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ヒポクラテスの肖像


      ヒポクラテスの肖像


少年は、入院病棟からレントゲン室に行き、エックス線技師の指示どおり、腕を体側に沿わせるポーズで撮影装置の平たい面に胸を押し付けた。
(なんの病気なのか? うすうすは感じていても、正式の病名は知らされていない。)
 時々呼吸が苦しくなる。そんな時は、もう死ぬんだと思い、恐怖で体が震えだす。
 今日はすこし気分がいいので、ちょっと遠回りをして、外来の玄関を通って自分の病室に戻ることとした。ふと目に入った診療科の案内板のところでどんな診療科があるのかあらためてチェックしてみる。少年は、内科という文字に目が留まる。
(自分は内科の患者らしい。)
外科、皮膚科、眼科、耳鼻科、産婦人科、小児科、形成外科・・・。

(少年は思う。)

『今の医学の発達段階はどのようにとらえることができるのだろう。
ぼくは、多くの診療科が更に細分化、専門化しているのを知っている。先日読んだ書物によると、1953年に、ワトソンとクリックがDNAの二重螺旋構造を発見したそうだ。その後、遺伝子の研究が進んで、最近では、遺伝子治療が導入され始めている。現在の日本人の三大死因は、がん、心疾患、脳血管疾患だそうだ。現時点でのがん治療の主な方法は、手術による切除、放射線治療、抗がん剤投与の組み合わせらしい。たとえば、2000年後の医学のレベルから見たら、今の治療方法はどう評価されるだろう。

 鳥インフルエンザの発生は世界を脅かしている。二十世紀はじめ、スペイン風邪が世界中に蔓延し4000万人の命を奪ったという。今は、時折、鳥から人に感染することがあるだけの鳥インフルエンザのウイルスが、突然変異により、人から人へ感染する新型インフルエンザに変質することが懸念されている。
とある地域に鳥インフルエンザの患者が発生すると世界保健機構(WHO)などが専門の医師を派遣して二次感染の防止に万全を期しているそうだ。
 現在の感染症対策は、手を洗い、うがいをすること、外出を避けること、発生した患者を囲い込んで二次感染を封じ込めること、ワクチンを開発、製造することぐらいしかないらしい。』

(少年は更に思う。)

『振り返れば、紀元前5世紀のギリシアにヒポクラテスという医師がいて、「人を愛するところにこそ医術への愛もある。」と述べ、医者のモラルを強調したそうだ。医者の心構えを記した「ヒポクラテスの誓い」は今日でもなお尊重されている。たとえば、「自分の能力と判断にしたがって、患者の利益になると思う治療法を選択し、有害なことはしない。頼まれても、死を招くような薬を与えない。・・・治療の際に見聞したことはもちろん、治療に関係ないことでも、他人の私生活についての秘密は口外してはならない。」というようなものだ。もっとも、この誓いは後世の人が書いたというのが真相らしいが。
 紀元二世紀のガレノスもまた自然力を重視し、実証的な医療を実施した医師だったそうだが、ガレノスはヒポクラテスを神のように尊敬していたという。
 そのヒポクラテスの肖像画を、日本ではじめて描いたのは、石川大浪だった。寛政十一年(1799)、大槻玄沢の依頼により描いたそうだ。その元になった画は、オランダの医師ゴットフリートが記した「年代記」という書物の中にあったものだったらしい。
 ぼくは、ヒポクラテスの肖像画をコピーして手元のファイルに入れている。はげ頭と白髪。仙人のような風貌。鋭いまなざし。そのプロフィールはぼくの心をとらえて離さない。もしヒポクラテスが今生きていたとしたら、ぼくの病気をどう診断し、どう治療してくれただろう。この二千年余りの間に積み重ねられた、多くの有名無名の医師たちの努力の成果が、今日の医療に生かされているだろう。だから、おそらくヒポクラテスだって、「うんうん」と満足げに治療の様子を見守っただろう。』
 
『それにしても(少年は思う。)、現在を生きる自分は、現在の医療水準の治療を受けるしかない。はっきりとは言われていないが、自分はきっと難病に冒されているにちがいない。いつまで生きられるのか? いつ意識を失う時が来るのか? 耐えられない痛みが襲ってくるのか? 歩くことすらできなくなってしまうのか?』

 いろいろなイメージが一斉に少年の頭をいっぱいにした。少年はめまいを覚えた。しかし、このまま案内板の前に佇んでいるわけにはいかないだろう。少年は気を取り直して、また、自分の病室に向かってゆっくりと歩き出した。
 
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   注:この詩は、「SPACE76」(平成19年11月1日)に発表したものです。




by nambara14 | 2007-12-07 11:34 | 新作詩歌(平成19年発表) | Comments(0)