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「価値観の研究」第三部その4



19. 『 死の社会性 』

1.死は個人のものだが、死の社会的な関わりは無視できないものだと思う。
 それは生と死とをひっくるめた社会性と言えるかもしれない。

  生老病死は、すべての段階でなんらかのかたちで他者の助けを得て成り立つ。他者には親や家族も含むが。
 つまり人間がひとりきりで生き延びることはほとんど不可能なのが人間社会なのである。野生の動物なら可能かもしれないが。

 生まれてから成長し老いて死に至る各段階で人は社会とかかわりを持つ。

 死について言えば、たとえば、葬儀、法要、何回忌、墓参りといったしきたりがあり、遺族をはじめとする縁者がかかわってくる。

 そうしたしきたりを無視することは実際上きわめてむずかしい。それこそ村八分を覚悟しなければならないだろう。

2. 天才とか有名人とかを除けばほとんどの死者は時間の経過とともに忘れられていくだろうが、不名誉なレッテルを張られた死者はなかなか忘れてもらえないかもしれない。死後のことだから死者本人とはかかわりがないものの、遺族など関係者には大きな影響を及ぼし続けるだろう。
 
 人間は生きているときに自分の死後のことを考えて行動することはあまりないだろうが、遺族に迷惑をかけないようにしたいと思う者は少なくないだろう。

 死後に名声が高まるという例もあるが、そういう願いを胸に臨終を迎える人間はあまり多いとは思えない。

 死は死者の歴史を通じて人間の社会においてかたちを与えられる。

 言い換えれば、生者が、それぞれの社会の固有のかたちで、死を取り扱うのだと思う。

20.『 死から見た生 』

1.自分の死を想定して、そこから生きている自分を眺めてみるというようなことをしてみると、生と死というものがより密接に思えてくるかもしれない。

 さらには、心身の能力が衰えて、十分な活動ができなくなった人間の生きる意味というような問いも浮かび上がってくるかもしれない。

 生きがいというのは、おそらく大多数の人間はあとから見出すもの、あるいは妥協の産物だろう。見つけられないままの人間だっているだろう。

 どうせ死ぬのだから、悔いのないように生きよう、というようなことがしばしばいわれる。

 そのとおりだが、悔いのないように生きることは実際はとてもむずかしいことだと思う。

2.余命いくばくもない人間がじっと病床に寝たきりで食事もトイレも自分では処理できずに最後の時を過ごしているというような場合に、その人間の生きる意味とはなんだろうか?

 命のある限りは生きるというのが人間に与えられた運命であって生きることそのものに人間の尊厳を見出すべきだと考えるのか、あるいは、あきらめて、その段階においては、もはや生きがいは失われて死ぬのを待つしかないと考えるのか?

 介護施設等で多くの高齢者を見るにつけ、人間とはなにか、人生とはなにか、生きるとはどんなことか、生きがいとはなにか、生きる意味はあるのか、人間の尊厳とはなにか、人間の幸福とは何か、等々多くの困難な問いに面食らう。

 ひとつだけ言えるとしたら、死を避けることなく、直視することは、(たとえ恐怖感に襲われることがあっても)、生きるということを見つめなおすというきっかけを与えるということだ。

 人生はシナリオのないドラマであり、答えのない問であり、始まりと終わりのあるものだ。

 普遍的な生き方の案内書はない。ひとそれぞれが自分で自分の生き方を見出すしかなく、予期せぬところで未完に終わるのが人生というものだろう。

21.『 死ぬまで生きるということ 』

1.死が間近に迫っている場合とある程度余命が限られている場合と明確な死期がわかっていない場合とでは、人間の生きる意識や姿勢に違いがあっても不思議ではない。

2.死が間近に迫っている人間の場合は、いかに死を受け入れられるか、安らかに最期を迎えられるか、が問題だろう。植物状態ならともかく、意識があって痛みが強いというような場合では、緩和ケアが重要な意味をもつかもしれない。医療関係者や家族などの協力もたいせつだろう。死を目前にしてじたばたしないでいられるのかどうかはよくわからない。

3.死が目前でないまでもある程度余命に限りがあると告げられた場合は、それなりの心の準備はしやすいかもしれない。やれるだけのことをやって最期を迎えられればやむを得ないというふうに思えるかどうか。やはり死期が近づいて来れば、上記2の場合と同様な心理状態に至るのだろうと思われる。

