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「価値観の研究」第三部その3



11.『 死について 』
                           
1.生老病死という言葉がある。人生を簡潔に言い表していると思う。
 だれも「生まれるの」であって、気が付いたらこの世に存在するという出発点に立っている。芥川龍之介の小説「河童」のような選択権はないのである。
 老いもまた避けがたい。
 病気は軽重さまざまだが、死に至る重篤な病を得るかどうかは遺伝と生活習慣と環境と運にかかっているのだろう。
 重篤な病はなくても老衰によってひとは死に至る。
 苦しみや痛みの程度や体の自由度や認知症の程度など、ひとそれぞれだが、だれも死をまぬかれない。
 人間は基本的にそういう認識を持って生きる。覚悟しようとしまいと生きることは死によってピリオドが打たれる。死にたくないという思いや死への恐怖感さらには死後の世界の不安など生きている人間にとって死は扱いにくいものだ。

2.過去の人間の死への向かい方についてはさまざまな記録や情報が残されている。世俗的なものから宗教的なものまで多岐にわたっている。先人の経験や感情や考え方は参考になるが、どれだけ救いになるかは受け止めるひとによって異なるだろう。なにせ死人は生き返らないので死の経験を語ることはできないし、聞くこともできない。
 日々多くの人間が生まれ多くの人間が亡くなっている。葬儀も日々行われ、自分の家族や知り合いの死に遭遇することも少なからずある。日常生活の中に死は入り込んでいるので、珍しいことではない。だが、自分の死となると話は違う。死んでしまえば、世界はなくなるという感じがする。実際には、自分が死んだ後もなにごともなかったかのように世の中は続いていくだろうと思っているのだが。

3.死へのステップはだれも予測できない。突然死もあり、長く病床に伏せる場合もあり、認知症で判断力が衰える場合もある。心臓、脳の疾患やがんなど命にかかわる病に侵されることもある。自分の身近な人間の死にざまを観察すると、自分の心身の健康もまた危ういものだと認識する。そして、医療や介護の重要性が理解でき、そのための仕組みの持つ意義もよくわかる。さらにすべてには費用がかかるので収入、蓄えの必要性、公的な補助の必要性などにも思いが至る。
 一寸先は闇だという認識のもとに、死ぬまで生きることは意外とやさしいことではない。そこには、自分の価値観、希望、環境、運命、医療介護の現状などが複合的にかかわる。いずれにしても多くのひとたちの支援なくして死ぬことはできないようだ。

4.以上のように、ひとそれぞれの死というものがありうるわけだが、自分の死はなかなか客観的に受け止めにくい。感情も揺れ動く。恐怖感や絶望感や無気力感などが交錯するだろう。たんたんと死を受け入れることができないかもしれない。あるいは、植物人間になって意識を失うかもしれない。だれにも起こりうることだ。おそらく絶対の死に方マニュアルというものはないのだと思う。ひとそれぞれ運命に翻弄されて右往左往しながら、あきらめたり取り乱したり恨んだり感謝したりしながら、臨終を迎えるのだろう。
よくわからないけれども自分にかならずやってくる死というものを自分なりに考えておくことは必要だと思う。半面、死について考えすぎると精神的に落ち込んで明るく楽しく生きられなくなるかもしれない。
 なにごともほどほどが肝心かもしれない。
 死については、あまりに重たいことなので、結論めいたことは言えない。

12.『 死の捉え方 』

1.人間は死を免れない。Man is mortal. 死を忘れるな。 Memento mori. ということは古来言われてきたが、そのニュアンスは、時代とともに変化してきたらしい。もともとは、「どうせ死ぬのだから生きている間は楽しくやろう」、という意味合いが強かったが、やがて宗教と結びつくと、文字通り、「人間は死を免れない」ということを認識せよ、という教訓的な意味合いになったらしい。

2.人間は死をどのようにとらえてきたかを調べてみると興味深いことが明らかになるだろう。そんな中で来世があるという考え方は歴史的にかなり根強いものがあるように思う。
 現世での行いによって、来世に自分が天国に行くか地獄に行くかが決められるという考え方が代表的だろう。
 東洋の極楽浄土と地獄、西洋の天国と地獄、最後の審判などは好例だろう。
 来世への恐怖が現世における行いを清く正しいものにさせるという論理はわかりやすい。
 しかし、来世があるかどうかの証明は難しいのではないだろうか。神が存在するかどうかの証明と同様に。信じるとか感じるとかが大切だと言われるが、科学的な説明として受け止めることはいろいろ難しさがあるような気がする。

