりよいシステムや指導者を選んでいこう。と思うだけでも社会は進歩する可能性を残している。

結論的に言えば、

「人間社会は不完全だが改善する姿勢は重要だから、常に最善の決断を下そうと努め、不都合が出れば、勇気をもって修正しようとする考え方を支持し、そういう考え方を実行できるリーダーを選ぶ。そういう『是々非々主義の柔軟な価値観』が尊重される日本であり日本人であってほしい。」




























7.朝青龍問題(その2)

 再び、朝青龍問題をとりあげてみよう。

 こういう具体的な問題に対して関係者がどう対処するか、マスコミがどう報道するか、国民がどう受けとめるか、といったことをスタディするにはいい材料だ。

 本件は、よちよち歩きながらも方向としては、いい方向に進んでいると思う。
 まず、朝青龍の責任問題だが、怪我をしたという診断書に基づいて巡業に不参加だったことは事実であり、責めはない。その間にサッカーをしていたことについては、本来はルール上の問題ではない。道義的な問題だ。相撲はとれなくてもサッカーはできるかもしれないし、相撲協会の規定にもこのような場合についての明確な禁止規定はないという。だから、一種の社会常識でしか判断できない。しかし、社会的な影響の大きさを考慮して、相撲協会では、なんらかの処分をする必要に迫られ、協会の一般的な規定に基づき、理事会で、二場所出場停止、謹慎処分を決定したことはやむをえなかったし、手続き上正当であろう。これも反対意見があったとしても結論は認めざるを得ない。
 朝青龍がうつ病らしき状態になってからのことがいろいろ取りざたされているが、病気のことは医者にまかせるという協会の判断は正しい。もうすこし迅速に判断が下されればベターだったと思うが、前例のないことだし、各方面への影響の大きさを考えれば、慎重な検討がなされる必要があったのだと思う。
 医師の判断を尊重してモンゴルへ帰っての治療がはじまったようだ。とりあえずここまではよかった。

 「甘やかしすぎだ」という意見も多く聞かれる。道義的にはそうかもしれない。だが、朝青龍はモンゴル人だから、日本人の考え方をそのまま当てはめることはすべきではない。言語や習慣や文化の違いを踏まえて対処すべきである。親方の指導にも不十分な点があったようだし、相撲協会の処分にも内容的には疑問が残るだろう。相撲協会の保守的な体質が問題として浮かび上がったともいえよう。

 感情的な面を除けば、いちばん問題は、朝青龍の功績が正当に評価されていないことではないだろうか?

 長期間、ひとり横綱として優秀な成績を収めつづけたことはもっともっとほめられていい。相撲は強いのが一番だ。先場所も朝青龍が優勝したのだ。その朝青龍を二場所も出場停止にするなんて観客無視の決定だともいえよう。

 外国人の力士がこれだけふえたのだから、相撲協会も指導方針やさまざまな慣習を見直す必要がある。

 朝青龍は、せっかくの機会だから、精神面もまた肉体面も含めて完全に治してからまた勇姿を見せてもらいたいと思う。

 力士のあるべき姿、外国人力士の適切な処遇、協会のあるべき姿、国民に愛される大相撲の発展、マスコミの報道姿勢など見直すべきことは多い。

 今回の事件をよい教訓として、相撲界がいい方向に向かって改革に取り組んでくれれば、幸いだと思う。





















8.価値観の共存

 人類の歴史が教える知恵を最大限活用して世界に最大限の平和と繁栄をもたらすようにするにはどうしたらいいか?これが価値観の共存共栄であり、この研究がめざすところである。

 キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、ユダヤ教などの宗教や、資本主義、社会主義などの政治経済体制、人種や言語などの違いや歴史的な経緯などを乗り越えて、共存することこそ人類にとってもっとも望まれるところだ。

 つまり、複雑な要素を踏まえて、人類にとって最大のプラスを導くような解を求めることが重要なのだ。複雑な方程式を解いて解を求めることがたいせつだ。その方程式は、常識とはちがった解をあたえることがあるかもしれないが驚いてはいけない。

 具体例をあげよう。

 テロ対策法の延長問題だ。

 日本は、国内問題を処理すると同時に国際的な対応もうまくやらなければならない。国際社会でいきていかなければならないのだから。

 戦争放棄が可能ならそれにこしたことはない。だが、残念ながら今の国際情勢においては、方程式には政治、外交、経済、貿易、協力、援助などと並んで軍事という変数が存在する。つまり平和の維持のための戦争という矛盾に満ちた変数があるのだ。

 国家間の利害調整のために国連などの国際機関が存在する。できるだけそのような国際機関の機能によって問題が解決されるのが望ましい。しかし、現実はなかなかそうはいかない。

 現実は、さまざまな利害が錯綜している。それを大義名分という仮面や衣装が覆っている。表向きは正義だが内実は利害だ。

 そういう国際政治の力学の中で、最善の答えを出そうとしているのが現実の外交であり戦争であると見てよい。

 テロ対策法の延長はきわめて重要だ。個人的には延長すべきだと思うが、それはそれとして、国会で慎重な審議のうえ適切な結論を出してほしい。

 外交はガーデニングのようなものだといわれるようだが、雑草が生えれば取り除き、病気が発生すれば消毒したり、病変部分を取り除いたりする必要がある。それを怠ったり、タイミングが遅れたりすると、重大な事態を招く。常に個別の事柄に対して最善の対応をとらなければならない。基本方針ももちろんたいせつだが、日々起こる大小さまざまな事態に的確に対処していくことが大きな流れの中で方向を誤らないためにはきわめて重要なことである。

 安倍内閣のかかえるいろいろな重要事項や閣僚のスキャンダルなど安倍総理は心労が絶えないと思われるが、こまめに雑草を抜いていく辛抱が必要だ。大胆にして細心の決断と実行が望まれる。

 イラク問題にしても北朝鮮問題にしても、たいせつなのは、彼らをいためつけることではない。硬軟両用の戦略を駆使しながら、共存共栄できる一致点をもとめることである。気に入らない同士でも、いかに衝突を回避して生きていけるか?それこそ真に求められる方策である。

 「異なる価値観の共存共栄」こそ忘れてはならない重要な視点だと思う。

 そのことを重ねて強調したい。













9.平山郁夫について

 きょうのテレビで平山郁夫のインタビューの場面があった。
 それによると、平山は、新たに、シルクロードの大作にとりくんでいるのだそうだ。

 平山は、尾道の出身で、被爆体験もあるらしい。その暗い体験が根底にあって、彼の美術に影響を与えてきたそうだ。美術とは楽しくてひとびとに喜びを与えるものであってほしいという思いと原爆のつらくて重い苦しみ悲しみとをどうとらえたらいいのか?

 瀬戸内海にしまなみ海道ができたときに、平山は水彩画で橋のスケッチをたくさん描いた。そんな抒情的な小品の名手でもあるが、今回は、ローマから中国さらには日本へと延々と続くシルクロードを絵巻物のように描こうという壮大な試みである。

 なぜシルクロードか?

 かれは、答える。

 「さまざまな宗教や文化や人種のちがいをこえてひとすじにつながるものがシルクロードにはある。波乱万丈の歴史の痕跡を残すシルクロードの各地の遺跡や遺産。それを描くことを通して、異なるものをつなぐ一筋の糸を見出したい。」

 そんな趣旨だったと思う。

 ぼくがかかわっている「異なる価値観の共存共栄」というテーマとも合致していて、ひどく興味をそそられた。

 今後の制作の進捗状況を期待しながら見守りたいと思う。





10.愛国心の問題

 一国の国民が愛国心を持つことは至極自然なことだ。だが、それを強制すべきかどうかとかどのように表現すべきかという点については微妙な問題がかかわってくる。

 最近のある英字新聞の記事(キャスリーン・パーカー)によれば、アメリカ大統領候補者のひとりバラック・オバマが、スーツの襟につけるアメリカ国旗のピンを外すことに決めたそうだ。

 パーカーは、オバマのこの決断について賛否両論がありうること、そして、さまざまなシンボルの持つ意味について敷衍して述べている。

 オバマは、9.11事件のあと直ちに国旗マークのピン(日本語的には、バッジと訳したほうがわかりやすいか)を付けたが、それが『真の愛国心』の代用品に過ぎなくなったと感じたとき外したという。

 ひとびとは、キリスト教者であることを示すために、十字架のネックレスをしたり、魚のピンを襟につけたりする。あるいは、ガンの犠牲者や環境保護者との連帯を示すために、色のついたゴムのリストバンドを付けたりする。

 パーカーは指摘する。

 シンボルはシンボルに過ぎないけれども、それは無意識の情緒的な部分に訴える。

 アメリカ国旗は、単に愛国心を意味するだけではない。それは、ひとつの思想を意味し、アメリカ人の思い出を全体的に呼び起こすものなのである。

 オバマはアメリカ国旗のピンをつけても必ずしもよりよい愛国者にはなれないかもしれない、しかし、
よりよい政治家にはなれるかもしれない。

 ざっと以上のようなことが述べられている。

 アメリカという国における国旗の意味は相当に重たいようだ。だから、オバマ候補者の行動も大きな波紋を投げかけたのだろう。

 日本ではどうだろうか。日本人にとっての日の丸国旗の意味はアメリカとは違った意味でデリケートな位置づけがなされているように思われる。

 憲法といい、テロ対策といい、愛国心といい、国家の基本的な重要問題だけに、国民の意見も分かれるし、対立は根深くなりがちだ。こうした問題の解決策を見出すには国民全体の英知と辛抱と理解と協力と譲歩が必要だと思われる。

by nambara14 | 2009-09-14 20:25 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)

11.安倍総理大臣辞任について

 多くの反響があった安倍前総理の辞任劇も福田新総理の誕生とともに少しずつ沈静化したようだ。

 突然の辞任について、整理しておきたい。

 臨時国会冒頭で所信表明演説をした直後に辞任したタイミングの悪さについては異論の余地はないだろう。
 では、参議院選挙で大敗を喫したときに続投を宣言したことについてはどうか?
 「美しい日本」を標榜して、自らの政治理念を実行に移そうとする意欲の表れと受け止めれば、あながち責めるのもいかがなものか?

 小泉政権を支えた後、その後継者として、また父の成し遂げられなかった総理としての職を全うしたいという思いは強いものがあっただろう。

 安倍さんの政治家としての資質を問題にして、そもそも総理に選んだのが間違いだったという意見もあった。果たしてそうだろうか?

 閣僚の不祥事が続出したのは不運だったが、安倍さんの致命的な欠陥ではなかったと思われる。

 安倍さんの政策はどう評価すべきだろうか?小泉さんの政策を継承しつつ、靖国問題などでは修正も加えていた。基本的には、正しい方向に向かっていたと言えないだろうか?

どうやら、突然の辞任の理由は、健康状態の悪化にあったようだ。

健康状態をコントロールできなかったのが責任重大といえばそうだろう。
だが、全力で総理という激務をこなす中で損なった健康まで責めるべきではないと思う。

人間には事故や病気がつきものだ。暗殺されるおそれすらある。

安倍さんを責める前に、システムを整備するべきだろう。

総理が健康状態を悪くして辞任せざるをえなくなった場合にどう対応するかをきちんと決めておくべきではないだろうか?

生身の人間が総理大臣をやっている以上、不測の事態への備えが不可欠だと思う。

さいわい福田総理の誕生により、わが国の政治も新たな軌道を走り始めた。

民主党との関係はきびしいものがあるようだが、福田流の自然体でいまのところまずまずうまく政権を運営していっているように見える。

 安倍さんも政治家を引退したわけではない。
 なにかにつけて、批判されることは避けられないだろうが、これまでの献身的な貢献をゼロと評価して、「政権を投げ出した無責任総理」みたいな歴史的位置付けをするのはあまりに酷だと思える。

 安倍さんの無念さに思いを致し、「ごくろうさまでした!しばらく休んでまた元気になって政治家として活躍してください!」というのが、心ある国民のとるべき態度だと僕は思う。
















12.本屋の利用法

 インターネットでの情報収集が格段に便利になった現在、本や雑誌の存在理由はなんだろう?

