最近の詩集評(5)

小林坩堝詩集「でらしね」。「銀色の街を往く、行きどまりの日常に、足踏みしているおれ、が視える。歩行歩行歩行。」視ることへの過剰な固執が言葉を見つけきれない。言い換えても言い換えても言い当てられない。「言葉では軽すぎる沈黙では重すぎる。」根無し草のような「踊り子に静止はない。」

吉田博哉詩集「夢転」。生死のあわいも生者と死者の隔ても人間と動物の区別も夢と現実の境も、曖昧な幻覚の中にある。詩篇は一言で言えばみな奇談なのだが、言葉が極めて巧みで妙にリアリティがあり諧謔とともに限りない人間存在の悲しみを感じさせる。豚に生まれ変わる「お告げ」など、特に胸に迫る。

山口敦子詩集「芭蕉 古の叙事詩」。芭蕉への深い敬意と思慕が俳句と詩のコラボとして結実した。著者の思い出や経験が芭蕉の句や足跡と自ずから融合して、落ち着いた詩情を醸し出す。半ばエッセイ風に織り込まれる史実やエピソードや知識が詩篇の奥行を深くさせ、読者の感性と知性に静かに訴えてくる。

吉田義昭エッセイ集「歌の履歴書」。詩人でありジャズ歌手でもある著者の詩や歌への思いがさまざまな思い出やエピソードとともに語られる。特に急性心筋梗塞を患い死を強く意識することで自分にとって真にかけがえのないものがなにかが見えてきたようだ。詩、エッセイ、歌への新たな意志が示される。

川島完詩集「森のガスパール」。著者にとって森は身近な遊び場だった。だが、江戸の牢破りを匿った森だったことを知って、森は馴染みの場から深く重いものになった。そこから、森は内外のさまざまな文学や芸術とつながるものとなり、小悪魔意識によるフィクションとしての物語を生み出させた。

渡辺みえこ詩集「空の水没」。幼い頃から死を意識せざるを得なかったようだ。特に父や母や肉親の死が繰り返し語られる。生きることの悲しみや痛みが正確に描かれるとともに、生あるものが死を迎える時の密やかな覚悟が透明な空のように示される。「草原の青空」の中で死んでいくシマウマの瞳のように。

指田一詩集「砂浜 蕪村句を読む」。「砂浜」と「蕪村句を読む」との二部構成の詩集。Ⅰ「砂浜」では、「砂浜に建てた小屋に暮らす男と女とこども。海でとれる海藻や貝を食べ、フネを浮かべる」といった描写を通して、どんなに文明が進んでも人間の原点は食べたり飲んだり眠ったりするところにあるという認識が示される。Ⅱ「蕪村句を読む」では、「蕪村」の句を引用しながら現代社会のありようを多彩に描き出す。ⅠⅡを通じて、高度に発達したかに見える現代社会にひそむ危うさへの文明論的なアプローチが詩集を厚みのあるものにしている。著者の詩人かつ造形家としての感性が発揮されている。

竹内敏喜詩集「灰の巨神」。詩の鉱脈の飽くなき探求者として、古今東西の文学や歴史や逸話などを渉猟するとともに、多くの素材を現代へと取り込んで、新たな詩の方法を試みる。私的な思いも垣間見える「回復期」、技巧を凝らした「善人」など、詩篇の幅の広さは、今後益々の発展を期待させるものである。

中島悠子まとめる「覚書 吉野登美子」。詩人八木重吉の妻であり、歌人吉野秀雄の後の妻であった吉野登美子の伝記を通して、八木重吉の詩や吉野秀雄の短歌そしてそれぞれの人となりや人間関係が丁寧に描かれる。一人の女性像が浮かび上がる。著者の吉野登美子への尊崇の念が確かな詩情をまとめあげることにつながったと言えよう。

倉田良成詩集「山海物語集拾遺」。実体験とさまざまな文学書からのエピソードとが融合されたかたちで語られる。物語は、あの世からやって来る疫神や御霊の仕業と思しき人間の苦悩や怨恨に満ちていながら、同時に災厄を引き受けつつ健気に生きていこうとする人間の前向きな思いが感じられるのが魅力だ。
[PR]
by nambara14 | 2013-11-01 22:50 | 詩集・詩誌評等 | Comments(0)