3.最近では、「人は死ねばゴミになる」というような見方もある。無神論的な見方なのだろう。この考え方からすれば、来世もなければ、輪廻もない、魂はなく死ねば肉体が朽ち滅びるだけだという。
 この考え方が科学的であると断言できるかどうかはよくわからない。

4.多くの人間が死を恐れることは事実だと思う。そのことが死を直視することを困難にする原因のひとつだろう。余命いくばくもないと知った時には多くの人間が周章狼狽するだろう。パニクって冷静ではいられなくなるだろう。精神的な動揺が現実を正確にとらえにくくする。悟りを開くのは容易ではなさそうだ。迷いや不安や苦悩や恐怖の内に、最期を迎える人間が多いのではなかろうか。意識を失ったままで亡くなるケースもあるが。宗教を信じ、聖職者に懺悔し告白し導かれながら、穏やかな精神状態で神の迎えを待つという心境に達する人間もいるだろう。最期についての考え方、受け入れ方、迎え方は、ひとそれぞれだろうし、どれが正しいと結論が出るものでもないと思う。いわば、答えのない問い、永遠の謎の中で今後とも、人間は生きて死んでいくしかないということではないだろうか?

13.『 遺言など 』
 
1.自分の死を冷静に考えてみれば、すでに故人となったひとびとがどんな死の準備をしていたかについて関心をもつだろう。
 ちなみに本居宣長は、ヤマザクラを配置した自分の墓のデザインを書き残しておいたそうだ。

2.死への準備をいくつかのカテゴリーに分けて考えてみれば、次のようなことが考えられる。

(1)遺言(主として財産相続の件、法律に基づく処理)
(2)財産相続を除く事項
  ①葬儀の方法(仏式,神式、教会葬、人前式など)
  ②墓地、埋葬の方法(墓、樹木葬、散骨など)
  ③遺品の処理方法(相続財産以外のもの)
(3)会社のオーナー経営者などの場合は、後継者などについての指名あるいは希望
(4)遺族、友人、知人等への感謝の言葉等
(5)その他

3.遺言については、民法など関係法令に従って処理する必要があるので、弁護士や司法書士などと相談することになるだろう。

4.葬儀、埋葬方法については、本人の意向が尊重されるべきだと思うが、遺族がそれに従うかどうかは事情によるだろう。パニック状態にあれば、通常の仏式の葬儀という方法を選んでしまう可能性がある。余裕があれば、個人の意向どおりに処理してくれるだろう。

5.オーナー会社の経営者であれば、後継者について明確にしておく必要があるだろう。ただし、生前に手を打っておける可能性もあるかもしれない。

6.配偶者や家族、その他親交のあった友人知人に言葉を残したいと思う場合もあるだろう。様式はいろいろ考えられる。

7.その他ひとそれぞれのこだわりがあるだろうから、それを生前に準備しておけばよいだろう。たとえば、廃棄処分を望む書類、写真、手紙、メールなどがあるかもしれない。そのような場合はその旨を書き残しておいた方がよいだろう。なお、慈善団体への寄付などは、遺言の中で明確にしておくべきかもしれない。
 概して、死後になにをすべきかは最小限にできるように、できるだけ生前にできることは生前にやっておいた方がよいと思われる。
 死後のことは、死人に口なしということで、見届けようはないが、遺族などの心情や負担を考慮して生前に処理できることは最大限しておくというのが人間として望ましいと思う

14.『 死への恐怖 』

1.死への感情は複雑だろう。恐怖感、絶望感、錯乱、無気力、あきらめなど。
 漠然とした不安や自分がいなくなってしまうことへの恐怖感や精神的な錯乱にふりまわされるのはごく自然なことだと思える。