 自分の経験で言えば、人間は動物であるので、五感を活用したい。そういう観点からすれば、アナログ的な情報の触れ方も重要だ。デジタルとあいまって総合的な情報収集が可能になるのだと思う。

 手にとって見るということの意味は衰えない。
 ページをめくる。ざっとめくったりぱらぱらめくったりゆっくりめくったり。好きなところで立ち止まったり。バッグにいれて持ち歩いたり。寝転がって読んだり。自由自在に扱える便利さは印刷物にかなわない。電子ペーパーなるものが開発されているようだが、それはかなり利便性をますかもしれない。

 人間の記憶力には限界があるから、いずれにしても、本やインターネットやPCに情報をたくわえておく必要がある。

 必要なときに取り出しやすいようにすることもたいせつである。

 書物は、自分の部屋だけでは限界がある。特に、ぼくはスペースのせまい自分の部屋に多くの資料を置いておきたくない。

 そこで、本屋に行くと、どんな本があるかをざっと見渡す。いろいろなジャンルの本が次から次から出版されるのに驚く。全部を読もうとか、把握しようとかは無理な時代になってしまった。

 自分がどうしても読みたくて購入する価値があると思える本に限って購入する。

 あとは、図書館に行ってどんな本があるかをチェックする。そのなかで、興味のあるものがあれば借り出す。ほんとうに必要な部分はコピーをとるか、メモをとる。

 このようにして、極力、手元に書物を置かないように工夫して、快適な読書に努める。

 ときたま、自分がなにを学ぼうとしているのか、なにを書こうとしているのかを考えてみて、情報の優先順位をつけてみる。

 すると、本屋に行っても、膨大な質量の書物の洪水に押し流されることなく、比較的冷静に書棚に向かうことができる。あの本はあそこにあるんだな!要るときは見にきてやろう。立ち読みですめばすまし、買わなきゃすまないときは買う。

 本屋にある本は、一種の図書館だととらえると気が楽になる。もちろん、返本されて書店の店頭から姿を消す本も多い。そういうリスクも念頭においておく必要はある。

 所詮、情報の一部しか追えない。

 でも、重要性の優先順位さえ間違えなければ、どんなに情報量がふえても対応できるのではないかという気がしてきている。

 知の追求にこだわったアリストテレス並というわけにはいかないが、ぼくは自分の器量のなかで「知の追求」を続けていきたいと思う。
 















13.表現と本音

建前と本音という言葉はよく使われる。

 また、思ったことや感じたことをそのまま表現せずに、言い換えたり、やわらかな言い方をしたり、遠まわしに言ったりするということは、生活の知恵としてしばしば見られるところである。

 筒井康隆、星新一、宮部みゆきなどのSF作家も、読心術や読唇術などあるいはそういう能力を持った超能力者をしばしば作品に登場させる。

 それだけ、人間は思ったことをそのままは表現しないということだ。

 先日、テレビで、星新一の原作らしいが、オウムを肩につけた人間が丁寧にしゃべるとそのオウムが本音をしゃべるというコントみたいなものが放映されていたが、まさにそのへんギャップをうまくとらえたものだと感心した。

 たとえば、セールスマンが、「おいそがしいところ恐れ入りますが、この製品はとても便利なのでぜひお買い上げいただきたいと思います。」と言うと、
 オウムが、『あんた、暇そうだなあ。この製品は非常にいいものだから是非買ってくれ。』と言う。

 客が、「主人と相談しませんとはっきりしたことは申し上げられません。」と答えると、オウムが、
『こんなものいらないよ。早く帰れ。』と言う。

 なかなか辛らつだが、笑いを誘う。

 今回は、人間の言葉をそのまま受け取れない場合が多いということについて考えてみたい。

 それは、やはり、人間関係を円滑にやっていくための生活の知恵と言えるだろう。
 隣近所とか、職場とか、買い物とか旅行とか、役所とかさまざまな局面で、社交辞令や敬語や婉曲表現が求められる。

 では、本音と表現が限りなく近くなるのはどんな場合だろうか?

 やはり家族だろう。とりわけ、夫婦関係。

 恋人同士でもかなり親しくなれば同様だろう。

 親しき仲にも礼儀ありといわれるぐらいだから、それなりの配慮は求められる。

 親友とは、家族に次いで本音に近いことが言えるだろう。

 つまり、人間関係の濃度や深さや距離に応じて、言葉の丁寧さは比例的に変化する。

 関係が遠くなればなるほど、本音と表現がかけはなれていく。

 このように、頭の中にある「考え」や「感情」が具体的に発せられる「言葉」や「しぐさ」や「表情」と乖離があることを踏まえて、他者の言葉を解釈する必要があるわけである。

 たとえば、有名な「京都のおちゃづけ」も、京都人の冷たさと受け取るべきではなく、
京都人の表現方法と受け止めれば、腹も立たない。

 念のため説明を加えておけば、よその家を訪問した客は、原則として、『お茶漬けでも食べませんか?』と言われる前に、帰るのが礼儀だと言うことだが。

 ちなみに、詩や文学をやるものはこういうギャップに敏感なはずである。

 比喩とか婉曲表現とか象徴とかの表現技術が駆使されるわけである。

 あまり上手でない文学者は、そういう技術が十分身についてないと言えるだろう。

 文学者じゃなくても、そういう表現と本音のギャップを念頭においておくことは無駄ではないと思う。
14.人間はみな不完全

 防衛省の不祥事を見ていると、やはり人間は誘惑に勝てないものだという思いを深くする。

 防衛省のトップになるというのはたいへんなことだ。きわめてすぐれた人材だと見てよい。

 それでも、あのような贈収賄事件の当事者にあるのだから、世の中はおそろしい。

 おそらくはじめは小さな誘惑だったのだろう。やがて、徐々に大きな誘惑へとステップアップしていった。感覚は麻痺した。気が付くと後戻りできないところまで来てしまった。

 いまごろ、なんでこんなおろかなことをしてしまったのか!と悔やんでいるに違いない。失うものが大きすぎる。

 一般に、ルールは守るために作られる。だが、完全に守られるルールもありえない。
かならず、ルール違反が生じる。その場合、どのような制裁を加えるか、どのように強制力を確保するかが重要な問題になる。

 賢い人は、違反した場合の制裁とメリットを量りにかけるかもしれない。少々の罰金なら払ってでも、ルール違反による利得の確保に努めようという発想だ。

 また、車のスピード違反に見られるように、10キロオーバーならとりしまらないだろうという不文律がある。

 ルールのあてはめには常に灰色部分がつきまとう。公平さを確保したいが、警察官などの人員には限りがある。全部の違反をつかまえきれない。すると、違反度が高い場合や、たまたま運の悪いものがつかまるということになる。

 国際的に見ても、国連憲章や国連決議に違反した国に対して、制裁をかける例がある。
 それが実効力をもつかどうかが鍵だが、今は、アメリカなど強国の個々の力による制裁が目立つ。

 罪刑法定主義という考え方がある。基本的にはいまの日本でもそうである。

 ところが、アメリカがテロとの戦いということで、外国を攻撃したとき、はたしてなにに基づき、なにに違反したことをもって攻撃理由になったのかが問われたことがある。
 戦争は国家間のものだったのに、急にテロ勢力を相手に戦争できるという大転換がなされたのだった。これはかなり「超法規的な」措置だったと思う。

 ことほど左様に、人間社会は、国内、国際を問わず、あいまいな部分がある。個人的な身近な人間関係でも、杓子定規にはいかない場合がいくらでもある。

 人間は100点じゃない。80点、50点、30点千差万別だろう。

 そういう不完全な人間が集まって作っているのが国家であり社会だ。

 だから、ルール作りもたいせつだが、同時に、その運用にあたっては、人間のもつ不完全さを十分に考慮に入れて、適切に実施されるように工夫する必要があると思う。

 不完全なのは罪ではない。不完全だからといって罪の意識を持たなくなることが罪であるとおもう。
不完全な人間同士が知恵を出しあい、協力し合って、住みよい社会を作っていければいいなと思う。

 







15.名目GDPの減少

 きょう(平成19年12月27日)の新聞各紙の報道によれば、2006年の日本の名目GDPは、4兆3755億ドル。前年比4%減。世界に占める割合は、9.1%で、24年ぶりに、10%を割り込んだとのことだ。(内閣府26日発表)
 また、国民一人当たりの名目GDPも、OECD加盟国30カ国の中で18位と前年の15位から下落した。
 その理由は、円安やデフレ脱却の出遅れで名目経済成長率が伸び悩んだことが背景にあるという。

 こういう危機感をあおる報道姿勢は、新聞の常だ。

 改革の遅れが最大の停滞理由だというのは間違っていないと思うが、日本はこれまで、延々と諸改革を実施してきたのではなかったか?特に、小泉内閣などは、「改革内閣」といってよかったと思う。

 だとすれば、こうした日本の経済の伸び悩みはある程度避けられないものなのだと考えて、冷静に現状分析をしたうえで、現実的な成長路線を模索する必要があるのではないか?

 高度成長期のようなわけにはいかない。中国やインド、ロシアやブラジル(いわゆるBRICs)に加えて、ASEAN諸国やその他の開発途上国もめざましい発展を遂げつつある中で、日本の相対的な位置づけは過去とはまったくちがっている。

 いたずらに焦りを誘うことなく、可能な範囲での、プログラムを練り上げるために、まず政府レベルで政策立案や予算、金融、税制、その他の総合的な重要な課題について、有識者をまじえて十分論議を尽くす必要があると思う。その上で、新たな日本の目指すべ指針を策定する。そして、各省庁、民間のさまざまなセクターが連携し、協調をとりつつ、現在の日本の身の丈に合った着実な成長戦略を構築し、推進すべきだと思う。

 このような衰退傾向があらわれると、概して、浮き足立った議論が展開されがちだが、そういうときこそ、落ち着いて、現状を見据えた、的確な政治や経済運営がなされることを切望するものである。

by nambara14 | 2009-09-14 20:23 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)

16.責任

 「責任をだれがとるか?」は、さまざまな局面できわめて重要である。

 年金保険の問題で、被保険者の台帳をきちんと管理していなかったことへの責任とか、
血液製剤によって肝炎にかかった患者が発生したことへの責任とか、食品の賞味期限をごまかしたことへの責任とか、国家のレベルから個人的なレベルまで、実に多岐にわたって責任問題は発生する。

 責任はいくつかの類型に分けて考えることが出来よう。
まず、法的責任。これは、法律によって一定の義務を負っている者がその義務違反を行った場合とか、一般的に禁止されている行為を違法に行った者が発生した場合とかに、その責任を追及するというものである。たとえば、納税義務を負う者が不正に脱税したときとか、ある者が無免許で車を運転したときとかである。このようなときは、比較的責任の所在は明確なので、責任も問いやすいし、責任の取り方もはっきりしている。

 しかし、道義的責任とか社会的責任となると、それがあいまいになりやすい。
 土地買収の達人が、立ち退きを迫ってうまく立ち退かせたことにより、その一家が家庭崩壊に至り、前途を悲観した主人が自殺してしまった。というようなケースでは、法的責任は問えないとしても、やり方がえげつない場合であれば、世間からは「なにもそこまでやることはなかったのじゃないか!」というような批判を浴びるおそれがあるだろう。
こういう場合は、責任があるのかどうかも不明確だし、責任の取り方もあいまいである。

 ちいさなところでは、二人の友達にそれぞれ「あいつがきみの悪口を言っているよ!」と告げ口をしたら、ふたりがけんかをして相手にけがをさせてしまった場合など、どこまで責任をとるべきかの判断はむずかしいだろう。

 社会保険庁の問題にしても、大臣、次官、長官、局長、部長、課長、係長、係員など、多くの関係者がいて、しかも人事異動で何代もの職員がかかわってきているので、だれが責任を負うべきかの判定がきわめてむずかしいようだ。だからといって、責任追及の努力をやめてしまってもいいというわけではない。根気よく調査を続けていくことが求められるだろう。この場合も、法的責任を問える範囲とか、罰則の適用について的確な判断が求められるだろう。

 責任と一口で言っても、以上のように、事情はさまざまである。きちんと場合分けをして、事実関係を整理したうえで、だれにどれだけの責任を問いうるかを決定し、ペナルティを与えるという手続きが必要だと思う。

 法律レベル、社会レベル、その他のレベルにおけるなんらかの判断基準と判断しうる能力と権限(または権威)を持った者の存在が求められると思う。ヒステリックにならずに、公明正大な措置をとれるだけのシズテムと人材が。

 責任逃れを許さないためには、多くのひとびとの健全な協力が不可欠だと思う。























17.ニュートラルとは?