4.まだ死期が明確に示されていない場合はどうだろうか?
 年齢によって違うかもしれない。20歳以下なら、死は遠いもので、生きることへの関心で満たされているだろう。30代、40代でも死はそれほど身近なものではないだろう。50代になれば、少しは死というものを考えるようになるだろうが、それでも30年以上先のことだと思うだろう。還暦を迎えるころから、人生は最終段階に入るという意識を持ち始めるかもしれない。病気にも襲われる確率が高くなり、死というものが次第に近づいていると感じるようになるだろう。

 70代になれば、元気でいられればありがたちということで、次第に社会の第一線からは離れて自分の年齢というものを考えるようになるだろう。80代になれば、そろそろなにがあってもおかしくはないという心理は働くだろう。90代以上になれば、生きているのが僥倖といった感じになるのではないだろうか?

5.さて、死へのステップや死への意識はさまざまであるのせよ、多くの人間の死を振り返ると、生きている限りは、とにかく楽しいことやうれしいことや希望を持てることなど人生を前向きにとらえることがいいのではないかというように思える。絶望に陥った人間に笑っていろというのは酷なようだし難しいことだとは思うが、できうれば、楽しそうに笑って最期を迎えるのが理想的ではないかと思える。自分がはたしてどういう最期を迎えるかははなはだ自信はないにせよ。

22. 『 表現のほどよさとは? 』

1.人間のコミュニケーションの基本は言葉で伝えることである。
 表情やしぐさや映像等で伝えることもあるが、基本は言葉によるコミュニケーションである。

2.言葉はいつも使っているが、実際はとても難しいものだ。
 余計なことを言って傷つけたり、不愉快な思いや退屈な感じを与えることがあるかと思えば、言葉が足 らなくて相手に自分の意図や思いを正確に伝えることができないこともある。

3.おそらく、言葉を使う人間の性格や生まれ育った環境や自分なりに形成した価値観によって、言葉を どのように発したらよいかという方針が決まるのだろう。
  おしゃべりな人、無口な人、ほどほどのひと、いろいろいるが、必要なことを適時適切に表現できる 人は必ずしも多くはないし、また「適時適切」についての判断もひとそれぞれだから、一概にだれがど うかということを決めつけることも難しい。

4.たとえば、だれかが入院したとしよう。だれに連絡すべきかの判断は難しいだろう。手術の結果を伝 えるのも同様に難しそうだ。連絡をする立場の人間の判断によるということになるだろうが、連絡を受 けるのが当然だと思っている相手に連絡しなかったら、気持ちに食い違いが生じうるだろう。

 
5.契約や規則がない日常生活のさまざまな場面で、上記のようなコミュニケーションの過不足の問題は 頻発する。常識、良識、マナー、気配りといった分野については、言葉による表現のほどよさをどのよ うにして身に着けることができるのだろうか?社会や地域の知恵が求められるだろう。
 

23.『 なにかのために命を投げ出すことについて 』

1.死ぬのを恐れる人間が時としてなにかのために命を投げ出すことがある。
 我が国の歴史を見ても、切腹、特攻隊など社会的な強制による場合もあれば、三島由紀夫のように憂国 の情から起こそうとしたクーデターに失敗して自ら死を選んだ例もある。
  外国でも、政治や宗教に殉じる例も多く見られるようになっている。爆
 弾とともに自爆テロを敢行するいわゆる「スーイサイド・ボミング」などは
 典型的な例と言えるだろう。

2.個人的には死を恐れ死を免れたいと思いながら、他方、国家とか社会とか
 宗教とかのために尊い命を犠牲にしてもよいという相反する心理は人間には
 ありうることと言える。
  愛する者のために命がけで戦うという心理の延長線上には、なにか大義が
 あれば命を投げ出してもいいと思える人間のふしぎな心情が存在するような
 気がする。
  戦争が勃発するのは、政治的経済的利害の対立が限界を超えてしまっ
 たという場合が多いだろうが、そのような状況においては、愛する家族や仲間のいる国を守るために命 がけで戦うという集団的心理が働きやすいように見える。

3.かたちの見えない人間の心理や感情というものも、ある種のかたちによって影響されるということは 真理だと思える。尊敬する師の言葉に従ったり、法令による強制に従ったりする心理や自分の信念によ る行為やはずみでやってしまう英雄気取りなど実に多くのケースがありそうだ。
  個人の死とは別に、集団の中での死という捉え方も必要な視点だと思える。心理学や社会心理学とい った学問的アプローチも歴史的アプローチに加えて重要な意義を有すると思う。
  犬死を防ぐための知恵は人類全体で取り組む価値のあるテーマであることは言を俟たない。

