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価値観の研究第二部(その1)

1.朝青龍のこと

朝青龍が二場所出場停止処分を受けた。マスコミはおおむねそれを支持しているように見える。
 日本相撲協会の規定に基づいた適正な処分だから、手続き的には問題がないのだろう。
 しかし、反対意見もありうると思う。

 まず、朝青龍が診断書に基づいて巡業に参加しないことについては適正な手続きによるもので問題がない。

 モンゴルでサッカーの試合に出場したことは好ましくはないが、出場停止するほど重大なルール違反があったといえるか?

 巡業とサッカーの親善試合は肉体的な負担が全然異なる可能性もある。

 これまで、朝青龍は何年も一人横綱として相撲界に大きな貢献をしてきた。
 先場所もけがを押して優勝した。
 強い者は価値がある。

 プラスとマイナスを公平に量りにかければ、厳重注意か減俸処分ぐらいで十分だったのではないか?

 二場所も最強の横綱を出場させないなんて、ファンを軽くみている。

 礼儀正しくて弱い相撲取りより、少々暴れん坊だが、土俵上で無類の強さを発揮する相撲取りのほうが価値が高いとも言えるのではないか?

 モンゴル人であることや、モンゴル政府との関係が今回の処分に直接の関係はないと思うが、「横綱としてとんでもないことをした。厳罰に処するのが当然だ。」みたいな雰囲気が世間をおおっているようにも見える。

 果たして、今回の処分が的確だったかどうか?

 冷静に考えてみる意味はありそうだ。
 
2.赤城農相のこと

 赤城農林水産大臣の辞任については、非難轟々の環境の中で追い込まれた決断だっただろう。

赤城農相を弁護する意見はあまり聞かれない。

わが国のひとつの特徴であり、また、危険な点でもあるといわれるのが、付和雷同型の社会であることだ。

 みんなが反社会的とか、道義的責任を果たしていないとか、非常識だとかレッテルを貼ると、それに異をとなえるのが非常に困難になる傾向がある。

 赤城農相のしたことはほんとうに悪逆非道だったのだろうか?

 事務所経費について、ルールに従った情報公開はした。それ以上のことは義務じゃないことを理由に公表を拒んだ。

 週刊誌に領収書の二重計上が指摘されたり、問題がなかったわけではないだろう。

 しかし、金額から言って、辞任に追い込むほどの不当性があったと見るのはいかがなものか?

 法律やルールは守る義務がある。違法行為はきびしく追及されるべきだ。

だが、ルールにないことを道義的な責任だとして追及するときには、おのずから、限度というものがあるはずだ。

 今回、赤城農相は、

「1・ルールにのっとった処理をしたこと。

2.軽微な誤りはあったことは認めて、是正することを約束したこと。」

を主張しつづけて、最後は半ば強制的に辞表を書かされたようだ。

 途中、顔に湿疹ができたことも、マイナスの印象を強めたのかもしれない。

 参議院選挙の敗戦という不幸も重なって、人身御供的な犠牲を強いられたとも言えよう。

 水に落ちた犬はたたけ!という雰囲気がわが国社会には隠然として(歴然として?)存在している。

 悪者のレッテルを貼られたら大変だ。国民全体が敵になりかねない。

 どんな場合でも、冷静さを失わず、公平中立に判断を下す姿勢が肝要だ。

 そういう自分なりの判断をこころがける国民がひとりでも多くなることが、日本の将来を考えると、不可欠ではないかという気がするのだが・・・。





















3.無宗教は可能か?

お盆のシーズンということもあって、テレビでは、仏教関係の特集番組がいくつか放映されている。

ゲストが、仏教や仏像への敬虔な思いを述べるのを聞くと、なるほどという気持ちを感じるとともに、そんなにすんなりと宗教心て持てるのだろうか?という疑問も湧いてくる。

ブッダの教えや生涯のこと、その後の各地へのひろがりのこと、寺院や仏像や曼荼羅などの存在などを知るにつけ、人類には宗教は不可欠なのかという気もしてくる。キリスト教もイスラム教もその他の宗教も実に長く強く世界のひとびとに影響力を持ち続けている。

宗教は人類普遍の精神的な支えなのだろうか?

美術も音楽も文学も、生活習慣も、さまざまな生活の局面において、宗教の影響は陰に陽に見られる。

京都や奈良の伝統文化もひとことでいえば仏教文化といえるだろう。

ミケランジェロもバッハも宗教と芸術が切り離せない。

21世紀の今日、宗教に依存しない精神生活は不可能なのだろうか?

無宗教と自分では思っていても、どこかでなにかを信じているのだろうか?かつて、イザヤ・ベンダサンが「日本教」とでもいうべき日本人の生活規範があるという指摘をしていたように。

ぼくは、これまで、自然科学と社会科学というふたつのアプローチをしてきた。そして、ひょっとするとふたつは峻別困難かもしれないという指摘もしてきた。

しかし、科学的な態度は捨てるべきではないという思いは強い。

わかったこととわからないことを明確に区別することこそ、科学的なアプローチの基本だと思う。

信教の自由は尊重すべきだが、信じない自由も尊重されてしかるべきだ。

「悟りを開く」ということはどんなことなのだろうか?開けないのではないか?という見方もあると思う。

神というものをどうとらえるか?人類にとって最も困難なテーマだと思う。

多くの人は神を見出し信じるようになっている。しかし、少数かもしれないが、神を見出すことができず信じきれないひともいるだろう。

冠婚葬祭がなんらかのかたちで宗教に関係付けられている現実を見ると、無宗教を徹底しようとすると日常生活にさえ支障をきたすかもしれない。

だが、科学的な姿勢を維持しようとするとき、正義や善悪や道徳もまた相対的な価値観であることを忘れてはならないのではないだろうか?