 人間関係についての難しさは今更言うまでもないが、最近、自分が個人的に経験したことをもとにすこし考えてみたい。

 (1).歯医者でのこと

 定期的に通っている歯医者がある。歯科医師は異動があるので、いつも同じ医師に診てもらうわけではない。
 最近、また虫歯が一本発見された。毎日超まじめに歯ブラシをしているぼくにはショックだった。で、どんな感じですか?と聞いたところ、糸切り歯がべろのほうから虫歯になっているとだけ答えた。もっとくわしく、どこがどんな具合に虫歯になっているのかを具体的に知りたいぼくとしては、鏡を使うとか図解するとかしてほしいのだが、一向にそういう気配がない。

 それ以上、しつこくしてもいいことはなさそうなので、追求するのはさけた。
 医師の説明不足という問題は、医師と患者の間の「説明内容のくわしさ」について見解の相違があることもひとつのポイントかもしれないと思った。もちろん、専門的すぎるとか、言葉が足りないとか、手間をかけるのをいやがっているとか、ほかにも問題はあるだろうが。

 (2).蕎麦屋でのこと

東北地方産のそばを使ったそばが好評な店。ひとりで入れば、相席がふつうだ。
ある時、ぼくがあるテーブルにすわっていると、あとから来たひとりの女性がななめ前に座った。何気なく顔を見ると、なかなかの美人。年のころは30代前半か。コートの下は白いセーター。
 内心、これはラッキーと思ったが、その女性は、会釈らしきものもなければ、笑顔もなく、こちらに対する遠慮がまったくない。ぼくがいやらしいおじさんに見えたのだとしたら自業自得だが。

 さて、このような場合、まったくこちらの存在がないかのように無視した態度をとっていることに対して、どう受け止め、接したらよいだろう?

 腹を立てるのはばからしい。やはり、そんなものだとあきらめ、こちらも相手の存在がないかのようにたんたんとそばを食べることに集中すべきであろうか?

 そういう態度をもって「ニュートラル」といえるだろうか?

 (3).電車の中でのこと

 通勤電車は押し合いへしあいだ。いろいろな人に出会う。記憶に残るのは当然いやな乗客。
 このまえは、ぼくが立っている脇に来た女性が、座席の隙間に持っていた小さなバッグを置いた。
 6人がけだったので、7人がけにすべきだという主張をこめていたようだ。
 やがて、ある駅で、ぼくのまん前の席が空いた。当然すわろうとしたぼくの前に、バッグを取ろうとする振りで、その女性がするりと滑り込み、唖然とする僕の前ですわってしまった。
 こういうひととは絶対付き合えない。こういうひとがいたら、ニュートラルどころか、遠ざかろうと心に決めた。

 (4).集合住宅でのこと

 ぼくの住む集合住宅でのこと。毎日顔を合わせてもあいさつをしないひとも多い。こちらが積極的にすればいいのかもしれない。エレベーターに乗ったときだけは、あいさつをすることにしている。
 あと、年下のひとがあいさつすべきだという古臭い考えにとらわれているのがいけないのかもしれない。若いひとたちが、毎日だまってすれ違っていくのはあまりいい気持ちがしない。しかし、時代がかわり人間関係が希薄化したのかもしれないし、いちいち腹を立てるのもどうかと思う。
あいさつもどういう場合にどういう相手にどんな感じでしたらいいのか、考えるとなかなかむずかしい。
 自然体で行くべきか?この場合は、ニュートラルというのがあてはまるか?

 (5).職場でのこと

 これまで、いろいろな職場を経験した。挨拶がよくかわされる職場もあった。逆にほとんどしない職場もあった。
 あいさつの仕方で、その職場の雰囲気はわかるような気がする。
 あいさつは人間関係の潤滑油としてとても大切だと思う。
 それでも、少子高齢化とか家庭教育の変化とか危険な人間との接触の回避とか諸般の事情により、あいさつはしない方向へ変わっているような気がする。
 家庭、地域、職場、学校などいろいろな場であいさつの仕方を教えたり、あいさつをしてみせることが必要なのかもしれない。
 人間関係の深さによって距離感を変えたらいいのだろうか。
 ふつうの相手には、「ニュートラル」ということで!



























18.議長斡旋

 ガソリン税の暫定税率をめぐる与野党の折衝が難航していたのでどうなることかと注目していたら、衆参議長のあっせんによって、一応の解決をみたようだ。

 衆議院と参議院のねじれ(多数派が異なっていること)による、法案成立の遅れは国民生活に悪影響を及ぼしているが、別の見方をすれば、徹底した議論がなされるとも見ることができる。

 いざとなれば衆議院の優位を定めた憲法により、再議決という方法もある。

 そうした中で、衆参議長があっせんに乗り出したことは、問題解決の一つの有力な手法として注目してよいと思う。

 なんでもないことのように見えるが、デッドロックに陥った問題は、第三者的な立場の者が間に立って当事者の意向を聞きながら、妥協点を探るというやり方がもっともよいアプローチだと思う。

 その意味で、今回のあっせんは関係者の知恵を感じさせるものであり、今後のよい先例となることが期待される。

 日経新聞の私の履歴書は、今月は、前FRB議長のグリーンスパンが書いていたが、彼もまた、与野党がいろいろなかたちでコミュニケーションをとることの重要性を指摘していた。

 譲りにくい立場も、だれかが仲介役になってくれれば、譲りやすい。メンツを失わずに、妥協する名目を与えてくれるからだ。

 日本の政治も経済も、不透明な時期にある。こういうときこそ、日本人の英知を集めて、前向きに協力していくことが必要だと思う。

 だれが考えたのか知らないが、衆参議長の役割と努力に敬意を表したい。

 

19.生老病死

 いかに生きるかとか、生きるための最低条件とか、生きるための努力とか、生きるための競争とか、生きるための戦いとか、生きることにまつわる議論はこれまでにかなり深く論じてきたが、病気や死については、かならずしも十分に論じてきてはいないことに気がついた。

(1).死について

 古今東西の歴史を振り返ると、人間が死をどうとらえるかは意外と単純ではないことに気づく。
 今でこそ、死を恐れ、死をまぬかれようと必死の努力をすることが当然であり、否定されることはないが、時代によっては、主君や王のために命を投げ出すことが潔いとされたことは多々あった。殉死とか殉教とか言う言葉は、それをよく示している。

 お国のためにとか親兄弟のためにとか国民のためにとかの大義名分で喜んで死んでいったひとびともきわめて多かった。本音がどうだったかまではよくわからないけれども。恐怖にかられたひとびとがいてもふしぎではなかっただろう。

 死にたくないという今なら当たり前の願望も、時代や社会環境によっては卑怯者扱いをされたことがあったという冷厳な事実を忘れてはならないだろう。

 死についてもやはり「価値観」があり、「死生観」というものをしっかりと考えておく必要があると思われる。だれも死をまぬかれないが、いつ死ぬかは不明確な場合が多い。そこで、殺しもまたひとつのビジネスになりえる余地が生じる。

 死ぬのが恐い、死にたくないと言うものが多い中で、死を恐れないものや死を恐れてはならないと説くものがいると、疑問を感じたり、尊敬の念を感じたり、圧倒されたりする。

(2).老いについて

 老いもまた、避けられないものだ。
 老いて、体力が低下し、病気にかかりやすくなり、社会的地位も失い、収入も減少し、外観も衰え、加齢臭や口臭も強まり、記憶力や知力も衰える。アンチエージングや不老長寿の薬や魔法に頼りたくなるのが人情だろう。だが、老いは確実にやってくる疫病神だ。しかし、老いるだけでは緊急の危機感にはつながらないだろう。やはり、危機感は、病気や怪我によって現実のものとなるだろう。

(3).病気や怪我について

 風邪のように治る病気ならあまり深刻にならなくて済むが、脳梗塞とか心筋梗塞とかがんとか命にかかわる病気にかかったときは、そのひとの人生が一変する。一般的には、死が迫ってくるという恐怖感ほど強いものはないだろう。あとどれだけ生きられるかを医師に告げられて錯乱状態に陥るものも多いと思われる。
 世界が暗く見え、精神は重く沈みこみ、いたたまれなくなって夢遊病者のように歩き回るかもしれない。あるいは、絶望のあまり、精神に異常をきたすかもしれない。泣き喚いたり、家族や他人に当り散らすかもしれない。
 医療システムは、そうした多くの病者を受け入れ措置することが求められる。体が不自由になれば、死ぬ前に介護をどうするかが重大問題になる。病者は介護者を巻き込まざるを得ないわけである。こうして、好むと好まざるとにかかわらず、病気にかかることが、大きな不安と重荷を自他共にもたらす。
 一般的には、病気になれば、医療費がかさみ収入は減る。死ぬまで生きることのたいへんさが目の前に襲ってくる。
 怪我によって骨折などをして、それが重い障害を残すことがある。その場合もまた、病気による肢体不自由者を取り扱うときと同様の問題が生じる。ただし、死ぬおそれについては、差し迫っていない場合もあるかもしれないが。

(4).自分に死がせまったときの対応について

 死期が迫ったと思われるときに、どのように対処すべきかは、簡単には論じられない。
 哲学や宗教にもかかわる深遠な問題だと思うからである。
 しかし、現在のごくふつうの人間の立場から見れば、死の恐怖感は、重すぎて正常な感覚では受け止めることは出来ず、おろおろしてそれこそじたばたすることが予想される。そういう情けないような、覚悟仕切れないような、泣き喚くような、ありのままな感情をすなおにあらわしていいのだと、そう考えたい。潔く死んでいくことがかっこいいのだなどと考えなくなった多くの現代人の本音を肯定するような軟弱さを認めようじゃないかとお互いに言えればいいと思う。

 死にそなえて、遺言を書いたり、さまざまなことを整理しておくことは必要だろうが、死ぬ覚悟などできるはずがないのであって、死ぬ覚悟ができなくても決して恥ずべきではないということをはっきりさせておくのは、ひとつの重要な社会的知恵だと言ってよいのではなかろうか。




























20.健康法

 人間は一般的には長生きしたいと思うだろう。

  不老長寿の薬とか長生きの秘訣とか加持祈祷とか歴史をさかのぼると、さまざまな生への執着事例が見られる。

 運命は過酷でいたずらだから、現実は想像を絶する数奇な生老病死の列伝であり博物館である。

 ピラミッドもミイラも始皇帝の兵馬俑も古墳も永遠の権力といのちへのあくなき欲求のあらわれだとみることができよう。かの藤原道長は病に冒されたとき、長寿を願ってひたすら念仏を唱えたという。

 現代文明のもとで、人間の命はどこまでわかったのか?

 素人向けの医学書もたくさん出版されているので、目をとおしてみると実に参考になる。

 情報はたいせつだと思う。特に、最新の科学的な情報が。

 そういう情報をもとに「健康法」を一口で言えば、

(1).バランスのとれた食事

(2).適度な運動

(3).ストレスの解消

 の3つに集約できると思う。

 それで、気になるのは、「ストレスの解消」ということだ。

 これは肉体と精神の両方の要素があるように思える。

 精神作用については、脳の物理的な作用だとらえるのが有力な考え方だと思うが、精神が肉体と独立して存在しうるかどうかについては現在でもなお完全には証明できていないらしい。

 それはともかく、気の持ちようで人間の体の健康が左右されるというのは面白い。
 特に、免疫力に大きな影響を与えるらしい。

 笑う門には福来る・・・というのは実に科学的に見ても真理である。

 笑えば、免疫力も高まり、病気にかかりにくくなり、健康になる。健康になれば、やる気も出て、公私共に充実した毎日を送れる。長生きもできる。

 科学万能の時代を迎えたように見える現代社会においてもなお精神世界が重要な役割を果たしているというのはふしぎなことだ。

 考えてみれば、この宇宙の生成や生命の誕生など、謎そのものなのだから、人間の存在やいのちが謎に満ち満ちていてもなんら不思議ではないのかもしれないという気もする。

by nambara14 | 2009-09-14 20:21 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)