2.漠然とした死の観念とは別に、死に至るまでにさまざまな苦しみを経験することも大きな不安材料だろう。

 たとえば、脳こうそくで全身あるいは半身不随になるとか、言語障害になるとか、がんの進行で強い痛みにさいなまれるとか、事故や病気でで体の一部を失うとか、介助者なしには日常生活が営めないとかの状況に陥ることは大きなプレッシャーとなるだろう。

 視力や聴力、味覚や嗅覚、触覚などが低下することも耐えがたい試練と言えよう。

 
3.突然死は別として、人間は死ぬまでの過程においても苦悩にさいなまれるおそれをかかえているわけだ。

 そして、いかなる道筋で死を迎えるかもあらかじめ予知することがむずかしいので、ほとんどの場合、不幸は不意打ちでやってきて、否応なく人間にとりつくというものだ。

 
4.死は世の中にごくふつうにみられるもので、めずらしくもなんともない。だが、個人にとっては、死は一回限りで特別で絶対的なものだ。

 死に至るまで悟りを開くこともなく乱れた感情を持ち続けたとしても不思議はないと思う。

 死はそんなにかんたんに受け入れることができるものだとは思えないからだ。

15.『 死への道筋 』

1.人間の死に方はさまざまだ。老衰、自然死、病死、事故死、自然災害による死、犯罪による死、決闘やケンカによる死、無差別殺人による死、テロ、戦争、戦闘、内乱等による死、刑死、虐殺、自殺、心中など。

 病死にも、脳こうそく、心筋梗塞、がんなどさまざまなケースがある。

 自然災害にも、台風、地震、高潮、津波、大雨洪水、地滑り、地割れ、地盤沈下、なだれ、竜巻、隕石落下などいろいろな場合がある。

 事故死にも、交通事故、転落事故、墜落事故、落下事故、水死、衝突、挟まりなどいろいろな形態がある。

2.すべての人間が、自宅で穏やかな死を迎えることができるわけではない。
突然死、不慮の死、不遇の死といった痛ましい死を迎える人間も少なくない。

 しかも、どんな最期を迎えるかは、運命による要素が強いと思われ、人間の努力には限界があると思われる。

 もちろん、できるだけ事故に遭わないような配慮や病気にならないような健康管理に努めることは無駄ではないだろうが、非情な運命をどれだけ左右できるのか定かではない。

3.死の時期やタイミングがなんらかの兆候としてあらかじめ示されることは少ないと思われる。重い病気に苦しむ人間が徐々に病状が悪化して死に至ると言うような場合はある程度想定内だと言えるだろうが。

 多くの場合、個々の人間はいつ死ぬかわからないまま生きている。余命宣告されないことで、比較的落ち着いた心的状態で過ごせると言うメリットがあるだろう。

 だれでもいつかは死ぬのだが、すぐには死なないというのは極めて大きな安心を与える材料だろう。あいまいさの意義は大きい。

16. 『 自殺について 』

1.死を恐れる人間の多い中で、自ら命を絶つ人間もいる。
 最近の日本でみれば、毎年約3万人の自殺者がいるという。痛ましいことだ。
  その原因は、病苦、借金苦といった割合が多いらしい。追い詰められて、苦しみに耐えられなくなって、死を選ぶという場合が多いのだろう。

2.ひとりの人間の中でも、生きたいという欲求と死にたいという欲求が共存しているケースもあるように思う。揺れ動く心理状態の中で、精神状態がきわめて悪い方に振れたときに、逃げ場がなくなって死を選ぶのだろうか?

3.自殺を予防しようとする取り組みも公的機関などで行われているようだが、カウンセリングとか薬の投与とかをはじめ、医師やカウンセラーなどの専門家による判断のもとに、家族や友人や知人や同僚が自殺防止に協力するというかたちが有力な方法のひとつではないだろうか?

4.宗教によっては自殺を禁止しているものもある。そういう掟を破って自殺すれば本人も宗教的に不利な扱いを受けるだろうし、遺族もつらい目に遭うかもしれない。宗教とまで行かなくても、一般的な社会的関係の中でも、自殺した者の遺族などは他人から特殊な目で見られるということがある。一人の人間の死が死後にまでさまざまな影響を及ぼす例である。
 では、そういう悪影響を及ぼすことを考慮して自殺を思いとどまれるだろうか?おそらく答えは否だろう。どうしようもなくなっての自殺という場合が多いのではないだろうか?

