詩集「インサイド・アウト」について(感想など)(その1)
2011年 06月 30日詩集「インサイド・アウト」については、平成23年4月1日付けで刊行して以来、各方面からさまざまな感想をお寄せいただいているので、感謝の意味を込めて逐次その概要をお知らせしていきたいと考えていますので、よろしくお願いします。
なお、文責は小生にありますので、お気づきの点がありましたら、お知らせください。特に、小生あてに頂いたメールや手紙等についてはデリケートな部分があるかもしれませんので、問題がないように十分注意の上その概要を紹介させていただいたつもりですが、もし修正すべき個所などありましたらどうぞお知らせください。
また、敬称は略させていただいていますので悪しからずご了承願います。
「言いそびれた」とか「今更」とか思われている方がいらっしゃったら、今からでもおそくはありません、是非お気軽に感想をお聞かせください。叱咤激励も歓迎です。どんなご意見も著者には大きなプラスになりますので。
南原充士
【詩の筏#03】(平成23年6月18日)におけるコメントから
(中井ひさ子) 主張しすぎない。素直に入ってきた。あたたかさ。
きめこまかさ。
「淋しさの手前で」「旅人」「ぺんぺん草」「斜線」
が気に入った。
(渡辺みえこ) 「ぺんぺん草」がいい。「メタモルフォ-シス」なども。
穏やかだ。
肩ひじ張らずそっと置かれた言葉の中に亀裂、
鋭い言葉がある。
影のようなものとして自分を見ている。
作品の並べ方はどうか?
巻頭詩は、素直すぎる。
(結城 文) 南原充士の詩集の中では一番好きだ。
考えて作ってある。 自分や世界を静かに
見つめている。「観照」といった感じだ。
抒情というより心情の伝達。
知的に構築された舞台。
静かだがじわっと伝わる。
「ハードタッチ」「決壊」「影」「アングル」
(沢 聖子) 力まない。いい年の取り方をしている。
目に見えない影。
「メタモルフォーシス」「言葉じゃなくて」
「ピアニシモ」「旅人」「アイデンティティ」
「生きる目標」「ぺんぺん草」
(有働 薫) 「タイムマシン幻想」は知識を用いる点で
自分と似ているところに反感を感じたが、
「インサイド・アウト」には好感を持った。
知識ではなく感情がたいせつだ。
視線が丁寧であり掛け値がなく正確。
脂っ気が抜けている。哀愁。
視力を失っていない。
「夕日」
(池田 康) 「夕日」はいい。
(原田道子) 「夕日」の最終行が好きだ。「四次元」もいい。
「インサイド・アウト」は、方法論的に手の内を
明かしすぎている。
「タイムマシン幻想」のほうが好みだ。
(高崎喜久恵) すなおに入ってきた。「メタモルフォーシス」
(岡山晴彦) 「ピアニシモ」「旅人」「ソフトタッチ」
「セレクション」「四次元」「ぺんぺん草」などがいい。
(颯木あやこ) 一般人と現代詩の距離を縮められる詩だ。
読者が「わたし」に投影できる。
親しく口ずさめる。読みやすい。読者に安らぎ
を与える。
「水の約束」「生きる目標」
【公明新聞(平成23年4月25日)書評】
(野村喜和夫) 詩はいつも背伸びしている。素材とするのは
誰もが空気のように使っている言語だが、
それをなんとか組み合わせて、まだ誰も見た
こともなく、考えたこともないような世界の見取り図
をつくろうとする。あるいは、強く心を動かすような
イメージや思想の波動をつくって、
それを武器に世界の現実とたたかっていこうとする。
でも、ときにはふと足元をみるのもよい。そんなに
背伸びせずに、いまここに佇む。私たちの心模様や、
身の回りのありふれた出来事を注視してみること。
それだけでも世界認識が深まり、生きるための
ヒントが得られるかもしれない。いわば等身大の抒情。
それもまた詩の役割ではないか。
そんなことを考えさせてくれるのが、
「インサイド・アウト」である。
「淋しさの手前で」「ぺんぺん草」
【「洪水8号」書評】
(文月悠光) 今まで膨大な量の作品を書きつづってきた著者が、
何故「ごく普通の人間の感情や思い」を描かなければ
ならなかったのか。その疑問の答えは、本書に収めら
れた詩に隠されていた。
・季節への眼差し:「八月の終わり」「淋しさの手前で」
「美しい秋」
「エイプリル・フール」
・何かに対する過剰な思い入れや信念:「ピアニシモ」
「試みの五感」「消滅」
・忘れられない記憶:「子守唄は歌えない」「白鳥の歌」
・主体の生真面目さからユーモアが漂ってくる:
「ドッキリカメラ」「秋の忘れ物」「四次元」
・物語性:「物語」「水の約束」「アイデンティティ」
「生きる目標」