21.健康法その1=食事篇

 健康法その一は、「バランスのとれた食事」だ。

 食事をすると、口・胃・腸・すい臓・肝臓などの働きで食物は消化される。

とりわけ、ブドウ糖・脂肪・たんぱく質を安定して摂取するには、肝臓の代謝機能がたいせつだ。

食物から吸収した栄養を材料にして体細胞が必要としている栄養を必要に応じて調製することを代謝というらしい。

したがって、栄養の加工・貯蔵・供給機能を担っている肝臓はきわめて重要な臓器であるということになる。

 肝臓は、脂肪の消化を助ける胆汁も作り、胆嚢を通して十二指腸に分泌する。

 肝臓は、アンモニアなどを分解する。つまり解毒作用だ。

 肝臓は、ブドウ糖を血管に供給したり、貯蔵したりする。

 肝臓からの栄養は、血液によって細胞に与えられる。血液は心臓によって全身に送られる。

 わずか1,2分で血液は全身を駆け巡るというのだからすごい。


 心臓から肺に送られた血液は酸素を受けとってまた心臓に戻る。

 栄養は酸素によって燃やされてエネルギーを細胞に供給する。

 そのような血液の循環が人体を生かしている。

 したがって、必要な栄養をとるためには食事がキーポイントなのである。

 動脈硬化がさまざまな生活習慣病の元凶だが、食事の取り方でずいぶん変わってくる。

 水分の補給も血液のほどよい濃度を保つために重要だ。

 以上、雑学としての「食事の重要性」である。
 





























22.衆参両院のねじれ国会

 連日、マスコミでは、衆参両院のねじれ国会について報道がなされている。

 わが国にとって重要な法案や人事案件が決まらないということは深刻な問題であることに異論はない。

 だが、冷静に見れば、これらはすべて「想定内」の事態だと言えば言える。

 なぜなら、民主党は、反対のための反対をしているように見えるにせよ、合法的な範囲で行動していると見ることができるからである。

 ルールにのっとった反対行動はそれなりの政治的な狙いを持っていると見ることができ、いたずらに批判すれば言いというものではないと思う。

 日銀総裁の問題は、現行制度に問題があることをあらわにした。制度改正を検討すべきであろうが、直ちにはできないので、ねばりづよく折衝するしかないと思う。

 それにしても、武藤氏のあとに田波氏を推薦してきたのは、与党にも読みの甘さがあったかと思われる。もっと承認をえやすい候補者を選ぶべきだっただろう。

 ガソリン税の暫定税率も同様である。民主党の動きを見れば、安易な妥協をする気がないことは明白である。

 衆議院で再可決する手がないわけではないだろうが、更に混乱を深めるので慎重であるべきだろう。

 こういう情勢下では、与党のサイドも従来とはちがった振舞い方が求められる。それが的確に行わなければ、政治的な混迷はいよいよ深まるおそれがある。

 おそらく、民主党の小澤一郎代表は、長年の野望実現のチャンス到来と見ているに違いない。つまり、このねじれをテコに政権を手に入れようと画策しているはずだということである。

 それには、国会運営をデッドロックに乗り上げさせ、衆議院の解散に追い込むのが最善であろう。

 一種の「賭け」に出ていると見ることができるだろう。

 民主党も国民の信頼を失うような愚挙には出られないだろうし、与党もまた、可能な限り、政策の実現のために与野党の合意形成の努力を進めるだろう。

 今後の展開は読みにくいが、国会議員に英知と責任感があれば、過度に心配する必要もないかもしれない。

 いずれにしても、マスコミがあおりたてるような混迷にあるわけではなく、それなりの合理性の中で観察可能な現象であることに留意すべきだろう。

 もし、ルールさえ無視した暴力的な行動が出てくれば、国民は立ち上がるべき時が来たと言ってよいだろう。

 総選挙になれば、国民が重大な責任を負うことになるわけだから、慎重に事態を見守り、適時適切に意見を表明すべきだろう。

 
 













23.健康法その2=適度な運動篇

 適度な運動が、健康にいいことは言うまでもないだろう。

ちょっと思いつくだけでも、次のような利点がある。

(1).摂取した栄養を的確に消費するのに役立つ。
(2).インシュリンなどの分泌を促進し、体調を保つ。
(3).神経伝達物質やホルモンの分泌を促し、体調を保つ。
(4).血液の循環をよくし、体細胞のすみずみまで栄養を供給するのに資する。
(5).筋肉を強化することで、活力を維持し、血糖の取り込みを促進する。
(6).内臓機能の維持に資する。
(7).骨の機能維持に資する。
(8).よい姿勢を保つことに資し、健康の維持にプラスになる。
(9).精神的にも安定をもたらし、ストレスの解消に資する。
(10).脳の感覚野、運動野などの刺激を通して、脳と体の各部位との連携を活性化する。
(11).運動そのものが快感を与える。

 そのほかにも運動のメリットはいろいろあるだろう。

 年齢や体の状態に応じた適切な運動をする限りプラスである。
 ただし、無理な運動や過激な運動は逆効果であることも当然だろう。

 要は、自分にあった運動の仕方を工夫して適度な運動に努め健康維持に努めることがたいせつだということだろう。

 たとえば、大きな病気や事故により、健康になんらかの問題を持つひとの場合は、そういう条件を踏まえて可能な限り運動をすればいいということになるだろう。





24.健康法その3=ストレスの解消篇

  健康法の第三として、ストレスの解消についてふれたい。

 これもまた、目新しいテーマではないが重要である。
 ストレスの解消は、おそらく脳の働きとのかかわりが重要だと言ってよいと思う。
 ストレスが少なければ、脳の働きがよくなり、神経の伝達もスムーズで、ホルモンのバランスもよくなり、感情も安定して、食欲もわき、消化もよくなり、内臓の働きも円滑に行われ、血液も望ましい成分を包摂してすみずみまで速やかに循環する。
 筋肉も円滑に動き、睡眠も十分にとれ、生活習慣病からも遠ざかる。病気のおそれも低下し、長生きする。楽しい毎日が送れる。いい循環が生まれる。

 いいことずくめだが、では、ストレスの解消方法にはどんなものがあるのだろう?

 個人差があるから、バリエーションがいろいろあるだろう。

たとえば、

(1).楽しいことをする。

好きなスポーツを楽しむ。公園を散歩する。旅行をする。趣味を楽しむ。
音楽を聴く。歌を歌う。絵を見る。本を読む。映画・演劇を見る。テレビを見る。勝負事をする。ラジオを聴く。気の合う人としゃべる。食事をする。酒を飲む。
恋愛をする。などなど。

(2).休養をとる。

 十分な睡眠をとる。仕事を休む。休息する。何もしないで過ごす。
   リゾート地でぶらぶら過ごす。のんびり景色を眺める。ぼんやり考える。
   なにも考えない。などなど。

(3).ひまつぶしをする。

   電話、メール、インターネット、などの活用。

(4).創造的なことをする。

   絵を描く。楽器を演奏する。文章を書く。陶芸作品を作る。
   などなど。

(5).社会的な貢献をする。

ボランティアで奉仕作業をする。介護・掃除・教育・寄付・技能活用・エンターテインメントなどなど。

 そのほかにもいろいろストレス解消の方法はあるだろう。

いずれにしても、自分なりのメニューを用意しておいて、うまく気分転換をしたり、元気を回復するためのオーダーメイドの方法を取り出せるようにしておくのは有意義なことだと思う。

















25.健康法その3の2 気の持ちよう

 ストレス解消法はひとそれぞれで、千変万化だと思う。

 科学的な根拠のある方法から、信念や迷信みたいなものまでいろいろあるようだ。

 そういう中で、個人的に有益だと思ったのは、前にも触れたことがある、渡辺淳一著「鈍感力」である。

 このエッセイは、医師でもある作家の立場から、「なにがあってもくよくよ気にしないことが健康には一番」ということを、さまざまな具体例をひいて説明したものだが、実にわかりやすくて説得力がある。

 いまやわが健康法のバイブルとでもいうべき位置づけである。

 ほかに、「笑いが遺伝子を活性化する」ということを科学的に証明しようとした科学者がいる。村上和雄氏である。よしもと新喜劇のお笑い芸人とのコラボレーションにより、糖尿病患者の血糖値の変化を追いかけたものだそうだ。

 拙詩集「笑顔の法則」というタイトルもそこいらへんにヒントがあった。

 また、実際に長生きしたひとたちがどんな健康法をとっていたかも貴重な情報だと思う。
 ある本によれば、泉重千代氏の健康法は次のようであったそうだ。

 「長寿世界一(当時)は、泉 重千代。慶応元年6月29日生まれ。昭和61年2月21日没。)(1865-1986)。120歳237日。

 (フランス人女性カルマンが、122歳164日で亡くなったのが過去最高らしい。)

  泉重千代翁による長寿十訓は以下のとおり。

 (1).万事、くよくよしないがいい。
 (2).腹八分めか、七分がいい。
 (3).酒は適量、ゆっくりと。
 (4).目がさめたとき、深呼吸。
 (5).やること決めて、規則正しく。
 (6).自分の足で、散歩に出よう。
 (7).自然が一番、さからわない。
 (8).誰とでも話す、笑いあう。
 (9).歳は忘れて、考えない。
(10).健康は、お天とう様のおかげ。

(ご先祖さまに感謝)                        」

 あたりまえのことが並んでいるようだが、なるほどと納得できる点もあると思われる。

 人間の心と体は密接な関係にあるので、結局ストレスの解消は心身ともにプラスの効果を与えるといえるだろう。

by nambara14 | 2009-09-14 20:19 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)

26.人間ドック

 病気の予防には、健康診断がひとつの有力な手段であることはいうまでもない。
 人間ドックと呼ばれる健康診断方法は、わが国でもかなり定着していて、毎年きわめて多くのひとびとが受診していると思われる。
 けっこう費用がかさむのが難点だが、いのちにかかわることなので、ある程度の負担はしてもいいと思うひとも多いのだろう。
 ちなみに、「ドック」という言い方は、船が点検修理を受ける場所がドックなので、そこから来たのだと思われる。
 さて、人間ドックの検査結果を見ると、多くの検査結果が基本的には数値で出る。正常な範囲が決まっていて、そこから外れると、マークがつく。重大な場合は、再検査や精密検査を指示される。
 普通は、数値が悪いと言われると、病気になったような不安に襲われるだろう。そこが問題だと感じられる。
 ある医師が言っていたことだが、検査結果にも、すぐにいのちにかかわること、将来的に病気につながるおそれのあること、病気ではあるが命にはかかわらないこと、など、いろいろなケースがあるということだ。
 
 わかりやすく言えば、がんかがんでないかだ。がんだと診断されたら、重大な病気なので、全力を挙げて治療をし、受けなければならない。しかし、がんではない場合には、それほどシャカリキにはならなくてよい。生活習慣病なども、急に命を失うわけではないので、とりあえず、食事に気をつけたり運動をするようにしたりというような基礎的な対応をすることになる。

 実際に、脳梗塞や心筋梗塞が起これば大変なことになるわけだが、なかなか予防しにくい病気もあるだろう。したがって、人間ドックの際も、できるだけ、命にかかわる程度を明確に受診者に伝えるべきだと思う。いずれにせよ、老化により病気にかかりやすくなるのは避けにくいだろうと思われる。そこで、検査の重要性はますます高まるわけだ。

 素人は難しい説明では理解困難だ。
 検査結果の数値の持つ意味を簡潔に、たとえば、このぐらいの異常はたいしたことないからほうっておいてよい。一年後にまた人間ドックを受ければいい。とか、がんのおそれがあるときはすぐにきちんと再検査を受けるべきだとか、がんが見つかったときは、できるだけ早く手術、放射線治療、抗がん剤治療をすべきだとか。とにかく、心配すればきりがないので、異常があっても、重大性によってはっきりと生命への危険度を分類し、重篤なものは先に措置するようにし、中ぐらいの悪性や危険度を持つ異常には、一定の期限までに再検査を受けるよう指導するとか、分りやすい説明が望ましい。

 あまりたくさんの異常を指摘されて頭が混乱し、それをフォローしようとして、ますます落ち込み、病気になってしまうというのは最悪の成り行きだと思う。

 ひとりの人間が、精神的にまた肉体的に同時に対応可能な数はそう大きくないと思う。

 したがって、医師サイドからは、どうしてもフォローしておくべきポイントを2つか3つに絞って患者を指導するべきものと思う。

 人間ドックが病気の早期発見と治療に大きな役割を果たしていることは認めつつも、人間が数字に振りまわされすぎるのが問題といえば言えるだろう。

 その辺は、医師や看護師など医療機関サイドと受診者サイドの上手なコミュニケーションの図り方や指導方針の明確化によって改善されうるのではないかと期待される。

 
 












27.医師の役割

 病気について、一般人は、患者にしかなれない。病気と治癒と半病と後遺症と障害と苦痛と昏睡と死と。
 しかし、医師は、治療することができる。この差は、天と地ほどの差がある。

 医師は、患者の命をあずかる。握るのである。

 患者は、命永らえるために、医師にすがる。ひれふす。懇願する。崇め奉る。服従する。

 そこに生まれる上下関係、一方的な依存関係は、医師にとっては自尊心を満たすとともに、重圧でもあるだろう。

 医は仁術だが、医師もまた、生身の人間であり、患者にもなりうる弱いひとりの人間である。

 全力で治療に当たろうとしても、時間的体力的気力的限界がある。

 そこに問題が発生するおそれは常にある。

 やはり、病院側が、すぐれた医師や看護師を確保し、効率のよいシステムを構築し、患者に対して的確な医療サービスを提供することが基本だと思うが、同時に、患者への説明が十分になされることが求められる。時間が限られているなら、なんらかの補足的な方法をもっと充実させるべきであろう。説明書とか参考書とかDVDとか、相談コーナーとか、工夫すればやれないことはない。患者側の費用負担もある程度なら可能だと思う。「この本がいいですよ」と医師が勧めれば、よほど高価なものでない限り買い求めて一生懸命に読むだろう。

 忙しくて大変だとは思うが、やはり、医療の中心は医師である。医師のほうから、さまざまな指示やヒントを与えてくれなければ、患者はうろうろするばかりだと思う。

 医療従事者のみなさまよろしくお願いします!

