最近の詩集評(10)
2016年 08月 11日小松弘愛詩集『眼のない手を合わせて』。何気ない日常や個人的な思い出などが豊富な人生経験と英知を通して簡潔で親しみやすい詩篇として結実している。「眼のない手」(わたしの手)を「眼のある手」(,千手観音の手)の前に合わせる敬虔な姿勢と柔らかな言葉の陰に謙虚さと優しさと強い意志がある。
坂多瑩子詩集『こんなもん』。日常にひそむ恐怖感や悪意や滑稽さなどをさまざまなひとや動植物や事物を用いたコントのように描いてみせる手腕は一級品だ。巧みなブラックユーモアに思わず笑ってしまうが、同時に、多くの人や物との関わりにおいて生じる複雑怪奇な人間心理に気付いてはっとさせられる。
現代詩文庫『広瀬大志詩集』。詩集〈喉笛城〉、〈髑髏譜〉、〈激しい黒〉など、恐怖に満ちた詩集を刊行し続けて、今や「広瀬ワールド」は現代詩の世界で確固たる存在となっている。生を肯定したいがために、あえて死や不吉で不気味な表現に拘っているのだろうか。散文「ぬきてらしる」には特に惹かれた。
中村不二夫『辻井喬論』。詩人・作家の辻井喬の詩や小説を丹念に読み込むとともに、経営者堤清二としての活動をひっくるめて論じた詩人論。膨大な作品と資料と取材をもとに、個人的な交流も踏まえ、深い敬意と親愛をこめて書きあげられた労作。客観的なアプローチに徹した執筆姿勢には好感が持てる。
長嶋南子『花は散るもの 人は死ぬもの』。21人の物故女性詩人論。与謝野晶子から氷見敦子まで、女性詩人像が詩の引用とともに怖いぐらいにくっきりと鋭くしかもおもしろく共感をこめて描かれている。男は気取るが、女は身を飾るのが身上でもいざとなれば皮ふを剥いで内臓をさらけだせるものらしい。
秋川久紫『昭和歌謡選集』。「恋のフーガ」等20の昭和の歌謡曲を取り上げ、詞・曲及び歌手・作詞家・作曲家について論じた労作。秋川による替歌の掲載は著作権の壁に阻まれたようだが、昭和歌謡曲へのオマージュと分析が平成の文化や社会の状況を打つための契機を与えるという意図は果たされている。
広瀬大志『ぬきてらしる』。穀象をめぐる八つの物語。1862年にアメリカからイギリスに送ったトウモロコシの中にいたコクゾウムシが日本にもやってくる。内外の著名な同時代人や著者の先祖(?)を登場させた奇想天外の物語。あまりのおもしろさとたしかなポエジーに完全に脱帽。まれにみる傑作だ。
武西良和著『詩でつづるふるさとの記憶』。『わかやま新報』に連載した記事のまとめ。詩とその添え書きと写真で構成。地元和歌山の様々な景色や土地やできごとを詩情深くつづった内容は、郷土愛に溢れていると共に、万葉集や英詩など幅広い教養を持つ著者の洞察力に満ちたエスプリに裏打ちされている。
原田道子著『詩の未来記』。独自の視点と表現へのこだわりを持って詩と詩論を書き続けてきた著者の渾身の評論集。言葉と人間社会への関心の強さと豊富な知識や経験が、歴史的な視野の中でさまざまな事象へ向かうとき、詩は新たな意味を求められる。尊敬する先人との対話や広範囲にわたる研究の成果そして丹念に引用された詩作品が、本書の言説を厚みのあるものとし、未来への示唆を与えるものとしている。
尾久守侑詩集『国境とJK』。街や教室で見かけた女性たちとのリアルとヴァーチャルの境目の、少年少女向けの漫画か小説に見られるような、淡い恋心を描いた詩篇が多いが、著者は医師らしく、病院における検査や治療の場面から巧みに独自の雰囲気に満ちた詩空間が作られている詩篇もある。あいまいでとらえきれない生の感覚がやや寂しく切なそうに表現されている胸きゅんの詩集だ。
ジェフリー・アングルス詩集『わたしの日付変更線』。英語と日本語、過去と現在と未来、アメリカと日本等マージナルな時空での自我の分裂感覚が、運命的な言葉である日本語と出会って、「意味と抒情」を兼ね備えた新たな日本語詩として結実した。44歳にしての実母との出会いも強い陰影を与えている。
神原芳之詩集『青山記』。Ⅰは、戦争に係る悲しみや痛みに満ちた詩篇、Ⅱは、様々な花に託して人生への思いをしみじみと述べた詩篇、Ⅲは、多くの人生経験をもとに物語風に描かれた詩篇。おだやかな筆致ながら、人間存在や歴史への透徹した眼力が、深い感慨を込めた詩作品となって読者の心を揺さぶる。