「過酷な現実」にどれだけ向き合えるか、いま書き手
の真価が問われている。本書は、「あえての”日常”を
選択する」、その気概が成功を収めた一冊である。
【現代詩手帖6月号詩書月評】
(松下育男) 突出した表現に出くわすわけではない。
というのも、著者にとっての詩とは、思いも
つかないことを苦心して発見していくことではないから
なのだ。
詩行はなだらかに、流れる方向へ自然に向かう。
語りたいと思う内容が、そのまま素直に語られる。
それも詩の一つの姿であることを、この詩集は訴えよう
としている。
まっすぐな恋愛詩は、たしかに読んでいて気持ち
がいい。
ただ、そこでとどまっていいのだと決め込むことが、
さらなる可能性を閉じ込める言い訳になってはいない
だろうか。
一度自らに問うても無駄にはならない。
【風都市】
(瀬崎 祐) 素直に書くとはどういうことなのかと考えると、
どうすれば素直なのだろうと思ってしまう。素直に書いて
詩にするのは至難の業かもしれない。
「氷河」:ここにあるのは理屈ではない。説明など
不要であるような著者の希求である。
自分の内にあるそういう感情をきちんと
掴まえている。
「ぺんぺん草」:長い時間の旅の途中で居眠りを
している男の様子をユーモラスに描いていて、
非常に面白い捉え方であった。
それにしても、素直に見せかけているだけでは
ないのか。
いや、(私と違って)気持ちの優しい著者のことだから、
本心から素直なのだと思う。
【なにぬねの?(SNS)】
(秋川久紫)
このタイトルは「反転」あるいは「内面の表出」といった意味だろうか。今回の詩集はこの作者のこれまでの作品と比較すると、作為性、装飾性のあるものが少なくなり、どちらかと言うと、リアリズムを重視して敢えてあっさりと書いているものが多くなっているように見える。そして、各詩行の端々に生の困難さと、それに耐えている者の孤独の影のようなものが伺える。
例えば「エレジー」と題する作品は次のようなものとなっている。
息苦しくて目が覚める
胸元を開けても楽にならない
立ち上がろうとするとめまいがする
暗く冷たくぬかった道
重たすぎる荷物の中身は知れず
捨て去ることもできない
いっそこのまま倒れ込んで
鳥や獣の餌食となるか
ついに名もない白骨と化して
風は吹き雨は降り続く
人声が遠くに聞こえる
一瞬の無痛に顔がほころぶ
この最後の詩行は「無痛」の時間が一瞬しかないことを示唆することによって、生の痛みをありありと写しだしている。そして、その一瞬の「無痛」を作り出すのが「遠くに聞こえる人声」、すなわち人の温もりへの接触であることが明らかにされることによって、作者の(もしくは人間というものが持つ)内面の孤独感が強く印象付けられるようになっている。そうした人の温もりがもたらす「無痛」の時間が一瞬しか訪れないという生への深い失望感。これはとても哀しい歌だ。
それから、最後に置かれた「生き続ける」という作品は、同じようにとても深い哀しみと諦念の影をたたえつつも、人は絶望の中でも何かを「発見」する可能性を持っているのだ、ということが示され、最後の最後の部分で詩的な「反転」がなされている。この「反転」は祈りにも似ており、哀しみや諦念の深さを逆に照射するようなところがあって、胸を打つ。これまでの作者の作品のように、技巧的な作品ではないが、それゆえにか逆に単純さがもたらす力を感じる。この作品の最終連は次のように結ばれている。
走るのが好きなひとも
歩くことさえできなくなり
歌うのを楽しむひとも
声が出なくなる
お尻にコケが生えてきて
なにもできなくなっても
人は生き続けて
手のひらに光を発見する
【詩はどこにあるか?】
(谷内修三)
南原充士『インサイド・アウト』は喪失感がただよう詩集である。何かなくした。そして、なくしたものを思い出している。「いきいきとしたもの」があるとすれば、その「思い出す」という動きのなかにある。「思う」というこころの動きが人間のいのちをささえている、ということを感じさせる詩集である。
清潔でシンプルである。でも、私には物足りない。
「試みの五感」。その書き出し。
目のみえない人に
ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を説明します
海の泡から生まれた裸の女性が絵の真ん中にいます
侍女が薄物でヴィーナスの体を隠そうとしてます
耳の聞こえない人に
ベートーヴェンの「運命」を説明します
タタタターンと手のひらを叩いてみせます
山谷の曲線を背中に指でなぞってみます
えっ、それだけ? それで、つたわる?