 ところで、わが主治医ともいうべき医師がくれたペーパーをもとにたわむれに、いやまじめに、短歌形式にまとめてみた「医師の弁明」ともいうべきものがあるので、参考までに載せておきたい。

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       (ある医者の弁明)

   
   診察は すぐに済むけど 準備して 責任もって 診断してる

   たくさんの 患者を診れば 時間ない 結論先に 伝えているよ

   いのちには かかわらないこと 後回し 深刻ならば きっと処置する

   まず検査 それから診断 運悪く 病気があれば 治療しますよ

   限られた 時間の中で 精一杯 命を救う わたしは医者よ!


















28.情報の偏り

 情報化社会といわれるように、最近、われわれの周りには膨大な情報があふれている。
 新聞やテレビやラジオ。雑誌や単行本や文庫。インターネット。CDやDVD。屋外広告や交通広告。映画、演劇、コンサート。デモ行進。立会い演説。口コミ。など。

 できるだけ多くの情報を集めて利用しようとする態度はたいせつだろう。
 だが、その際に非常にたいせつなことがあることを忘れてはならないと思う。

 つまり、情報は、自然にまかせておけば、必ず偏りがあるということだ。バイアスがつきものだ。

 たとえば、新聞やテレビのニュースが一般的には多くのひとにとって身近で主たる情報源だと思うが、ニュースというものは、本来、異常な事件や事故を優先してとりあげる性質がある。昔から言われているように、「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛めばニュースになるのである。」

 すると、漫然とテレビや新聞を見ていれば、ひとは、現実以上に悲惨で危険で薄情な世界に生きているという意識を持つこととなる。凶悪犯罪ばかり見せられれば、世の中には、犯罪者ばかりいて、毎日あちこちで殺人事件が起きているような気がしてくるはずである。

 サブリミナル(潜在意識)効果を活用した広告や世論操作や犯罪がよく話題になることがあるが、まさにこれなども、無意識にある情報に誘導される好例と言えよう。

 では、どうしたら、そのような負の圧力に屈することなく、客観的で中立的な情報の収集や分析ができるかといえば、ニュース性はないが、明るくて楽しい話題をたくさん集めたり、友人知人などと明るい話題を交換したりすることにより、世の中全体の現状把握に努めるという方法があるだろう。

 たとえば、殺人事件は年間何件起きているかとか、一日になおしたら何件かとか統計的なアプローチも有力かもしれない。アンケート調査結果なども参考になるかもしれない。

 なぜ情報の偏りが怖いかというと、そのことにより、現実認識を誤り、判断を誤り、結果として、国民全体の不幸につながるおそれがあるからである。場合によれば、世界のひとびとへも悪影響を及ぼすおそれもあるし。

 そこで、できるだけ多くのひとびとが、意識的に情報の収集、処理をすることを提案したい。

 暗いニュースもあるが、明るいニュースもあるはずだ。報道されないからといって、生きる喜びを感じさせくれるニュースもないわけではないだろう。

 もちろん、暗いニュースから目をそむけることを推奨するつもりはない。通り魔殺人事件などについては、原因究明を徹底して行って再発防止策を講ずべきであることは言うまでもない。

 しかし、同時に、あまりにもひとびとの危機感をあおることは、社会安定上好ましくないことも否めないと思う。夢も希望もない社会はだれにとっても生きる意味に乏しいだろうから。

 そのへんのバランスをうまくとっていくことが望ましい態度ではないだろうか?















29.もぐらたたき

 北海道洞爺湖サミットが終わった。その成果については、さまざまな評価がありうるが、私見では、なかなかのできだったと思う。

 しかし、現実は、予想以上にドラステイックに変化する。

 サミットの大きな枠組みとは別に、マーケットはグローバルにまたローカルに刻々と移り行き、息を継ぐ暇もない。

 最近、日本の国民にも物価の上昇は身にしみて感じられるようになってきた。これはあきらかに「深刻な事態」である。
 政治は、こういう事態に的確に対処することが求められるが、実際問題として、どうしたらいいかなかなか有効な対策は見出せないかもしれない。

 地球環境問題という最大のテーマがある。
 しかし、目の前に、物価高が迫り、消費生活や医療や教育など、重圧が加われば、かっこいいことは言っていられなくなるおそれがある。なりふりかまわずということである。もちろん、そういう事態は避けたいのは当然だが。

 およそ、政策には体系がある。優先順位があり、予算がある。計画がある。そういう、ステップを着実に踏むことで政策は着実に実行されるはずである。

 しかし、現実には、災害が発生し、事故がおき、国際的な摩擦や衝突がおき、病気がはやり、テロがおき、陰惨な犯罪がおき、自殺者が相次ぎ、異常気象で作物が不作になる。

 経済はシュリンクし、生活はどんぞこに転落する。ひとびとは夢を失い、すさんだ表情の大衆が呆然とたたずみ、時には暴徒化する。これは最悪のシナリオだが。

 さて、ひとつの道は、とりあえず、決まった計画を地道に実行することだ。現象面だけ見て、パニックに陥れば、人心は混乱し、確実な経済活動が危うくない、国民生活も不安定になる。

 もうひとつは、目の前にふりかかる火の粉をすばやく的確にはらうことである。

 そうすることで、大きな火事になることを防ぐことができる。むずかしくても、最善を尽くすことがたいせつだ。

 原油高が大きな問題だとしたら、それへの緊急対策を政府は打ち出すべきだ。完全ではなくても、そういう姿勢が国民に安心感を与えるから。もぐらたたきみたいなことでも、たたかないよりはいいのである。

 すみやかな、対策の樹立と実施が待たれる。


























30.歴史的なアプローチ

 人物の評価の難しさは、前述のように、情報の制約や評価の主観性という制約によるものであるが、それは結局は、評者による同一人物評価の多様性につながる。

 たとえば、入社試験の面接の場合、役員、部長、課長、担当者などの間で評価は別れうるだろう。

 社内の昇進についても、人事にかかわる役員や社員の評価は必ずしも一致しないだろう。

 このような場合は、通例、決定のルールが決まっているので、それによって問題なく決定できる。

 しかし、家族や友人知人などの間では、統一的な評価基準はないし、そのような必要もないのだろう。

 恋愛・結婚・出産・成長・老化・病気・けが・離婚・死別などの段階がある。

 それぞれの段階で、さまざまな人物評価はなされるが、必ずしも、決定はなされないまま、事態は進行する。あいまいな人物評価が複数存在したまま人生が終わるわけである。

 多くの民衆は、その人物像や評価は歴史に登場しない。しかし、それらの無名の民衆の人物評価が集団として、地域や社会に影響を及ぼすことはまちがいない。

 したがって、権力者の場合のように、資料や伝記がそろっていなくても、ある時代の人物評価についての一般的な見方を支えていた有力な勢力として群衆をとらえる必要はあるかもしれない。

by nambara14 | 2009-09-14 20:17 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)

31.教育の重要性

 新聞やテレビのニュースは、事件や事故を優先するということ、および、情報の中立性を保つには、それなりの努力、たとえば、自分の周辺から得られる情報、統計やデータ、公益的な立場から発表される情報、法律などのシステムなどの情報を自分なりに収集し整理しておくというようなことが必要になるということ、についてはすでに述べた。

 ここでは、情報を正確にとらえるためには、教育が一つの大きな鍵を握っているということに触れたい。

 人は生まれてからずっとなんらかの環境のなかで生きる。

 はじめは、家族。
 隣近所。親戚。
 友人・知人。
 保育園・幼稚園。先生や園児。
 小学校、中学校、高校。生徒や先生。
 大学、専門学校、大学院。学生や先生。
 職場。同僚。取引先。顧客。
 恋愛。恋人。

 などなど。

 さまざまな事態に直面したときにどう判断しどう行動するかを学ぶことはたいせつだ。
 そのためには、先人の知恵は重要だ。そして、もちろん、最新の科学的な情報も。
 歴史的な経緯や利害関係や民族や人種や言語や宗教のちがいも。
 さまざまな要素をトータルにとらえれば「価値観」ということになる。

 「価値観」を学ぶことこそが、成長するにつれ大きな力となる。

 新聞やテレビの事件、事故の背後にあるものを理解するためにはそれだけの知識や理解力が求められる。

 教育は、さまざまな段階や機会に行われる複合的な総体だ。

 たとえば、親があいさつをしないなら、子供もしない可能性が大きい。
 あいさつというような基本的なことは法律的な義務ではないが、社会生活のうえではきわめて重要なマナーだと思う。最近の日本人のあいさつの欠如は目に余るものがあるが、そうした問題点は、国民全体が問題意識を共有し、解決していく必要があると思う。

 ひとりの人間が「価値観」を形成していく上で、教育は重要だ。教育のしかたで、その価値観は磨かれもするし、さび付きもする。

 そして、教育は、するものがされる立場にもなりうる。相互に学びあうという姿勢も望まれる。

 日本をめぐる最近の世界情勢はけっして楽観を許さないと思う。そういうときほど国民のさまざまな能力が発揮されることが必要になる。明確な価値観をもって自信をもってさまざまな困難に対応していくためには、教育を重視して、際物の報道にふりまわされない判断力を身につけることが非常に重要なのではないかとあらためて思う。

















32.歴史的なアプローチにおける戦争責任論など

 前に、歴史的なアプローチのなかで、法的なアプローチがとりあえず重要だと述べたが、さまざまな判断や行為のうち適法なものについては一応法的責任は追及されないとして、違法だと判断される場合には、その責任をどう考えたらいいのだろうか?

