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「価値観の研究」第三部その1



 『 価値観の研究 第三部 』

 ― 平成27(2015)年5月編集 ―



        
                                    南原充士
   



目次(タイトル及び執筆年月日)

1.『 価値観の創造 』2009/12/8(火)
2.『 脳が脳を考える? 』2010/1/12(火)
3.『 国民 とは? 』2010/1/15(金)
4.『 条約、協定、黙約、暗黙の了解など 』2010/5/18(火)
5.『 ツイッターの功罪 』2011/5/29(日)
6.『 人物の評価 』2011/5/31(火)
7.『 東日本大震災について思うこと 』2011/6/1(水)
8.『 人間社会は基本的に不完全であるという認識 』2012/3/16(金)
9.『 不完全な人類でも進化し続けることができるか? 』2012/7/25(水)
10.『 意思決定のプロセス 』2012/9/4(火)
11.『 死について 』2013/2/8(金)
12.『 死の捉え方 』2013/2/14(木)
13.『 遺言など 』2013/2/18(月)
14.『 死への恐怖 』2013/2/19(火)
15.『 死への道筋 』2013/2/19(火)
16.『 自殺について 』2013/2/19(火)
17.『 ホスピスなど 』2013/2/19(火)
18.『 死後の世界 』2013/2/19(火)
19.『 死の社会性 』2013/2/20(水)
20.『 死から見た生 』2013/2/20(水)
21.『 死ぬまで生きるということ 』2013/3/11(月)
22.『 表現のほどよさとは? 』2013/3/12(火)
23.『 なにかのために命を投げ出すということについて 』2013/3/12(火)
24.『 大義名分ということ 』2013/3/13(水)
25.『 小さな楽しみの発見 』2013/3/21(木)
26.『 生きることへの反転 』2013/4/3(水)
27.『 精神の自由の確保 』2013/4/17(水)
28.『 遺族の立場 』2013/4/22(月)
29.『 故人の残したもの 』2013/5/17(金)
30.『 歴史認識について 』2013/6/14(金)
31.『 犠牲者の遺族 』2013/7/1(月)
32.『 社会心理と個人の心理 』2013/8/8(木)
33.『 権力は悪か? 』2013/8/15(木)
34.『 偉人伝 』2013/12/13(金)
35.『 自伝 』2013/12/26(木)
36.『 哲学の役割 』2014/3/17(月)
37.『 宇宙は論理的なのか? 』2014/3/18(火)
38.『 死についての教育 』2014/4/3(木)
39.『 人間ガイドブック 』への試み2014/4/26(土)
40.「 子供たちのための、『人の一生とはなんですか?』 」2014/6/18(水)
41.「 一般人のための、『人の一生とはどんなものか?』 」2014/8/28(木)
42.『 一億人のための人生読本 』(構想)2014/9/25(木)
43.『 犯罪等にまきこまれた場合の対処法 』2014/9/26(金)
44.『 接し方 』2014/11/13(木)
45.『 価値観の整合性 』 2014/12/12(金)
46.『 価値観の変更について 』 2014/12/18(木)
47.『 良識ある人 』 2014/12/19(金)
48.『 結婚について 』2015/1/6(火)
49.『 理性と感情について 』2015/2/9(月)
50.『 希望 』 2015/2/10(火)














1.『 価値観の創造 』

 ひさしぶりに、「価値観の研究」を再開する。第三部のはじまりである。

 すでに第一部で、体系的な整理をし、第二部で、個別論による補足をおこなったところであるので、第三部では、論じ忘れたことや思いついたことを少しずつ書いていきたい。ゆっくりしたペースとなるだろうが。

 はじめに、「価値観の創造」について述べたい。

 すでに「人間には生きる目的などないかもしれない」ということについては取り上げたが、では、どうやって生きていったらいいのか、ということに触れたい。

 実は、どんなに賢い人間でも、絶対的な真理や生きる意味を示すことはできない。

 科学的な事実や理論なら、客観的なアプロ-チが可能だが、人間が生きる意味などは客観的に説明しようがない。

 ただ、動物のように生まれて死ぬ。自然のままに生きて寿命がくれば死ぬ。結婚して子供をつくるかもしれない。意味などわからないが、本能や行きがかり上、なにかの痕跡が残る。

 あらゆる価値観は創造されたものだ。法律も、ルールも、主義主張も、道徳も、宗教も、幸福感も、仮のものとして生み出されてきたものだ。歴史の積み重ねの中で、いつとはなしに、絶対的な価値観であるかと思われ、そうひとびとが信じてしまったということだ。あるいは、ある社会で生きていくためにやむをえず受け入れているものだ。