絶対的な価値観は、自然科学においてしか成立しないような気がする。社会科学の領域における価値観は、人類の経験が生み出してきた価値観であって、最後まで絶対化することは困難ではないだろうか?

だからといって、経験的な価値が低いと言うことではない。たとえば、「人を殺すな!」という教えは普遍的で説得力のある価値観だろう。だが、事情によっては、絶対ではないかもしれない。

はたして、そういう相対的な価値観のままで、人間が正気を失わずに生きていけるかどうかはよくわからない。無意識に、なにか超越的な存在を信じて心のよりどころとしているのかもしれない。そのあたりは、まだ科学的に解明されていないような気がする。

「ひとは無宗教なまま生きていけるか?」というのは深刻な問いだが、そういう問いかけをわすれるべきではないと思う。そこに人間の精神さらには人間存在そのものの真の恐怖も感じることになるかもしれないのだが・・・。


4.バカロレア

テレビで、フランスの大学入試=バカロレアのことをやっていた。

文科系のバカロレアでは、哲学の比重が高いそうだ。哲学ってなんだろう?たとえば、「独裁政治家を暗殺することは許されるか?政治と道徳とのかかわりにおいて述べよ」といった問いに記述式で答案を書かなければならないという。社会的な重要な問題について自分の頭で考える力をチェックするのだという。つまり「思考力」を見ようというのだ。

ふと思ったのは、このブログの『価値観の研究』って、まさに『哲学』じゃないか!ということだった。ぼく自身には、哲学を深く学んだ経験もなく、哲学というものへの理解や関心もそれほど強くもってなかったのだが、自分が追求していたのは、要するに、世間でいうところの『哲学』だったのかといまさらながら気づかされた感じだった。

日本の大学入試では、そこまで深く思考力を問う試験は含まれていないのではないだろうか?あるいは、最近の大学入試では変化が見られるのだろうか?寡聞にして知らない。

ぼくの場合は、50代も終わりに近づいてふと思い立って、はじめて基本的な問いかけをして、自分なりの考えをまとめてみたいという気持ちが芽生えた。そして「価値観の研究第一部理論篇」に引き続いて、「価値観の研究第二部各論篇」に着手したところである。

おもえば、遅すぎる「哲学」的思考への挑戦だったかもしれない。

しかし、ひとつひとつの論点をレンガを積み重ねるように整理してみると、次第に自分の思想の体系(まさに、価値観)が見えてくるような気がする。

人間として社会で生きていくにはとても重要なことだとはじめて気がついたような気がする。

深く広く徹底して考察すること・・・そのことは地味で時間もかかる割りにすぐには結果が出ないし目に見える実利も手に入らないことだ。だが、ひとりの責任感を持った人間として社会の一員として生きていくためには、きわめて重要なことだと思う。

『哲学』というと抽象的だが、『人生や社会の重要な問題について、自分の頭で考え、他者と議論することを通じて、思考力を深めるための学問』ととらえればわかりやすい。

バカロレアという試験方法には、日本人も学ぶものがあると思う。

そして貧しいながらも、「哲学」的な思考を続けることへの位置づけを明示されたような気がして勇気付けられた思いである。

 
























5.「価値観外交」とは何だろう?

最近、安倍総理の外交を『価値観外交』と名づけているようだ。マスコミがそう呼び始めたのか、安倍総理のほうで自らそう名づけたのかは知らないが、ちょっとおもしろい呼び方なので気になった。

なにせ、ぼくは、「価値観の研究」を書き続けている人間だ。とはいえ、安倍さんからぼくにはなんの相談もなかったのは言うまでもない(笑)が、ぼくは今まで「価値観」についてあれこれ考えてきているだけに、普通のひとよりは見る目があるかもしれない。

「価値観外交」自体は明確な方針があるようなので、とくだんとやかく言うべきこともなさそうに見える。自由、民主主義、人権、表現の自由、環境保護といった価値観を共有できる国々との関係を強化しようとすることだといわれている。

 しかし、よく考えてみれば、「価値観」を共有できない国々との関係は疎遠になってもかまわないというおそれもある。「仲良し内閣」という批判があるが、国際的にも「仲良し外交」と批判されるおそれはないだろうか?

外交において、親しくつきあえる国々(それが付き合いたい国々とイコールなら望ましいしいが)とそうでない国々を区別して時間と金とモノの選択と集中をめざすということは大切だが、親しくつきあえない国々との関係をいかにうまくやれるかということも外交戦略として考えておく必要があるのではないか?

もちろん、安倍さんは、閣僚やブレインや外務官僚とともにそのへんの戦略はきちんと練り上げてくれていると信じたい。

ぼくがずっと「価値観の研究」でめざしてきたのは、「異なる価値観の共存共栄に向けて!」ということだ。

地理的な位置関係や人種や言語や宗教や政治体制や自然環境や歴史や文化やさまざまな要素が複雑にからみあった国際関係をじょうずにやっていくのはきわめて困難なことだと思う。アメリカが悪の枢軸とかテロ支援国家だとか明言している国々もある。

好きな国、ふつうの国、嫌いな国・・・そういう世界の200ほどの国々との総合的な外交プランが不可欠だと思う。必ずしも国民に公表されている方針だけではないと思うが、「価値観外交」を進めるにあたっては、以上のような点を十分配慮して、偏りのない外交を進めてもらいたいものだ。要すれば、「優先順位をつけるのはかまわないが、切捨ては避けるべきだ。」ということに尽きるだろう。

by nambara14 | 2009-09-14 20:28 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)