 法律などに違法な行為をした場合の罰則が定められていれば、まずそれによって考えるべきだろう。しかし、戦争は権力者が宣告する性質のものなので、近代国家において、為政者に対して戦争責任を追及する規定は見当たらないかもしれない。

 過去において、日本がまだ統一されていなかった時代における戦争責任についても、明確な法規定があったとは思えず、いわば、ケースバイケースで処理されざるを得なかったのであろう。

 力と力の衝突の結果として、勝ったものが人命や財産を略奪するというような行為が容認されていたケースもあるだろう。

 歴史的に見れば、統一法がない場合は、戦争による決着がつけられた例が多いだろう。
殺戮や略奪や奴隷化などもしばしば行われた。負けたほうが徹底してたたかれ奪われるが、勝者もまたいつわが身におなじような不幸が襲わないともかぎらなかった。その意味では、責任は法というよりは力で果たされたといえるだろう。

 実は、現代社会においてさえ、国による法令の違いでさまざまな問題が生じている。安全保障や警察関係、出入国管理、税関、税金、保険などにはじまり、輸出入、投資などの商取引のほか、雇用、教育、結婚や出生、親子関係、国籍、市民権など公的・私的なさまざまなケースがありうるわけだが、そういうケースごとに法令の適用や解釈が違えば、その調整はややこしい。

 国家間になんらかの約束がなされていれば、それに基づく処理がなされるだろうが、そうでない場合は、結論が出ない場合もありうるだろう。

 戦争や内乱や紛争や領土問題などは、国際的にもきわめて複雑な利害関係があり、法令の適用も難しい場合が多い。国連はあるが、完全な意味での、国際軍でも国際警察でもないので、合法的な戦闘行為がなされているかどうかも、判断が困難なケースも多い。

 ある事象についての法令の存在そのものが明確でない場合や解釈に一致が見られないなど、違法性について十分に論証しえないときには、裁判制度も機能せずに、制裁としての罰則もまた適用が困難になる。

 強制力の不完全と根拠法令の不完全あるいは不存在。そういう現実においては、違法行為を行った者への責任追及もむずかしい。各国や国際機関やマスコミなどそれぞれの立場から、見解を発表することができるだけだろう。

 道義的な責任や社会的な責任は、ある意味では、その社会のそのときどきの国民感情や雰囲気などに影響される。それは、どのような制裁に至るかわからないが、ひとつの責任追及のパターンといえるだろう。

 もうひとつ、忘れてならないのが、革命のことだ。もし法令に違反してでも、社会正義の実現のために、暴力によって権力を奪取してもよいのかどうかということだ。

 マルクスは、抑圧されたプロレタリア階級は、暴力的に権力を奪取しない限り、搾取はなくならないのではないかと考えたようだ。はたして、今でもその考え方があてはまるかどうかは議論がわかれるだろう。

 合法的であっても、反正義だという捕らえ方は、暴力的な革命の本質を表わしている。
正義のための戦争という大義名分もしばしば唱えられる。このように、立場の違いは、自分たちの価値観を援用して、正当化に努める。

 そこでも、互いに責任追及がなされるが、決着はつきにくい。

 このように、法令に基づくアプローチとそれを超えたアプローチでは責任論もまったく異なった様相を呈する。

 それでも、理論的には、なんらかのルールの体系があって、それをベースに問題を処理していこうとする姿勢がなければ、責任論はますますあいまいになって、「力は正義である」という時点から一歩も前進できないと思う。

 「武力」とともに、「正義」を言葉で主張することは古来重要な意義を持ってきたといえよう。だから、「価値観の体系」を明確に言葉で構築しておくことがたいせつなのだとも言えると思う。































33.人物の評価

 人物の評価はきわめてむずかしい。

 人物にもいろいろある。

 ① 身近な人物。家族。友人。知人。親戚。同級生。同僚。隣近所。基本的には顔見知り。

 ② テレビや新聞では知っているが、会ったことはない人物。

 ③ 同時代人だが、直接の接点はない人物。

 ④ 過去の人物。写真や資料が残っている人物。なんら資料が残っていない人物。

 ⑤ 架空の人物。

 
 ざっとこういう分類ができる。

 ①のような人物なら、かなり正確に人物像がとらえられると思いがちだが、実際はそうでもない。
  自分の親が人を殺すなどとは想像しにくいし、誠実そうな友人が詐欺を働いたり、たくましそうな男が病気に苦しんだりする。すべての情報が入手されることはありえないし、仮に全情報があっても正確な判断はむずかしい。

 ②のような例はどうだろうか?たとえば、小泉元首相がどんな人物だったかということでさえ、意見は分かれる。ことほど左様に正確な評価は困難であり、主観的な評価がまぬかれない以上は人物評もまた千差万別になりやすい。

 それでも、できるだけ客観的な評価をしようという努力は重要である。そこに、ひとつの歴史観や価値観が反映するからだ。

 ③のような場合はどうか?なにか接点ができれば、コミュニケーションをとって、理解することができるだろうが、ブログなどを読むだけでは、なかなか人物像はとらえがたいと思う。

 ④のような場合はどうか?

  これも、資料の残り具合によるだろう。そして、一般的には、遠い過去になれば人物像も描きにくくなり、評価もむずかしくなるだろう。

 たとえば、聖徳太子は徳川家康よりも資料が乏しいだろう。徳川家康の写真や肉声は残ってないだろう。明治時代になれば、映像や音声が残っているだろう。

 歴史をふりかえるとき、人物の評価は重要な要素である。

 ある人物たとえば、織田信長の人物像をどうとらえ、どう評価するかはむずかしい。正解や結論があるわけでもない。歴史の評価もそうだ。単純には行かない。

 しかし、歴史に学んで過ちを繰り返さないためには、人物を評価し、その功績を評価することがきわめてたいせつである。

 人物の評価をシステマティックに行うための学問が開発されてもいいだろう。

 そして、歴史の科学的な評価手法も確立することが望まれる。
 












34.人物の評価=その2

 人物の評価ということの重要性のわりには、その評価法が学問的に確立していないことがひとつの問題だと前回指摘したところであるが、試みに、自分の経験からどのような点に留意したらよいかどうかというケーススタディからはじめてみたい。

 人物評伝としては、多くの伝記や偉人伝などがあるが、そういうものをどう読むべきかという視点も考えておく必要があるだろう。

 自分の個人的な経験で、小泉元首相のことを比較的よく知っているので、小泉純一郎(敬称略)のことをとりあげてみたい。

 ぼくは、小泉に直接会ったこともなく、交友関係もない。マスコミを通して得た情報が基本である。
 それに加えて、小泉に接することがあったひとが知人にいるので、周辺情報が若干はある。
 さらに、かつて行政にかかわったことがあるので、それらの情報を自分の経験から判断しやすいということはある。

 以上のような情報を総合的に判断したときに、小泉をどう評価すべきか?

 小泉内閣の功罪ということが今でも話題になる。

 きわめておおざっぱな整理をすれば、小泉の政策のポイントは、

 ・改革重視、聖域ない改革、過去にこだわらない。

 ・官から民へ。(郵政民営化など。)

 ・日米関係を重視。

 ・国民世論重視、直接国民に訴える、自民党の派閥政治から脱却。

 ・財政赤字の削減

 ・靖国参拝。

  私見では、それまでの密室政治をオープンにしたことが最大の功績だと思う。

  改革はそれまでの内閣でも続けられてきたが、ここまで徹底してやれたひとはいない。

  民営化にこだわったのは、政治的な誇張だという気もする。官の役割を否定するつもりではなかったはずだ。

  閣僚や自民党役員人事も派閥の領袖に相談しないで決めたらしい。初めての総理・総裁だったのではないか。

  靖国参拝は、選挙公約に掲げたので引くに引けなかったのだろう。中国・韓国との関係で大きくつまづくもととなってしまった。

  総括すれば、「偉大なる改革派だったが、外交では減点あり。」ということだろう。

  小泉のプライベートな面はどうか?

  音楽ファンだったことは有名。エッセイ集も音楽遍歴と題している。プレスリー、Xジャパン、ラマンチャの男、クラシックなど。

  長男が俳優。次男が、政治家としての後継者。離婚経験あり。

  そのほかのことはよく知らない。あの世代としては、ライオンみたいなヘアースタイルがかっこいいし、おしゃれのセンスもいいと思う。

  総じて、小泉に暗いうわさはあまりないようだが、そのへんはぼくがあずかり知らないことがあるかもしれない。

  おおよそ以上が、ぼくが見た小泉純一郎像だ。

  評価の手法という観点から考えるとどうなるだろうか?

 同時代人として、テレビで顔も声もよく見聞きしているから、外見の情報は十分だ。

 発言もマスコミやブログでかなり入手可能だ。

 総理を5年5ヶ月も務めたので、政治家として有能だったと言える。

 追い詰められて総理を退陣したのではない。

 そのへんのことは、客観的に評価できる。

 では、小泉の本音はどうだったか?と言えば、それは簡単には推測できない。

 おそらく、中国と韓国との関係は内心忸怩たるものがあったと推察しているが、小泉自身がどう思っているのかはよくわからない。

 つまり、政治家にも建前と本音があり、戦略的な配慮もある。常に率直に本音を語ることはありえない。

 そこに、客観的に評価しやすい部分と推測しかできない部分とがあると思う。

 今生存中の人物ですら、そのように謎の部分がある。

 ましてや、過去の人物には情報が少ないだけ判断しづらい部分が多々ある。

 ということは、たとえば、聖徳太子の業績や人物像を描き、評価をするには、それだけ多くの推論をする必要が増すことになる。

 そのための資料の収集や吟味そして洞察力や想像力がなければすぐれた歴史家にも伝記作家にもなれないだろう。

 人物の評価には、情報力と洞察力と想像力が必要だと言えるのではないか?
 


35.人物の評価=その3

 人物の評価の難しさは、前述のように、情報の制約や評価の主観性という制約によるものであるが、それは結局は、評者による同一人物評価の多様性につながる。

 たとえば、入社試験の面接の場合、役員、部長、課長、担当者などの間で評価は別れうるだろう。

 社内の昇進についても、人事にかかわる役員や社員の評価は必ずしも一致しないだろう。

 このような場合は、通例、決定のルールが決まっているので、それによって問題なく決定できる。

 しかし、家族や友人知人などの間では、統一的な評価基準はないし、そのような必要もないのだろう。

 恋愛・結婚・出産・成長・老化・病気・けが・離婚・死別などの段階がある。

 それぞれの段階で、さまざまな人物評価はなされるが、必ずしも、決定はなされないまま、事態は進行する。あいまいな人物評価が複数存在したまま人生が終わるわけである。

 多くの民衆は、その人物像や評価は歴史に登場しない。しかし、それらの無名の民衆の人物評価が集団として、地域や社会に影響を及ぼすことはまちがいない。

 したがって、権力者の場合のように、資料や伝記がそろっていなくても、ある時代の人物評価についての一般的な見方を支えていた有力な勢力として群衆をとらえる必要はあるかもしれない。

by nambara14 | 2009-09-14 20:15 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)

36.人物の評価=その4

 評価の対象となる人物の生きた時代や地位や影響力などによって、評価手法も異なりうるわけだが、評価の主体がだれかということも重要な要素である。
 
 たとえば、会社の入社試験で人物を評価するのは採用にかかわる役員や社員である。そこでは、おそらくだれを採用するかどうかの最終的な判断権限は社長あるいはそれに次ぐ役職にある者が持っており
彼らが一定のルールに基づいて決定するはずだ。

 芸術家なら、ある賞の受賞者の決定には、選考委員がいてその中で決定されるだろう。
作品の売れ行きは評価のひとつの指標といえるかもしれない。

 国宝などは、死後に決定されるようだが、それも一定のルールに基づいて決定される。
文化財審議会とか文部科学省とか決定権者がいるわけである。

 文化勲章、ノーベル賞など、ルールが決まっているものは評価のプロセスが明確である。

 他方、世の中には、同一人物に異なった評価がなされても、統一する必要がないケースも多い。それは、特定のルールに基づかない場合が多いだろう。

 たとえば、織田信長をどう評価するかということを考えてみよう。

 歴史家が資料を収集し読み込んで、可能な限り、信長の一生を正確にたどろうとしても、そこにはおのずから限界がある。

 たとえば、戦略家としてすぐれていたとして、個々の戦術についての評価はむずかしい。さらに、家来の掌握術や権謀術数やリーダーシップがどれだけすぐれていたかは、結果から推測するしかないことが多いだろう。

 敵対する勢力に対してきわめて残酷であったと言われるが、当時の意識として、敵を殺戮することをどのように評価するかは慎重であるべきだ。当時の法令はおそらく戦争による殺戮を罪として裁き罰するための明確な規定を有していなかったのではないか。
 それであれば、人情論としての評価ができるだけである。現代においてなら、人道上残虐行為はすべきではないということは言えるかもしれないが、過去においてはそうではなかったかもしれない。
 過去の人物の評価は、その時代の視点から行う評価と現代の視点から行う評価とを区別すべきである。そして、ある行為について、過去においては批難すべきでなかったとしても、現代においては批難されるべきであるという評価がなされてもよいと思う。
 また、信長に私生活があったとしたら、公務とは別の人物像が描けるかもしれないが、戦乱の世の中では、そうした区別はできにくかったと思われ、歴史家もそういう観点からのアプローチはしていないように見える。小説家は別だろうが。

 信長の評価は、歴史家の数だけあるかもしれない。あるいは、小説家の数だけ。さらには、信長に関心をもつひとびとの数だけ。
 それらは、どれが正解かという結論には達し得ないだろう。国家が権力的に公式見解をまとめて、国民に強制しない限り。
 評価がばらばらであるということも、民主的な社会の美点であるかもしれない。

 このように、評価の主体はいろいろな場合がありうるわけだが、そういう主体があるということを念頭においておくことは重要であると思う。














37.歴史的な観点から見たアメリカの金融危機

 今回のアメリカの金融危機についての各国政府の対応や国際的な対応については、別途記したところであるが(なんでも評論のカテゴリー参照)、これまでの経緯を、「価値観の研究」という観点から見てみよう。

