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価値観の研究第二部(その2)

6.決断

わからないことをわからないとするのが科学的な態度だと強調してきたが、研究者ならわかりませんですむところを、政治家とか経営者とかはすべてをわかったうえで決断をするのではないところに問題のむずかしさがある。判断にまよいながらも決断を迫られる。決断した結果は次の事態を生む。いい結果ならいいが、悪い結果なら責任を問われる。

つまり、十分な判断材料が得られないままに、最善だろうと信じる決断を下すという局面が社会の随所に見られるというのがわれわれの現実である。

安倍総理の政治的な決断然り!
トヨタやNTTドコモや松下などのトップもそうだ。

外交や防衛や税制もそうだ。金融も福祉も教育もレクリエーションもみんなそうだ。
世の中は、情報があふれているように見えるが、ほんとうに必要な判断材料など十分に集まることはない。

結局、「えいやっ」の要素が残る。

不完全な情報を元に不完全な人間が下した判断が錯綜しながら進んでいくのが世の中なのだ。

だからといって絶望する必要はない。
古今東西、人間社会はそうだったしこれからもそうだろう。

すこしは科学的な判断システムが進歩するだろうから、可能な限り活用すべきだが、過信は禁物だ。

たいせつなのは、人間の持つそういう限界を踏まえて、蛇行しながらも軌道修正を加えていこうとする基本姿勢だ。

よれよれしながらも、ひとつひとつの課題をよりよく解決していこう。まちがったら直していこう。
よりよいシステムや指導者を選んでいこう。と思うだけでも社会は進歩する可能性を残している。

結論的に言えば、

「人間社会は不完全だが改善する姿勢は重要だから、常に最善の決断を下そうと努め、不都合が出れば、勇気をもって修正しようとする考え方を支持し、そういう考え方を実行できるリーダーを選ぶ。そういう『是々非々主義の柔軟な価値観』が尊重される日本であり日本人であってほしい。」




























7.朝青龍問題(その2)

 再び、朝青龍問題をとりあげてみよう。

 こういう具体的な問題に対して関係者がどう対処するか、マスコミがどう報道するか、国民がどう受けとめるか、といったことをスタディするにはいい材料だ。

 本件は、よちよち歩きながらも方向としては、いい方向に進んでいると思う。
 まず、朝青龍の責任問題だが、怪我をしたという診断書に基づいて巡業に不参加だったことは事実であり、責めはない。その間にサッカーをしていたことについては、本来はルール上の問題ではない。道義的な問題だ。相撲はとれなくてもサッカーはできるかもしれないし、相撲協会の規定にもこのような場合についての明確な禁止規定はないという。だから、一種の社会常識でしか判断できない。しかし、社会的な影響の大きさを考慮して、相撲協会では、なんらかの処分をする必要に迫られ、協会の一般的な規定に基づき、理事会で、二場所出場停止、謹慎処分を決定したことはやむをえなかったし、手続き上正当であろう。これも反対意見があったとしても結論は認めざるを得ない。
 朝青龍がうつ病らしき状態になってからのことがいろいろ取りざたされているが、病気のことは医者にまかせるという協会の判断は正しい。もうすこし迅速に判断が下されればベターだったと思うが、前例のないことだし、各方面への影響の大きさを考えれば、慎重な検討がなされる必要があったのだと思う。
 医師の判断を尊重してモンゴルへ帰っての治療がはじまったようだ。とりあえずここまではよかった。

 「甘やかしすぎだ」という意見も多く聞かれる。道義的にはそうかもしれない。だが、朝青龍はモンゴル人だから、日本人の考え方をそのまま当てはめることはすべきではない。言語や習慣や文化の違いを踏まえて対処すべきである。親方の指導にも不十分な点があったようだし、相撲協会の処分にも内容的には疑問が残るだろう。相撲協会の保守的な体質が問題として浮かび上がったともいえよう。

 感情的な面を除けば、いちばん問題は、朝青龍の功績が正当に評価されていないことではないだろうか?

 長期間、ひとり横綱として優秀な成績を収めつづけたことはもっともっとほめられていい。相撲は強いのが一番だ。先場所も朝青龍が優勝したのだ。その朝青龍を二場所も出場停止にするなんて観客無視の決定だともいえよう。

 外国人の力士がこれだけふえたのだから、相撲協会も指導方針やさまざまな慣習を見直す必要がある。

 朝青龍は、せっかくの機会だから、精神面もまた肉体面も含めて完全に治してからまた勇姿を見せてもらいたいと思う。

 力士のあるべき姿、外国人力士の適切な処遇、協会のあるべき姿、国民に愛される大相撲の発展、マスコミの報道姿勢など見直すべきことは多い。

 今回の事件をよい教訓として、相撲界がいい方向に向かって改革に取り組んでくれれば、幸いだと思う。





















8.価値観の共存

 人類の歴史が教える知恵を最大限活用して世界に最大限の平和と繁栄をもたらすようにするにはどうしたらいいか?これが価値観の共存共栄であり、この研究がめざすところである。

 キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、ユダヤ教などの宗教や、資本主義、社会主義などの政治経済体制、人種や言語などの違いや歴史的な経緯などを乗り越えて、共存することこそ人類にとってもっとも望まれるところだ。

 つまり、複雑な要素を踏まえて、人類にとって最大のプラスを導くような解を求めることが重要なのだ。複雑な方程式を解いて解を求めることがたいせつだ。その方程式は、常識とはちがった解をあたえることがあるかもしれないが驚いてはいけない。