だいたい「海の泡から生まれた裸の女性が絵の真ん中にいます」って、目のみえるひとのための説明じゃない? 私は目が見えないわけではないが、失明の危機を(恐怖を)体験した。目のみえないとき「裸の女性」とだけ言われても、私は、何も想像もできない。裸の女を見た記憶があっても、目を閉ざして裸の音を想像できない。裸の女ということばで裸の女を想像できるのは、きっと目の見える人だと思う。裸であるかないかは、たいてい「目」で確認するものだから。
触ると、おっぱいの方が手のひらをはじき返してくるような弾力のある女が、なめると、山の奥の岩清水を口に含んだような透明感の広がる脇腹の女が、……とかなんとか、「視覚」以外のことばでないと、想像力を駆り立てないんじゃない?
「侍女が薄物でヴィーナスの体を隠そうとしてます」はもっとひどいなあ。「体を隠す」なんて、目のみえる人に対してやっていること。目の見えない人には、無意味なことだねえ。そういう「無意味」まで、きちんと説明するということかもしれないけれど、もしほんとうに無意味まで説明するなら、もっともっと「意味」も説明しないと、おもしろくない。
だいたい、絵って、「視覚」にだけ働きかけてくるもの? 「視覚」に働きかけてくるものだけをとりあげて、それを「目のみえない人」に説明するというのは、どういうこと?
なんだかぎょっとするなあ。
「運命」の説明も変だなあ。「タタタターンと手のひらを叩いてみせます」というのは、目のみえないひとの手のひらを叩くのかな? それなら、まあ、わからないでもないけれど、どうも南原が耳の聞こえないひとの目の前で南原自身の手のひらを叩いているように感じられる。音って、そういうもの? 動きで「見せる」もの? 音は振動。その振動を確認するのは「目」?
なんだか違うなあ。
鼻の利かない人に
オーデコロンを説明します
バラ園と香水製造工場のようすを示します
香水を吹きかける女性の胸元をアップします
味のわからないひとに
懐石料理の説明をします
趣のある食器に盛られた料理の色合いを示します
料理を口に運ぶひとの表情を示します
ここでも説明は「目」に頼っている。
南原の「五感」はたぶん「視覚」優先のものなのだろう。「優先」というより「視覚」が他の感覚を統合する形で動いているのだろう。
どの感覚を優先するかというのは、ひとそれぞれの問題だから、何もいうことはないのだが--といいながら、私は書くのだが……。
南原のことばを読んでいると、その「五感」がまじりあわない。別々に存在している。それがおもしろくない。「ヴィーナスの誕生」にもどって批判すると、南原の説明には「視覚」的表現しかない。目のみえない人に説明するなら、視覚以外の感覚を総動員して説明してほしい。手で触った感じ、舌で味わった感じ、匂いを貝だ感じ、耳に聞こえる音楽で「ヴィーナスの誕生」を説明してほしい。
もし本気で、南原の「五感」を動員して、その絵を説明しはじめたら、南原のことばはきっと変わっていくはずだ。
手で触った感じと舌で味わった感じがどこで溶け合うべきかを探し求め、触覚も味覚もゆらぐからだ。その揺らぎは当然嗅覚や聴覚にも影響する。感覚の伝播が、感覚そのものを揺り動かし、覚醒させる。そして、新しいものを発見する。ことばが、つぎつぎにかわっていく。ことばがことばではなくなる。--そういうことがないと、それは詩とは呼べない。
最初に南原の詩には喪失感が漂っていると書いたが、その喪失感は喪失感のままである。ゆらがない。清潔で美しい。それは、何かを喪失することで変わっていく自分をことばで追ってみようとしていないからだ。自分を「いま/ここ」に固定しておいて、「いま/ここ」からなくなってしまったものをただなつかしんでいるからだ。ことばは、ことばのまま、そこにある。
これは、おもしろくない。
【ツイッター】
(山田兼士)
あとがきに「等身大の抒情詩」とあるように、自身の人生と生活に自然体で迫った結果が端正な佇まいのポエジーを組み立てている。巻頭に置かれた5篇のソネットは構築的でありながら音楽的な調べを奏でてもいる。時折忍び込む異界の影でさえ無理なく静謐だ。
【洪水~漂流記録】
(池田 康)