(1).金融危機の発生の認識

 これはマスコミ報道でかなり正確な情報が伝達されたといえよう。

(2).対策
    
 民間における救済策も取られたが、これだけの危機は政府が登場しなければ解決しえない。

 したがって、アメリカも金融安定化法を制定したし、国際的にも協調して対策を講じている。G7の行動計画も採択された。今後は、それを着実に実施することが必要だ。

(3).今後の見通し
 
 まだ、対策が出たばかりなので、今後の見通しは不透明だが、公的資金の投入、不良債権の買取、資金供給、金利引き下げ、、預金保護、株価対策、経済構造対策、雇用対策、失業対策、医療福祉対策(セイフティネット)など事態の推移を見ながら、適時適切に対策を講じる必要がある。それによって、最悪の事態に陥ることはなく、次第に金融市場が安定し、企業の活動も安定化し、経済が安定をとりもどすことが期待される。

(4).評価
 
 こうした対策の決定は、各国政府や国際機関・国際会議という権限ある者によって下される。つまり、その意味では、適法であり、結果が悪くても法的な責任は負わなくてよい。

 政府と大統領や総理大臣といった国家元首との関係はどう考えたらよいか。

 たとえば、アメリカのブッシュ大統領は、最終的な決定権者であるから、その地位における行為については権限もあり責任もある。しかし、決定手続きが適法であれば、とりあえず法的責任は問われない。

 しかし、政治的責任は別である。
 
 合法的に決定し実施した政策でも、結果が悪ければ批判されるのが政治である。
 その意味で、世論やマスコミの影響力は大きいといえる。
 また、選挙権の重要性もそこにある。

 人物の評価という観点から見て、大統領や総理大臣は、組織の長として、公的な評価をまず受ける。私的な行為で問題があったときも、まずは、公的な立場へのかかわりという観点から評価される。

 歴史上の人物を振り返るような視点で、今回の政策決定過程も評価する意味は大きいと思う。世論はたいせつだ。しかし、決定権は元首が持つ。こういう関係にあることをふまえて、現実の社会を観察し、評価し、発言し、参加していくことがまさに「価値観の研究」から導かれる基本姿勢だと思う。具体的にはさまざな意見や行動の選択可能性があるだろうが。

 要は、過去の歴史ばかり振り返ってああだこうだいうこともたいせつだが、現実に起きている事態や事件や事故ほど現代に生きるわれわれにとって重要なものはないのだから、目の前のことをしっかりと見つめて、情報を収集整理し、自分の意見を持ち、言うべきことを言い、すべきことをするということがたいせつではないだろうか?

 過去に学んだことを現在に生かしてこそ本物の知識であり教養だと思う。この「価値観の研究」もまたそのための一助となることを目指して書き続けているわけだが・・・。

 また、以上のこととあわせて考える必要があるのは、個人と組織や社会の問題である。

 元首も組織の長である以上、組織としての活動をいかにマネージできるかどうかがポイントである。さらには、世論というとらえにくい集団をいかに味方に付けうるかも。

 心理学から社会学への視点も重要になるだろう。

 大衆社会の行動原理や実態については、別途取り上げてみたい。































38.アメリカ金融危機に際して

(1). アメリカ金融危機に対しては、各国が協調の上、最大限の努力をしているようだが、現実は、なかなか厳しく、日本の状況を見ても、円高、株安、輸出減少といったマイナスの事態が収まらないようだ。これがいつまで続くのか予測はむずかしいが、こういうときこそ、パニックにならずに冷静に行動することが必要だと思う。

 つまり、金融安定化策、追加の景気対策といったメニューを出し尽くしたら、あとは着実に実行するしかない。幸運を祈るだけだ。

 万が一、経済恐慌に陥ったらそのときはそのときで最大限の手を打つしかない。
 過去の例を見てもおぞましい事態が想像できる。

 おそらく、格差はますます広がり、生き残りの競争は熾烈なものになるだろう。

 そして、いつかは新たな秩序が回復するだろう。勝ち残ったものによる経済秩序が。

(2).当面の危機に対して緊急の対策が講じられ、今後も適時適切な対策が講じられることが期待される。しかし、その他の課題もまた対策を講ずべきものであることはいうまでもない。

 すなわち、日本で言えば、これまで、論議されてきた諸問題、たとえば、年金問題、医療・介護の問題、消費税引き上げ問題、財政赤字減少対策、食の安全の問題、凶悪犯罪防止の問題、安全保障問題、産業政策、貿易制度、教育制度、国際貢献の問題、北朝鮮拉致問題、個人情報保護の問題、憲法改正問題、総選挙の時期の問題、そのほかの問題がある。

 こういう諸問題も、優先順位を明確にして、着実に措置されなければ、国民生活の安全と安心は確保されない。

 緊急事態には、どうしても他の問題をあとまわしにして火消しに大童にならざるを得ないが、頃合を見つつ、他の懸案事項を処理していくことは持続的な経済発展のためには不可欠である。

 麻生内閣も全力投球で世界のかつわが国の緊急事態に対処していると思うが、以上のような視点で最大限に最善と考えられる施策を実施してもらいたいと思う。

 願わくは、緊急対策が功を奏し、金融が安定化し、経済が回復し、ひとびとの生活に安定がもたらされることを切望する。




























39.田母神、前空幕長問題について 

 最近、マスコミ等で大きく取り上げられ、話題となっている田母神前航空幕僚長の発言については、さまざまな意見が示されている。

 小生も「価値観の研究」の立場から、かんたんにコメントしておきたい。

 「政府見解」と「自衛隊幹部の見解」は食い違ってはいけないのか?

 時と場合によると思う。また、テーマや発言の仕方にもよる。一概には言えないし、既存の明確なルールもないのではなかろうか?

  したがって、今回の件は、ルールが不明確であるところに、問題の核心が存在すると見たい。

 歴史認識は千差万別であって当然だが、国際関係を考慮すれば、政府の見解の持つ意味は重い。政府高官がそれと相反する発言をする場合は、慎重でなければならないのは常識とも言える。しかし、現実には、確信犯的に発言をし、辞職後も発言の正当性を主張しているというのは異例のことだろう。だからこそ、今回のごたごたの反省の上に立って、きちとしたルール作りを急ぎ、事件の再発を防ぐべきだと思う。

 今後、国会やマスコミや一般社会がどのように追及するかは予断を許さないが、あいまいなルールをもとにいくら責任を追及しようとしても無理がある。まず、違法性の判断が先に来る。次に、道義的責任などが来る。しかし、田母神氏の場合は、正しいと信じて発言しているのだから、それがまちがっていると指摘されるには、根拠となるルールを示せ!ということになるだろう。

 世の中は、すべてのことを想定してルールが作られているわけではない。
 想定外の事態が発生した場合は、可能な限り、既存のルールの範囲で最善の結論を求めるしかないが、完全には対応できないだろう。

 事件や事故が起きるたびに、規制が強化されるという後追いの対応は残念ながら、さまざまな場面に見られる。

 歴史認識があやまっているかどうかの議論はややこしい。
 立場によって発言の意味あいが異なり、責任の生じ方も異なる。それを踏まえて具体的にはどうしたらよいのか? 政府が、そういう常識的・基本的な方針を明らかにすることが当面の急務だろう。

 その次に、田母神氏の発言についての当否をさまざまな立場から検討すればよいと思う。

 たとえば、自衛隊として、防衛省として、政府として、学界として、マスコミとして、一般国民として・・・などなど。

 いずれにしても、「言論の自由」には「公共の福祉」といった観点からの制約があることは常識だ。しかし、心の中で思うことにはなんら制限がないし、制限しようもない。「けしからん」で済ませることは危険だ。自衛隊という大きな組織・集団としての意識や認識がどのような現状にあるかというような社会心理学的なアプローチも必要になると思う。国民全体がこれを重大なテーマだと受け止めて、今後の対応の方向を見出すべきだと思う。




















40.異なる価値観は常に存在する


(1).ことし(西暦2008年、平成二十年)の世界経済は、アメリカの金融危機に端を発して、全世界を巻き込む史上稀な不景気に突入した。

 幸い、過去の大恐慌やバブル経済の破綻という経験を教訓として、世界各国が協調してこの難局に対処しているので、とりあえず最悪の事態は回避できそうに見える。しかし、経済は人知を超えた要因もあるので、楽観は許されない。

 日本を見ても、麻生内閣は、金融安定化策や景気刺激策や雇用安定策などを逐次展開して最大の努力をしているといってよい。もちろん、与党内にも異なる意見の持ち主はいるし、野党が対決姿勢をとるのはやむをえないところなので、予算案や法案がかんたんに成立しないのはある意味では避けられないことだ。

 問題は、さまざまな紆余曲折はあっても、大きな方向として、望ましい政策が実施されているかどうかだ。麻生首相には、「おバカ総理」などと揶揄される面もあるものの、私見では、前向きな姿勢でわが国の危機的な状況を乗りきるべく最善の努力を傾けているように見える。

 来年早々には国会も召集して第二次補正予算や来年度の予算や法案、税制改正案等の審議に入ろうとしている。こんなに早い時期に国会を召集するのは異例の事だ。

 国会の仕組みを知らない人は、年内にでも対策を講じるべきだと主張するが、どんなに急いでも一定の時間がかかるのが民主主義のシステムだ。審議が不十分なまま 拙速である施策を実施する事には、不正や不当が紛れ込むおそれがある。したがって、民主的な手続きを否定するのは、一時の激情にかられて猪突猛進する類であるといえよう。

 今回の施策は、大別して、3つあると言えよう。

  ・金融安定化策  金利引下げ、資金の供給、預金保護

  ・景気刺激策   財政出動、資金の供給促進

  ・雇用安定化策  非正規雇用者・派遣社員対策、公的助成の充実、セーフティネットの拡充

 今後は、こうした対策が着実に実施され、諸外国の対策とあいまって、少しでも早く内外の景気が回復するのを待ちたい。いずれ、解散・総選挙となるだろうが、どのような結果になっても、わが国の経済と国民の生活の安定を目指すべきであることは言をまたない。

(2).ここで、ひとつ指摘しておきたいことがある。
 
 それは、複数の価値観というものは、勝ち負けがつくこともあるが、一般的には、それ以後も、顕在化するか潜在化するかはあるにせよ、少数派や反対派の価値観も生き続けるということである。

 つまり、家族でも地域でも会社でも国家でも、およそ、人間のいるところには異なった価値観が存在し、それらは、さまざまな局面で衝突しあっているのである。
 
 たとえば、オバマがアメリカの次期大統領に選ばれたにしても、多くの反対者はなお存在し、なにかにつけて、オバマの足を引っ張ろうとするだろう。そして、折りあらば、オバマを大統領から引きずりおろしたいと願っているだろう。それが人間社会の本質である。

 人類を理想化して、平和や正義や博愛平等といった理念に生きる聖人君子の集合体であるなどという考えを信用する事は危険だ。

 小生だって、平和で豊かな世界であってほしいと願う気持ちでは人後に落ちないつもりである。しかし、歴史を振りかえり、現実の世界を冷静に見てみれば、利害や宗教や民族といった要素が対立や争いを生み続けてきたこと及び今後も生み続けていくであろう事を否定することは難しい。

 人間社会は多かれ少なかれそういう争いや交渉を通して、その都度便宜的な妥協をくりかえしているのであり、ひとつの価値観のもとに団結しているなどということはありえないのである。このようにとらえると、絶望的になるおそれもある。しかし、冷厳な現実というものを踏まえて、個人や社会や国家がそのときどきに最善の選択をしていくためには、そうした知恵が不可欠であり有効であると考えれば、明るい展望も開けるだろう。

 世界の平和と繁栄を願い、それに貢献したいというひとびとを賞賛し支援する社会は望ましい。そういう価値観が生き残る社会であり世界であってほしいと心から願うものである。

by nambara14 | 2009-09-14 20:13 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)

41.デュー・プロセス

 金融危機への対策が、内外で鋭意進められる中で、できるだけ早い景気回復が望まれるところであるが、昨今の日本国内の論議で気がかりなのは、法律的な議論が感情論や立法論と混同されていることだ。
 
 たとえば、「派遣切り」が大きく取り上げられているが、マスコミをはじめ、「けしからん」という論調が目立ち、経営者側は口を閉ざしているように見える。
 労働法違反であれば、法律違反としての責任追及が可能だが、適法であれば、社会的・道義的な責任を問うということになる。これはある意味で両刃の剣である。法律を守っていても、多数の世論の声の圧力によって企業が過剰な労働者をかかえざるをえなくなり、倒産の危機に瀕する事態もありうるが、その責任はだれもとれないはずだ。
 