 具体例をあげよう。

 テロ対策法の延長問題だ。

 日本は、国内問題を処理すると同時に国際的な対応もうまくやらなければならない。国際社会でいきていかなければならないのだから。

 戦争放棄が可能ならそれにこしたことはない。だが、残念ながら今の国際情勢においては、方程式には政治、外交、経済、貿易、協力、援助などと並んで軍事という変数が存在する。つまり平和の維持のための戦争という矛盾に満ちた変数があるのだ。

 国家間の利害調整のために国連などの国際機関が存在する。できるだけそのような国際機関の機能によって問題が解決されるのが望ましい。しかし、現実はなかなかそうはいかない。

 現実は、さまざまな利害が錯綜している。それを大義名分という仮面や衣装が覆っている。表向きは正義だが内実は利害だ。

 そういう国際政治の力学の中で、最善の答えを出そうとしているのが現実の外交であり戦争であると見てよい。

 テロ対策法の延長はきわめて重要だ。個人的には延長すべきだと思うが、それはそれとして、国会で慎重な審議のうえ適切な結論を出してほしい。

 外交はガーデニングのようなものだといわれるようだが、雑草が生えれば取り除き、病気が発生すれば消毒したり、病変部分を取り除いたりする必要がある。それを怠ったり、タイミングが遅れたりすると、重大な事態を招く。常に個別の事柄に対して最善の対応をとらなければならない。基本方針ももちろんたいせつだが、日々起こる大小さまざまな事態に的確に対処していくことが大きな流れの中で方向を誤らないためにはきわめて重要なことである。

 安倍内閣のかかえるいろいろな重要事項や閣僚のスキャンダルなど安倍総理は心労が絶えないと思われるが、こまめに雑草を抜いていく辛抱が必要だ。大胆にして細心の決断と実行が望まれる。

 イラク問題にしても北朝鮮問題にしても、たいせつなのは、彼らをいためつけることではない。硬軟両用の戦略を駆使しながら、共存共栄できる一致点をもとめることである。気に入らない同士でも、いかに衝突を回避して生きていけるか?それこそ真に求められる方策である。

 「異なる価値観の共存共栄」こそ忘れてはならない重要な視点だと思う。

 そのことを重ねて強調したい。













9.平山郁夫について

 きょうのテレビで平山郁夫のインタビューの場面があった。
 それによると、平山は、新たに、シルクロードの大作にとりくんでいるのだそうだ。

 平山は、尾道の出身で、被爆体験もあるらしい。その暗い体験が根底にあって、彼の美術に影響を与えてきたそうだ。美術とは楽しくてひとびとに喜びを与えるものであってほしいという思いと原爆のつらくて重い苦しみ悲しみとをどうとらえたらいいのか?

 瀬戸内海にしまなみ海道ができたときに、平山は水彩画で橋のスケッチをたくさん描いた。そんな抒情的な小品の名手でもあるが、今回は、ローマから中国さらには日本へと延々と続くシルクロードを絵巻物のように描こうという壮大な試みである。

 なぜシルクロードか?

 かれは、答える。

 「さまざまな宗教や文化や人種のちがいをこえてひとすじにつながるものがシルクロードにはある。波乱万丈の歴史の痕跡を残すシルクロードの各地の遺跡や遺産。それを描くことを通して、異なるものをつなぐ一筋の糸を見出したい。」

 そんな趣旨だったと思う。

 ぼくがかかわっている「異なる価値観の共存共栄」というテーマとも合致していて、ひどく興味をそそられた。

 今後の制作の進捗状況を期待しながら見守りたいと思う。





10.愛国心の問題

 一国の国民が愛国心を持つことは至極自然なことだ。だが、それを強制すべきかどうかとかどのように表現すべきかという点については微妙な問題がかかわってくる。

 最近のある英字新聞の記事(キャスリーン・パーカー)によれば、アメリカ大統領候補者のひとりバラック・オバマが、スーツの襟につけるアメリカ国旗のピンを外すことに決めたそうだ。

 パーカーは、オバマのこの決断について賛否両論がありうること、そして、さまざまなシンボルの持つ意味について敷衍して述べている。

 オバマは、9.11事件のあと直ちに国旗マークのピン(日本語的には、バッジと訳したほうがわかりやすいか)を付けたが、それが『真の愛国心』の代用品に過ぎなくなったと感じたとき外したという。

 ひとびとは、キリスト教者であることを示すために、十字架のネックレスをしたり、魚のピンを襟につけたりする。あるいは、ガンの犠牲者や環境保護者との連帯を示すために、色のついたゴムのリストバンドを付けたりする。

 パーカーは指摘する。

 シンボルはシンボルに過ぎないけれども、それは無意識の情緒的な部分に訴える。

 アメリカ国旗は、単に愛国心を意味するだけではない。それは、ひとつの思想を意味し、アメリカ人の思い出を全体的に呼び起こすものなのである。

 オバマはアメリカ国旗のピンをつけても必ずしもよりよい愛国者にはなれないかもしれない、しかし、
よりよい政治家にはなれるかもしれない。

 ざっと以上のようなことが述べられている。

 アメリカという国における国旗の意味は相当に重たいようだ。だから、オバマ候補者の行動も大きな波紋を投げかけたのだろう。

 日本ではどうだろうか。日本人にとっての日の丸国旗の意味はアメリカとは違った意味でデリケートな位置づけがなされているように思われる。

 憲法といい、テロ対策といい、愛国心といい、国家の基本的な重要問題だけに、国民の意見も分かれるし、対立は根深くなりがちだ。こうした問題の解決策を見出すには国民全体の英知と辛抱と理解と協力と譲歩が必要だと思われる。

by nambara14 | 2009-09-14 20:25 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)