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『イデヨの左手による覚書』


     『 イデヨの左手による覚書 』

    
       (プロローグ)

 
  「なんということだ!」
  彼は 晩秋の公園を 冷たい風に吹かれながら
  乱れきった心に引きずられるように 歩いていた
  さきほど見た光景はなにかの間違いではなかったか?
  暗い道路の片隅で軽くキスをかわしていたのは 
  彼の親友と彼の彼女だったのだ
  思えばその親友とはなにかにつけていさかいがあったのだったが
  とびきりの秀才で きらきらと瞳を輝かしながら
  医学の将来を語る親友のしぐさを見ると
  勉強会をすっぽかしたり 借金を返さないのも
  大目に見てやろうという気になったのだった
  だが 今度はよりによって自分の彼女にまで手を出したのだ
  怒りでふるえる体をもてあましながら歩いていた彼に
  ふと木陰にある銅像が目に入った
  「おや あの有名な医学者の像だ。」
  自信に溢れた表情で 右手に持った試験管を高く掲げ
  左手は軽く握って腰に当てている
  左手のあたりを注意してみたがとりわけ変わったようすはなかった
  その日 疲れきったこころとからだで家に帰った彼は
  なんとなくインターネットでその医学者のことを検索してみた
  さまざまな情報の中に風変わりなメモがあるのが目に留まった
  彼はそのページを保存しプリンターで印刷した
  じっくりと手にとって読んでみた

      *

   【 イデヨの左手によるメモランダム 】

    1
  
どこか草深い地方のようだった
きびしい寒さの中で囲炉裏の火がちらついていた
母は食事を作ったり片付け物をしたりして
目が回るような時間をすごしていた
母がちょっと表に出て仕事をしているときだった
突然赤ん坊が火がついたように泣きだした
見れば 赤ん坊が囲炉裏に落ちている
思わずわが腕に取り上げたが
左手がまっかにふくれあがっている
どうしていいかわからないまま
母は薬箱をさがした やけどにつける薬などなかった
無意識に包帯だけを巻きながら母は思った。
(医者に行こうにもそのお金がない・・・)

赤ん坊はやがて元気に走り回るようになった
左手はやけどのせいで指がくっついてしまっていた
こどもたちがその手を見ては「手ん棒」と言って冷やかした
母はいつも子供にあやまった
しっかり見ていなかったせいでこんなことになってしまった
あるとき手術ができる洋行帰りの医者がいるというので
同級生たちの募金によりついに手術を受けることができた
完全ではなかったが指はある程度分離できた
子供はいつのころからか医者になることを夢見始めていた
トカイに出るためと言ってイデヨは知り合いから金を借り
ついにイナカをあとにした


   2

イデヨは天才タイプではなかった
それでも睡眠時間を削ってまで勉強したので
医学の知識は十分に身につけた
医師の試験を受ければ
権威ある教授さえ気付かなかった病気を見つけて驚かれた
とにかくひとの何倍も努力するしかないんだ。
やがてタサト研究所に採用されて
新たな病原菌の発見のための研究に没頭できると喜んだ
だが実際は雑用しかやらせてもらえなかった・・・

イデヨはあきらめなかった
検疫所に移ってからペストの患者を発見したり
清国へ ペストの国際予防委員会のメンバーとして派遣されたりした
やがてイデヨの医学の実力もしだいに認められてきた
イデヨの医学への執着はじんじんと体の中で燃え上がった
まるで痛みが収まらない内奥部のやけどのように

庇護者たちに壮大な夢を語って大金を借用し
アメリコの医者にたくみにとりいって
イデヨはついにアメリコに渡ることになった

   3

文字どおりの押しかけ渡米だったが
イデヨはかろうじてフレクスナー教授のもとで
蛇毒の研究を手伝う仕事にありついた
不眠不休の仕事ぶりは周囲の者たちを驚かせた

血走った目はいよいよ真っ赤に 癖毛の頭髪はますますねじれて
髪をかきむしり ときおり素っ頓狂な叫びを上げるイデヨ
どうやらイデヨにはもう一匹の獣がすんでいるらしいとのうわさが広まった
あの気違いじみた研究態度のうらには
夜な夜なくりだす歓楽の世界が隠れているのだと言いふらすものがいた
放蕩という語彙を覚えてしまったイデヨの大脳辺縁系は
発火しつづけるシナプス結合を増殖し
真昼に脳裏に焼き付けられた病原体の潜在記憶が抹殺されるために
電位差を与える神経伝達物質を作り出そうとして
赤いふんどしを締めた獣に化けるのだと言い換えられもした