 雇用を守るべきだという主張は正論であり、だれも反対はしない。問題は、企業が経営上雇用を継続できなくなったときに、どのように雇用対策を講じるかだ。今の国会でも、失業手当の支給基準を緩和する措置がとられつつあるが、結局、私企業が手を負えなくなったときに救済できるのは公的な機関しかない。国とか地方公共団体とかである。
 
 そこで、議論は、法律と予算に移る。そして、国会や議会での審議がキーポイントとなる。国会議員や県会議員などの代表者が多数決で物事を決めるという仕組みだ。
 ある制度の改正案が提出され、賛否両論があれば、投票によって結論が出る。
 このように、どんな法律や予算も、適正な手続きを経て決められるというところに、民主主義のひとつの特色があり、美点がある。
 
 テレビの座談会などでは、評論家などがそれぞれの意見を述べるが、それらの意見を踏まえて、法律改正案や予算案を提出できるのは、政府や議員などに限定されている。
 
 現行法に問題があれば改正すべきであるが、改正されていないのに、救済しろというのには無理がある。適正手続き(デュー・プロセス)というのは、声が大きいグループでなくても、国民が平等に扱われるように配慮された制度だからである。

42.言葉と行動

 言葉と行動は必ずしも一致しない。それには、さまざまな理由があるだろう。政治的、経済的、社交的、個人的、故意、過失等々。
 
 人間は、いろいろな場面で、言葉を求められる。沈黙は金だが、言葉がなくては、社会は成り立たない。銀でも銅でも鉄でもやむをえない。

 言葉は、人間社会の不可欠の多目的手段である。

 よって、古今東西、言葉は生まれ、作られ、変化し、洗練され、ときには乱れ、消滅する。紆余曲折はあったにせよ、雄弁術やレトリックや文章能力は常に磨かれてきた。

 言葉は、ひとの知情意に訴える。理性と感性に訴える。こころを揺さぶる。

 最近、オバマ大統領の就任演説が話題になっているが、それを見ると、言葉がどのように選ばれるかがよくわかる。建前と本音が見て取れる。だれでもそうしているのだが、オバマの場合は全世界の注目を浴びるので、特に念入りに準備されたと思われる。

 言葉は、求められる。時と場合によって、求められる言葉は異なる。オバマが本当に考え、思い、したいと思っていることと、かれの演説には違いがあるはずだが、だれもそんなことは問わない。

 金融安定化対策、景気回復や雇用対策、安全保障、軍事戦略、世界平和やイスラム世界との対話、環境対策など、望ましい言葉が連ねられている。

 まず、その表現の仕方と言及されなかった言葉を総合して、公式の解釈が試みられる。私的な領域に踏み込むことはその次の段階だが、大統領にとって、純粋な私的領域はきわめて限定的だろう。

 演説の字面を仔細に見てみれば、ネガとして見えているものがある。軍事同盟、人種差別問題、宗教問題、民族問題、政治体制の違い、国家間の友好・敵対関係、経済問題、金融問題、、貿易問題、人権問題、領土問題、伝統文化など多くのタブーや利害関係を内包する問題について、なにをコメントしなかったかを点検するという作業を通してある程度明らかになるだろう。

 人間社会では言葉が大きな力を持つ。しかし、その使い方には、複雑な暗黙のルールがあることを忘れてはならない。

 そのうえで、行動と言葉を常に比較し、レビューをしていく必要がある。正義や平和を標榜することだけでは本質的な解決にはならない。

 戦略を具体化する戦術が必要だ。そして、常に、公式の言葉の背後にある、「本音」を見定め、自分なりの「非公開の言葉」によって、現実を見定め、理解し、自分の言葉を見出していき、それに基づいた行動をするべきである。

 そのようなステップをくりかえすというダイナミズムの上に、可能な限り、最善の選択がなされると思う。

 このステップは個人レベルでも集団レベルでもさらには国家や国際関係においても共通のものがあると思う。

 「建前と本音」というのは言い古されたことながら、あらためてその重要性を認識すべきと思う。
 
 
 私見では、麻生内閣はがんばっていると思う。しかし、適正手続きの結果として、麻生内閣が退陣せざるを得なくなれば潔くその結果を受け入れるべきだと思う。そして、適正手続きによって、巻き返しを狙う運動を開始すればいいのだと思う。
 
 賢明な日本国民が、冷静に法律論をかわすこと、及びそのことを通じて的確な結論が得られ、わが国の重要な政策が実現することを望みたい。現下の危機的な状況は、感情論に流されている場合ではないと思うのである。解散総選挙もいずれ行われるだろう。ひょっとすると、民主党が政権をとるかもしれない。そしてまた、自・公がとりかえすもしれない。いずれにしても、適正な手続きによって、公明正大な議論を尽くして、最適の政策が決定され、実施されれば、遠からず、景気は回復し、雇用や生活が安定すると信じたい。


43.『生きがい』について

(1). なにを今更「生きがい」を取り上げるのかと疑問に思う方もいるかもしれない。
しかし、やはり、「生きがい」が、人間にとって最大の問題であることは変わらないのだとあらためて思う。

 なぜなら、どんな聡明な人間でも、自分の意志でこの世に生まれてきたものはひとりもいないのだから。生きがいは常に「あとづけ」なのである。

 そして、「生きがい」には、常に「死にたい」とか「死にがい」という相反する欲求や価値観がついてまわる。

 死ぬことを勧める教えは少ない。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があるが、これも一種の反語的な表現とも言えるだろう。つまり、「立派に生きよ。しかし、死ぬべきときが来たら、潔く死ぬべし」というような意味合いということで。

 もし、「死ぬこと」を勧めるような社会風潮が広まれば、国家や社会は危機に瀕するだろう。だから、古今東西、生きることの尊さを強調した教えは多いが、自発的に死ぬことを慫慂した教えは少ないのだろう。

(2).これまでに、多くの宗教書や哲学書や道徳書などにおいて、生きることと死ぬことについて述べられてきたはずである。膨大な書物のすべてに目を通すことはできないが、「『生きるということ』には価値があること」を前提に、さまざまな教えや教訓が示されてきたのだと思う。「どのように生きたらよいか?煩悩を去るにはどうしたらいいか?現世とはなにか?来世とはなにか?どうしたら天国や極楽にいけるのか?」などなど。

 「生きることには目的などないのだ、生まれてきてしまったので、やむをえず死ぬまで生きるしかないのだ、」などと言えば、反社会的だというレッテルを捺されて、奇人変人扱いされるのが関の山だろう。

 ところで、今日(平成21年3月12日)の読売新聞朝刊の「新生活応援特集」という広告のページに、谷川俊太郎と糸井重里の対談が掲載されている中で、谷川が、「『生きることの目的は?』という問いに対して、ダライラマは『幸せになることだ』と答えたこと」に触れ、さらに、糸井が、「吉本隆明が、『一番理想とする自分と、自分との対話がとても大事だ』といっていること」を紹介している。

 なるほどと思うが、これらも、すべてひとつの生きるための知恵であり、経験であり、ひとつの価値観だと言ってよいと思われる。

 「人間はなんのために生きているのか?」という問いは、実は科学的に答えようがない性質のものかもしれない。あるいは、DNAの分析が進めば、人間はとにかく生きたいという欲求を遺伝子に組み込まれてうまれてくる、なんてことが証明されるかもしれないが、当面は、確実な論拠は得られないだろう。

 とすれば、死のうとする人間に対して、死ぬべきではないとどのように説得することが可能か?戸惑ってしまう。

 とりあえず、生き続けよう、と思って、それ以上は深く追究することはやめて、生きることを選んだ延長戦上で物事を考え行い、なんとか死なないように努めながら、どうにも避けられなくなったら、運命の命ずるままにこの世にお別れをするというのが、現在における人間の一般的な生き方となっているのだと思われる。

 いまのところ、それ以上の答えは得られないような気がしているが、はたしてどうだろうか?













44.《 ひとはだれも死をまぬかれない 》 という認識  

  
 (1). 人間はだれも「生まれる」のであって、そこには選択権はない。あとは、死ぬまでどのように生きるかが残されているだけだ。

 生きることが耐えられなくなれば、自らこの世に別れを告げる選択もあるが、多くのひとびとは死にたくないという思いが強く、病気になってもなんとか生き延びたいと願うように見える。実際、わたしにしたところで、できれば長生きしたいと望んでいるのが正直なところだ。

 しかし、いつかは死ななければならにことを人間は知らされる。動物はどんな意識や認識をもっているのかよくは知らないが、人間のように明確に死を認識し、死をおそれ、しかし、最後にはそれから逃げられないという恐怖感を明確に持つことはないように見える。
 動物も、屠場で、殺されることを察知してじたばたすることはあるようだが。

 近年、DNAや遺伝子の分析が進み、脳や内臓の機能など、細胞レベルでの研究成果によって従来わからなかったことが革命的な飛躍を遂げて明らかになっているといえよう。

 空腹を感じて食欲を感じて食物を食べる。排泄する。栄養のバランスや運動や精神的な安定が健康に重要なことも指摘されている。医学の進歩で、病気の予防や早期発見、早期治療が可能になり、平均寿命も大きく伸びている。

 しかし、まだまだわかっていないことも多いといわざるをえない。
 生命の神秘がそう簡単に解明されるはずはないだろう。身体の機能もさることながら、やはり、精神作用については、まだまだ初歩的な段階にあるといえないだろか?

 そもそも、動物的な本能に基づく活動以外の、人間の精神的な活動というのは、なにに基づいて行われるのだろうか?

 遺伝子のなかに、どんな行動をとるべきかという指令装置が組み込まれているのか?
「なにをすべきか」とか、「なにに価値を見出すか」というような精神作用は一体「なにによって決定されるのか?」あるいは「絶望して死を選ぶ」というようなプロセスはどうなっているのだろう?これから長い時間をかけて徐々に明らかにされるだろう。


(2). では、現時点では、われわれはどう考えたらよいのか?
 絶対的な処方箋はないとしかいえないだろう。
 このことについての価値観は相対的なものに過ぎず、「ひとりの人間の一回限りの生」という絶対性につりあう「絶対的な価値観」は確立されていないというべきだろう。

 試みに、ひとつの生きることへの価値観を挙げてみよう。

 ① 「ひとはだれも死を免れない」ことを認識して、死ぬまでは悔いのない人生を送る。
 ② どうせ死んでしまうにせよ、生きている間には、やらなければならないことややりた
 いことがある。それをひとつひとつ片付ける。
 ③ 先人が残した事物や思想や文化を基礎に自分なりに取捨選択する。
 ④ 信頼できそうな考え方や人物を見出し、それらを尊重して、自分の人生に生かす。
 ⑤ 自分の経験から、喜びや楽しみの体系を作ってみる。「好きな人間、好きな食べ物、ファッション、住まい、仕事、趣味、芸術、芸能、スポーツ、娯楽、旅行、お笑い、映画・演劇、歴史、戦争と平和、地理、政治、経済、金融、科学技術、医学、産業、雇用、外交その他さまざまな分野についての自分なりのとらえ方、関心度などなど」を整理しておくことは有益だと思う。

 たとえば、ちょっと欝っぽくなったときに、自分なりの対処法がわかっていると楽だろう。ひとつの例を挙げれば、こんなのがある。

① 十分寝る。
② 好きな音楽を聴く。
③ 散歩する。
④ 軽くワインを飲む。
⑤ お笑い番組を見る。
⑥ 親しいひとと話をする。
⑦ 鼻歌を歌う。

 こういう便法もひとそれぞれだろうから、自分なりのあつらえのやりかたをもっていると便利だろう。

 そして、自分だけでは処理しきれないと感じた場合は、早めに、精神科の医師に相談することが得策かと思われる。

 医学が進んだように見える現代でも、まだまだ手探りの状態が続いていると見たほうが正確だと思う。生きることと死ぬことのはざまで不安定な人生をいき続けるすべての人間のために、「暫定的な価値観」であっても、すこしでも生きることを前向きにとらえさせてくれる「価値観の体系」を構築することはたいせつだと思う。とりあえず、ちいさな、リストを作ってみることからはじめると手軽ではないかというのがわが個人的な経験から出てきたアイデアであるのだが・・・。

 卓越した精神科や脳科学の専門家もおられるので、そういう方々からアドバイスが頂戴できたらと切に願うものである。


by nambara14 | 2009-09-14 20:09 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)