5.神風特攻隊は強制されての行為だっただろうが、最近のテロリストには宗教や社会的使命感によって自爆テロをする例もあるように見える。

 自殺の一形態ではあるが、上に述べたケースと性質がだいぶ異なると言えるだろう。

 人間の死もまた複雑怪奇なものの最たるものであることは言を俟たないだろう。

17. 『 ホスピスなど 』

1.死への道筋がさまざまであって、多くの人間が老いや病気や事故等により介護が必要な状況に追い込まれる時代状況の中で、人間が尊厳ある死を迎えられるようにすることは社会的に重要なことだろう。

 医療や介護の体制の整備が求められる。

 病気になれば病院で治療を受けるが、治療が済めば退院せざるを得なくなり、自宅に戻るかどこかの施設に入居する必要が生じる。

 特に、体に不自由があって自立できない人間にとってだれかの支援を受けらるかどうかは文字通り死活問題である。家族がいればある程度のサポートが期待できるが、身寄りがない者の場合は、システムにすがるしかない。しかも、収入が乏しい者である場合は、生き延びる手立ても限られて来るだろう。老後の蓄えや年金やなんらかの収入があればよいが、そうでない場合は生活費を工面することがきわめて難しいい試練となるだろう。

 お金に余裕がある人間の場合でさえも、民間の有料老人ホームなどお金でサービスを得られる場合はよいが、がんや呼吸器系の病気など施設が受け入れを拒否する場合もあるだろう。

 そうした場合は、なんらかの支援体制がなければ生き延びていけないことになる。

 自宅にいて、24時間ヘルパ^-などに介護を受けるといようなサービスが必要となる場合があるが、収入も貯金もない人間にたいしてはどのように取り扱ってくれるのだろうか?

 
2.末期がんの患者を受け入れるホスピスの存在が知られているが、今後ますますその重要性は増してくると考えられる。

 単なるボランティアではなく、医療介護体制の中できちんと位置付けていく必要があると思う。

 今、医療介護制度については、財政問題、患者の負担割合、従事者の資格や待遇など困難な問題が山積しているが、少子高齢化時代を迎えて、その重要性はますます大きくなっている。

 死へのステップを尊厳あるものとするのが人間社会の責務であると思う。みんなで知恵を出し、力を合わせて解決の方向を見出していくことが望まれる。

18.『 死後の世界 』

1.死後の世界については、古来さまざまなことが言われてきたが、だれにも確かめることはできない。

 エジプトのミイラは人間が蘇ることを信じた上での制作だっただろうし、仏教の浄土や地獄、輪廻といった考え方も興味深いし、キリスト教の天国と地獄、最後の審判といった捉え方もあるなど、さまざまな宗教や思想が死後の世界を想定し描いていたことはまぎれもない歴史的事実である。

 たしかめようもないのに、長い間多くのひとびとによって信じられてきたという事実は重い。
 人間にはなにかを信じたい、つまり生老病死を背負った人間というものを導く教えや価値観とでもいうべきものを欲する必然性があるのだろうか?

2.あの世とこの世とか、三途の川を渡るとか、盆には先祖が帰って来るとか、日本人の生活にもそういう慣習が根付いている。社会慣習というものは、冠婚葬祭にみられるように、科学的な進歩が顕著であっても、ただちに否定されたりすたれるものではない。
 人間にはあるいは宇宙にはまだまだ解明されていないことがたくさんあり、これまでわかってきたことからだけでは、すべての謎を解き明かせないということは確かだろう。

 死後の世界という捉え方についても当分は受け入れられていくと思われる。

3.死後の世界については、信じるかどうかという観点以外にも、一種の空想的な物語やロマンとして楽しむと言う姿勢もありうるかもしれない。そこには人間の生が反映しているともいえるかもしれない。
 人間は生の中でしか生きられないが、死を意識せざるを得ない存在として、過去の死者や死の捉え方などを生の中に取り入れて生きていかざるを得ないのかもしれない。
 多くのことは仮定形で語られるにしても、死は常に生の最後に居座るのだから。





by nambara14 | 2015-05-23 19:47 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)