24.『 大義名分ということ 』

1.人間には生きる意味があるかどうかと正面から問われれば答えに窮する場合もあるだろう。後付けの理屈はいろいろ言えるが、そもそも『生まれてきてしまった』人間には生まれるかどうかの選択権がないのだから、答えのない問いだと言えよう。

2.人間が生きるということについてどんなに虚無的な捉え方をしても、生きている以上は腹も減れば眠くもなりさまざまな快不快に直面する。理屈以前にさまざまなことに追いまくられ対応を迫られる現実がある。そのうち、おいしい食べ物や酒、高級な衣服、豪邸、恋愛、スポーツ、芸術、旅行など多くの楽しみを発見して、生きているのも悪くはないと考えるようになるかもしれない。

3.ところで、衣食足りて礼節を知る、と言われるように、欲望に突き動かされて行動している段階から、自分の行為が正義や正当性に則っているかどうかを気に掛ける段階へと移ったとき、どのようにしてそれを判断するかは重要な問題となる。

 政治、経済、社会、文化に加えて、歴史、民族、宗教、などの制約を受けつつ物事を判断せざるを得ない人間にとって、絶対正義は見出しがたいだろう。たとえば、テロとの戦いでテロリストを軍事的作戦により殺戮することは正義だろうか?テロリストのサイドから見ると事情は違って見えるかもしれないし、異なる正義があるかもしれない。

 正当防衛でひとを殺すこともある。恋人を殺された仕返しに犯人を殺すことはどうか?現行刑法では正当化されない。

 なにかをするときにはそれなりの理由があるが、殺し合いのような極端な場合は、どこかで正当化という過程が存在することが多い。
 人間は「大義名分」を求めることで良心の呵責なしに、他人を攻撃することができるのだろう。

 人間の心理と行動は不可思議なものだと思う。

25.『 小さな楽しみの発見 』
                  
1.老いるにつれて心身に障害がみられるようになると、在宅にせよ施設入居にせよ、なんらかの手助けや介護が必要になる。

 障害の程度はひと様々なので、介護サ-ビスもそれぞれに応じた内容が求められる。

2.費用負担の問題は大きな比重をしめるだろう。裕福な人と貧しい人と中間の人とで、問題の処理のしやすさが変るだろう。

 仮に、最低限のサービスを受けることができて、一応毎日の生活を送っていける場合を想定しよう。

 そうした場合に、忘れてはならない視点が、毎日なんらかの楽しみを見出せるかどうかということである。

3.小さな楽しみの例を挙げてみよう。

 ①書道に親しむ。
 ②絵を描く。
 ③新聞、雑誌、本などを読む。
 ④テレビを見る。
 ⑤花を活ける。
 ⑥歌を歌う。
 ⑦おしゃべりをする。
 ⑧電話をする。
 ⑨俳句や短歌を作る。
 ⑩散歩する。
 ⑪音楽を聴く。
 ⑫おいしいものを食べる。
 ⑬花を見る。
 ⑭風呂に入る。
 ⑮リハビリ体操をする。
 ⑯手紙をやりとりする。
 ⑰できればPCにアクセスする。

 人間の暮らしは、小さなことの集合である。食事、トイレ、睡眠を基礎として、こまごまとしたことを繰り返す。仕事を持たなくなった人間は特に時間の使い方が大切になる。

4.心身の状態や家庭環境などに左右されながらも、死ぬまでの時間を有意義に楽しく過ごしていくことが望ましいと思う。そのためには、日々小さな楽しみを見つけることが大切だろう。

 本人が自分で見つけられるのが理想だが、そうでない場合は、周りの者が手助けすることが求められる。

 話しかけたり、要る物を尋ねたり、一緒にできることを探したり、今後のスケジュールを相談したり、なんでもいいから、日々の暮らしが楽しくあるいは少なくとも苦しくも辛くも悲しくもないようになるように手を差し伸べることが望ましい。

 死期が迫った人間でも、死のことばかり考えているわけにはいかないし、そうあるべきでもないし、周りの者もまたそれは避けたいと思うだろう。

 だれでも生きている間は、幸福になりたいと思うだろうし、楽しく過ごしたいと思うだろう。
 そういう方向性をたいせつにしながら、人間が最期を迎えることができたらいいと思う。