 現在は、社会に奉仕するとか平和をたいせつにする、とかいうことは当然推奨されるべきことだと考えられている。しかし、世界に利己的な人間ばかりいれば推奨されないだろうし、戦争で利益をあげる人間ばかりだったら、平和など歓迎しないだろう。

 自由・平等・博愛とか、基本的人権とか、結婚制度とか、権力構造とか、商取引とか、契約関係とか、
人間の生活のさまざまな局面で登場する理念や制度や慣行は、便宜的に生み出されてきたのではないだろうか?人間の本質的な要素によって必然的にそのような制度が生まれたとは考えにくい。

 かつて述べたように、価値観は複数存在する。それらは、常にレヴューされる運命にある。複数の価値観は常に競争する。勝ったり負けたりしながら、価値観は変化し、交代する。永遠に、なにか絶対的な価値観へと収束されることはないだろう。人間が存在し、社会がある限り、変化しつづけるのが価値観だと思う。

 価値観は、常に創造され、提示され、競争する。民主主義とか資本主義とかも、歴史のある時点で有効とされたシステムだといえる。

 価値観は与えられるものだと考えるひとびとが多いかもしれないが、実は、一定のひとびとが切磋琢磨して生み出しているものだと考えたほうがよい。

 人間は、もっともらしく、正義や道義や説くが、あらゆるものは仮のものであり、たまたま採用されたに過ぎない。それでも、そういうシステムの中で、否応なくそれに縛られて生きていくしかない人間がほとんどであるという事実も否定しようがない。因果なものだということを忘れてはいけない。

 しかし、だからと言って、絶望や無軌道を勧めるものではない。人類の知恵は創造され、相対的にすぐれた価値観であるというものは存在するのであるから、そういう価値観を的確に選択し、修正を加えていくことはできるのだから。

2.『 脳が脳を考える? 』 

 脳科学が目覚しい発展を遂げているようだ。宇宙のことも素粒子のことも遺伝子のこともこの百年ほどの間に人類史上かつてなかったほどに長足の進歩をとげつつあると言えるだろう。

 わたしは科学者ではなく、それらの進展になんら貢献できてはいないが、素人でもよくわかる月刊誌「NEWTON」などで最新の情報に接することは大きな喜びだ。

 宇宙の成り立ちはかなりわかってきたようにも見えるが、まだまだわかっていないことも多いようだ。たとえば、「無」というものについては理論的に解明しきれていないらしいし、宇宙の構造が何次元であるのかもはっきりわかっていないらしいし、素粒子が「ひも」のようなかたちであるという説が提唱されたり、重力などの力の働きも「場」としてとらえようとするアプローチがあるようだし、極微の世界においては相対性理論の適用は不可能らしいし、素粒子の時間と位置を確定することが困難だという理論(不確定性理論とかいうらしい)もあり、曖昧模糊とした部分が数多く残されているという。

 遺伝子の仕組みもまだまだ解明され尽くしてはいないようだし、分子生物学の研究成果の医療への適用も徐々に行われているに過ぎないらしい。脳の仕組みもまた、研究の端緒についたばかりだと考えたほうが的確かもしれない。

 常々思うのは、どんなに厳密な理論を展開しようとしても、脳の認識や理解の構造が可能な範囲でしか考えることはできないのではないかということだ。つまり、脳が本来的に避けようとする認識や論理あるいは認識や理解ができない事実や現象というものがあれば、どんなにあがいても到達できない領域だという気がする。

 人間の脳がわかる範囲で研究は進めるしかないと思うが、「時間」「空間」「次元」「論理」「無」「宇宙」「生成」「消滅」「素粒子」「生命」「遺伝子」「DNA」「量子力学」「場」「エネルギー」「不確定性」など五感を通しては到底理解できない概念も多いような気がする。
 数式の世界でしか議論できない世界については、(たとえば、素粒子が波と粒子の両方の性質を持つ、などと言われても実感はできないと思う。理論的にはそうだと信頼できる科学者が言うから信じるという者がほとんどだろう。)

 この宇宙には、人間には先天的に理解できない認識や構造があると考えることには実際的な意味はないかもしれないが、そのような可能性を念頭においておくことは重要なことではないだろうか?

 宇宙が不可知だからと言って、ただちに「神」「超越者」「絶対者」という論理を超えた存在に依拠することなく、地道に研究を進めるべきだと思われる。おそらく、宇宙や生命のあまりの複雑さや精巧さを眼前にすれば、だれでも「人間を超えた存在」を信じたくなるだろう。そこをじっと耐えて、知りえた知識や経験を増やしていこうとする姿勢がたいせつなのだと思う。

 さらに、こうしたアプローチは科学の分野だけでなく、社会においても文学といった領域においても、不可避とならざるをえないと思う。






by nambara14 | 2015-05-23 19:51 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)