南原充士さんが新しい詩集を出した。南原さんはこのところ年一冊のペースで上梓しており、非常に創造力旺盛である。今回は、前作の『タイムマシン幻想』の濃厚なフィクション性の充溢から一転して、ストレートな抒情詩が中心となっており、帯には「等身大の抒情詩篇」とある。すなわちいい意味で肩の力が抜けているということでもあり、身近な日常経験に材を取った多くの詩篇は過剰な表現欲動にわずらわされることがなく率直な共感をもって快調に読むことができる。他方、なかには文明の深部まで視線を届かせようとする認識の強い刃をもった作品もあり、たとえば「裸の壁」は
風も無いのに風車が回る
変わり絵の細長い板がくるくると回転する
猛暑の中を運ばれていった兵士のシルエット
だまし絵の中へ消えていった重戦車
オセロゲームの盤側に対局者の姿は見えない
沖合いの空母から無人機が飛来する
流れ出た機械油が砂漠を黒く汚す
爆弾は破壊しつくした敵地になおも降り注ぐ
野戦病院に収容された兵士の記憶の中で
巨大なフレスコ画が色を失い
裸の壁となって立ち尽くす
と短いけれど強く迫ってくるものがあり、また「ソフトタッチ」「ハードタッチ」という対になっていると思われる詩篇は今回の大震災にも通じるような先鋭なカタストロフィの感覚を示している。ぜひじっくり読んでいただきたい。
【すてきな詩集見つけた!=「詩創27号」】
(宇宿一成)
(詩「ピアニシモ」を全文引用したうえ)、
詩とは、語らないものや見えないものの声を聞くこと。
本詩集は、そうした詩の根源にあるみずみずしさに濡れている。
あえかなものの声に、耳をすます。五感が研ぎ澄まされる。
手触りの予感、夕暮れの、暮れることで消えてしまう一回性の
世界への愛惜。そうした世界と対峙して、ひとりであることの豊かさ。
哀しさ、いとしさ。そうした感情が余韻を引いて。
一篇の詩を読んで切なくなるのは、いい気持ちだ。
裸の、詩人の魂を見る思いの読後感がすがすがしい。
【孔雀船書架=吃水線】
(竹内喜久雄)
「この詩集では、(中略)日常生活におけるごく普通の人間の感情や
思いや置かれた状況を出来るだけ率直に表現すること、すなわち『等身大の
抒情詩』とも言えるタイプの詩を書くことを目指してみた。」と「あとがき」にあり、
さらに「慰めの手立てとして詩がどれだけ有効かどうかはわからないが、(中略)
もしこの詩集が読者にとっていくばくかのこころを慰めるものになりえたら幸いである。」とある。
「読者にとっても」とあるのは、まず南原自身がこの詩作において「救いや慰めの手立て」
を強く意識したからだと思う。南原は「あとがき」で一切触れていないが、家族に、何らかの
異変があったことを窺わせる詩が、冒頭に三篇置かれている。
「子守唄は歌えない」という詩。
どんなに目をきつくつぶっても
あなたのにこやかに話す姿が浮かんでくる
どんなに耳を押さえても
ほがらかな声が聞こえてくる
(中略)
疲れて家に帰ると やっぱりあなたの気配がする
「言葉じゃなくて」という詩では、詩を書かない自分が逆説的に描かれる。
あの日からなにひとつおまえのことを話したこともなく
もういないのだということも忘れようとしてきたので
心が苦しくなってきて言葉にすがりつく
限りない慰めに満ちたニ短調のメロディーに胸がつぶれる
この詩集の終わりには、最近の心境と思しき詩が数篇、置かれている。
「生きる目標」と大上段に構えたタイトルでは
ここにいるのはだれだろう きのうの自分を寝かしつけ
きょうの自分を目覚めさせるのは何者なのだろう
と「ぼんやり歩いて」いるが、
「生き続ける」という詩では、次のように「奮起」が描かれる。
着色されたがん細胞の増殖する様子が
手に取るように追跡できることを知って
思わず逆立ちをした
(中略)
走るのが好きなひとも
歩くことさえできなくなり
歌うのを楽しむひとも
声が出なくなる
お尻にコケが生えてきて
なにもできなくなっても
人は生き続けて
手のひらに光を発見する
南原の「生活」に対する思いは、ずしりと重い。
by nambara14
| 2011-06-30 09:36
| 詩集「インサイド・アウト」
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