26.『 生きることへの反転 』

1.死というものを見つめても悟りが開けるとは限らない。そこで、死を突き詰めることを一時やめるという選択もある。となれば、日常のわずらいへと視点は帰って行き、いかに生きるべきかというこれまた答えの見つけにくい問に直面する。

2.「生きる意味はなにか?」とか「生きる目的はなにか?」とか「生きる喜びとはなにか?」とかいう問いについては、すでに他の項目として取り上げたことがあるが、死を考えた視点から転じて生を見直すという視点は新しい視点だと言えるかもしれない。

3.命に係わる病を経験したひとびとの手記などを読むと、生きていることのかけがえのなさを感じて残された時間をたいせつに生きたい、というものが目立つ。もちろん、絶望して、生きていてもしようがない、と感じながら生き続けている人や、苦悩や錯乱の中で日々を送る人や、植物状態になってしまった人など、前向きの捉え方をする人ばかりではないだろう。
 
4.死を身近なものと感じたことのない多くのひとびとにとっても、死を身近に感じざるをえなかった経験を持つ者の生の捉え方や生き方は参考になると思う。
 人生には答えのない問が多いというのが真実だろうが、多くのひとびとの生き様や感想や経験談は貴重な教科書になりうると思う。

5.所詮、人間の寿命は長くても100年程度だ。平均すれば80年ぐらいだろうか。男女差はあるようだが。

 だとすれば、いつかは訪れる死にいかに向かい合うかということもタイミングを見ながら考えておく必要はあるだろう。結論はなくてもやむをえないと割り切って。

 多くの人々は、生死のことを考えるいとまもなく日々の雑事に追われていることが多いかもしれない。むしろ、深刻に思い悩む時間が多すぎない方がいいのかもしれない。

 6.死に近づきながら、そのまま死に至るのではなく、生き延びて生へと反転することができれば、不幸中の幸いということかもしれない。

 高齢化社会にあって、多くの高齢者が重篤な病気を経験することがふえるだろう。そうすれば、一人の人間が、生き延びることを繰り返して、ついには死を免れなくなるというようなケースがふえることは想像に難くない。

病気と闘わないという考え方の人間もいるようだが、多くはなんとか病気と闘って克服して少しでも長く生きたいと思っているように見える。

 哲学的なアプローチは難しいが、現実を観察するということに徹するだけでも人間の人生や生死というものが少しは冷静にとらえることができるかもしれない。あるいは、本当に死期が迫ればそんな悠長なことは言ってられなくなり、泣きわめくことができるだけかもしれない。

 いずれにしても、生死について明確な答えなど期待できないのだと思う。

27.『 精神の自由の確保 』

1.さまざまな価値観を有する個人、地域、社会、国家等がこの地球上には存在するが、それらがいかにして価値観の多様性を相互に認め合い尊重し合い平和的に共存共栄しうるかということが価値観の研究の最大のテーマである。

2.価値観は多様だが、価値観が形成されるプロセスも多様であり、複雑である。親兄弟や地域住民、学校の先生、職場の同僚、友人知人等の影響も無視できない。
 たとえば、最近の大きなテーマである原子力発電所の建設や稼働を認めるべきかということについては、国民の間で大きく意見が分かれている。
 このように重大で複雑な問題について自分なりの考えや態度を決めるのはやさしいことではないが、どのようにして自分の意見を持つべきかということは一般論として議論するのが難しい。
 しかし、大小さまざまな課題がるときに、個々の課題についてきちんと考えを整理しようとする努力はたいせつだ。場合によっては、忙しいとか興味がないとかで、自分なりの意見を持つことを放棄するひとびともありうるだろうが。
 人生を有意義に生きたいと思う時、限られた時間をいかに有効に使うかは重大事であり、ひとそれぞれに重要な事柄は違うだろうし、それはやむをえないことだろう。
 「地震国である日本に原発を作り稼働させることにはそもそも無理がある」という意見から「エネルギー資源の乏しい日本が世界で生き延びていくには英知を結集して安全な原発を建設稼働させる必要がある」という意見まで、幅広い意見がある。それぞれの論拠を十分に吟味したうえで最後は政府が決断すべき問題だと思う。