それでも「人間ダイナモ」は一心不乱に研究に没頭し
白人社会にも食い込める成果をあげたのだった
その後フレクスナー所長に招かれて行ったロック研究所では
梅毒スピロヘータの純粋培養に成功した
何万枚もの病理組織標本を顕微鏡で観察して確認した
そのころまでにはメリーという白人女性と結婚もしていた
ノーベル医学賞の候補にさえなった

いちどイデヨはジポンに帰国した
イデヨの名声は国中に浸透しており各地で歓待された
ただそれがイデヨの最後の帰国となった
イデヨの中の獣を見た者もいたからかもしれない

やがてイデヨは黄熱病がはやっていたエクアドルへ派遣された
イデヨはただちに病原体を特定しイデヨワクチンを開発
(ただし今日ではワイル病スピロヘータだったと考えられている)
その地域の黄熱病は収束した
イデヨはまたまたノーベル賞の候補になった

イデヨワクチンはアフリコでの黄熱病には効果がないと聞いた
イデヨの研究に疑問が寄せられているというのだった
たまらず イデヨはアフリコに向かった
ガーナに研究施設を建てて アカゲザルを使って病原体特定に着手
だが急に高熱を発したイデヨ
あえなく国立病院のベッドでイデヨは無念の最期を遂げた
五十三歳。研究への未練を残したまま。黄熱病により。
「なにが、なんだか、わからない。」
それがイデヨの残した最後の言葉だった

    4
 
イデヨはやがて偉人伝にも登場した
千円札の顔にもなった
ヤケドを克服して医者となり人類の救済のために命を捧げた
黄熱病の研究の道半ばで病に倒れた人道主義的な英雄
それがイデヨ像だった

だが イデヨは光と影をもっていた
数え切れないほどの勲章や学位や賞賛を受けた研究成果
ノーベル医学賞候補に三度
そして 誤りも多かった研究論文 更に 度重なる借金と好色と博打と――
でもそのすべてがイデヨだったのではないか?

(ロック研究所の研究員が黄熱ワクチンを開発したのは
イデヨの死後十年余り経ってからだった)

       **


      (エピローグ)


  彼は このメモを読み返し やがてデスクの引き出しにしまった
  頭の中でイデヨの小柄なからだと口ひげと左手がぐるぐる回った
  親友と彼女とのこともすこし距離をおいて考えられるかもしれないと思った
  できればイデヨの詳しい伝記を読んでみたいという気になっていた
  自分の中でうごめいている獣は一体なんなのか
  イデヨの生涯をたどってみれば
  すこしは参考になるかもしれないと感じ始めていた・・・

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  上の作品は、「SPACE77」(平成20年1月1日発行)に発表したものです。

  野口英世の伝記をもとに書きました。

  その際、渡辺淳一著「遠き落日」を参考にさせていただきました。

  渡辺氏のこの伝記小説は、徹底した取材に基づく、活き活きとした描写と野口英世への愛情がひしひしと伝わってくる名著だと思われます。

 野口英世については、毀誉褒貶が錯綜していますが、すぐれたところは評価し、問題があった点については率直に認めるというのが、とるべき姿勢かと思われます。

 これを機会に、野口英世について、多くのみなさんが興味を持っていただけたらうれしいです。

 なお、下の写真は、上野公園の中にある野口英世像ですが、林の中にあるので目立たないのが残念です。
『イデヨの左手による覚書』_f0037553_14365861.jpg『イデヨの左手による覚書』_f0037553_11281329.jpg
Commented by lica-handa at 2007-12-31 06:25
野口英世偉人伝、私も子供用の挿絵付きのものを昔持っていましたが
思いがけず、この作品で新しいイメージを与えられました。
光と影の部分については恐らく誰しもが持っているのでしょうけれど、
それでも光の部分があまりにも輝いていると、その落差に人はどきりと
させられてしまうわね。
Commented by nambara14 at 2007-12-31 11:22
licaちゃん、コメントありがとう!
他人はいろいろ言うけど、やはりたいせつなのは、自分の人生を精一杯生きるということだと思います。
結果的に光と影ができてしまうのはさけられませんよね。
licaちゃんは、光の部分が大きくて影の部分が小さな女性だと思います。
アメリカでも楽しく幸せに過ごしてくださいね!
また、遊びに来てください!
ぼくも、しょっちゅうlicaちゃんのブログにお邪魔したいと思いますので。
by nambara14 | 2007-12-27 13:07 | 新作詩歌(平成19年発表) | Comments(2)