3.多くのひとびとは、平和を愛し、安全で豊かな暮らしを望むだろう。だが、それをどのように実現するかの方法論は千差万別だ。だが、いかなる方法論をとろうとも、虚心坦懐に、現実を見つめ多くの意見に耳を傾けた上で判断すべきである。はじめから、「反対だ」と決めつけたのでは、まともな議論にはならない。右翼だとか左翼だとか、権力だとか反権力だとかいうのが好きな連中もいるが、そんなレッテルを張っても問題は正確に見えては来ない。自分の眼で見て自分の頭で考えて結論を出すべきだ。そのあとは自分の意見の反映に努めて、実現すればよし、実現しなければとりあえずその結果に従う。同時に、次の機会に向けて自分の意見を反映させるための準備を進めるということだろう。
 常に偏見から自由になり、誠心誠意、科学的なアプローチをして客観的な判断を下すことが重要だ。
 個人レベルで、また集団レベルで、国家レベルで、世界レベルで、精神の自由が確保されることが望まれる。

28.『 遺族の立場 』

1.自分が死を迎えるという観点から縷々述べてきたが、遺族の心身のダメージもまた甚大であり、どのように考えたらいいかを整理しておくことには大きな意義があるだろう。

2.遺族と言っても、さまざまなケースがありうる。たとえば、年齢的に成人して経済的に独立しているような場合なら、悲しみを癒すことが最重要課題だろう。遺産相続というような手続きはあるにしても。

 問題は、遺族に未成年がいて、経済的に苦境に陥るというような場合だ。
 たとえば、父親が若くして亡くなり、母親にも収入がなく、遺産もなく、援助してくれる親戚もいないというようなケースでは、自助努力は選択肢としてあるものの、最終的には、公的な生活保護に頼るということになるだろう。

3.自分が死んだ場合に愛する遺族が苦境に陥らないような備えがあることが望ましいと言えよう。生命保険は有力な方法だろう。専業主婦もまた、まさかの時のために働けるような資格や技能を身に着けておければベターである。人それぞれにいろいろな事情があるだろうから、そう簡単にはいかないだろうが。

4.それなりの財産がある人間がある程度の年齢になれば、遺族が財産相続で争わないようにしておくための準備もしておくのが望ましいだろう。遺書を書き残しておくということは重要なことだと言えよう。

5.自分がなんらかの事情で植物人間になったり、機器の力で延命措置が取られている場合に、法的に許される範囲で死を選択するという意思を明確に表明しておくのも一法だろう。

6.葬儀や埋葬、遺品の処分等についても意思を明確にしておくのもよいことかもしれない。ただし、遺族がどれぐらいそれを守れるかは、その家族をめぐる諸事情や環境によるものと思われるが。

7.要するに、死は誰にでもいつでもやってくる可能性がある以上、死を前提にした対応策をあらかじめ用意しておくことは推奨されるべきだろう。

29.『 故人の残したもの 』

1.一人の人間が一生の間に残すものは、様々だ。個人差もある。その遺産(有形・無形のもの)はその人間が死んだからといって消滅するわけではない。良くも悪くも、死後にまで様々な影響を与えることになる。

2.個人の残した有形無形の遺産としては、たとえば、文字通り相続財産がある。財産があれば、遺書などで分割方法を明示しておくと遺族の間に争いが起きなくていいだろう。

 ほかには、結婚関係や子供などの関係がある。配偶者や配偶者だった者、子供、その他の家族との関係などが考えられる。。
 結婚や離婚を何回かして何人かの子供がいる場合などは、相続関係も複雑になるだろう。

 また、親類関係も生前の付き合い方によって遺族に影響を及ぼすだsろう。

 さらには、仕事関係の人間関係や功罪が、遺族にプラスマイナスの影響を及ぼすこともあるだろう。

 そのほか、交友関係、地域との関わり、ボランティア、表彰歴、犯罪歴、趣味などがいろいろなかたちで遺族に影響を与えることもあるだろう。

3.以上のように、一人の人間が生きることはさまざまな関係を構築する。自分の死後のことまで考えて生きることは難しいかもしれない。遺族へ悪い影響を与えないように努力して生きる人もいれば、傍若無人に生きる人もいるだろう。

 いい評判は遺族にはプラスに働き、悪い評判はマイナスに働くだろう。
 人間という者は生まれて死ぬまでのみならず死んだ後までもこの世に影響を与え続ける因果な生き物だとつくづく思える。いかに生きるか、それは個人の問題だろうか?それとも社会の問題だろうか?それらを超えた問題だろうか?






by nambara14 | 2015-05-23 19:44 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)