人気ブログランキング |

価値観の研究第二部(その3)

11.安倍総理大臣辞任について

 多くの反響があった安倍前総理の辞任劇も福田新総理の誕生とともに少しずつ沈静化したようだ。

 突然の辞任について、整理しておきたい。

 臨時国会冒頭で所信表明演説をした直後に辞任したタイミングの悪さについては異論の余地はないだろう。
 では、参議院選挙で大敗を喫したときに続投を宣言したことについてはどうか?
 「美しい日本」を標榜して、自らの政治理念を実行に移そうとする意欲の表れと受け止めれば、あながち責めるのもいかがなものか?

 小泉政権を支えた後、その後継者として、また父の成し遂げられなかった総理としての職を全うしたいという思いは強いものがあっただろう。

 安倍さんの政治家としての資質を問題にして、そもそも総理に選んだのが間違いだったという意見もあった。果たしてそうだろうか?

 閣僚の不祥事が続出したのは不運だったが、安倍さんの致命的な欠陥ではなかったと思われる。

 安倍さんの政策はどう評価すべきだろうか?小泉さんの政策を継承しつつ、靖国問題などでは修正も加えていた。基本的には、正しい方向に向かっていたと言えないだろうか?

どうやら、突然の辞任の理由は、健康状態の悪化にあったようだ。

健康状態をコントロールできなかったのが責任重大といえばそうだろう。
だが、全力で総理という激務をこなす中で損なった健康まで責めるべきではないと思う。

人間には事故や病気がつきものだ。暗殺されるおそれすらある。

安倍さんを責める前に、システムを整備するべきだろう。

総理が健康状態を悪くして辞任せざるをえなくなった場合にどう対応するかをきちんと決めておくべきではないだろうか?

生身の人間が総理大臣をやっている以上、不測の事態への備えが不可欠だと思う。

さいわい福田総理の誕生により、わが国の政治も新たな軌道を走り始めた。

民主党との関係はきびしいものがあるようだが、福田流の自然体でいまのところまずまずうまく政権を運営していっているように見える。

 安倍さんも政治家を引退したわけではない。
 なにかにつけて、批判されることは避けられないだろうが、これまでの献身的な貢献をゼロと評価して、「政権を投げ出した無責任総理」みたいな歴史的位置付けをするのはあまりに酷だと思える。

 安倍さんの無念さに思いを致し、「ごくろうさまでした!しばらく休んでまた元気になって政治家として活躍してください!」というのが、心ある国民のとるべき態度だと僕は思う。
















12.本屋の利用法

 インターネットでの情報収集が格段に便利になった現在、本や雑誌の存在理由はなんだろう?

 自分の経験で言えば、人間は動物であるので、五感を活用したい。そういう観点からすれば、アナログ的な情報の触れ方も重要だ。デジタルとあいまって総合的な情報収集が可能になるのだと思う。

 手にとって見るということの意味は衰えない。
 ページをめくる。ざっとめくったりぱらぱらめくったりゆっくりめくったり。好きなところで立ち止まったり。バッグにいれて持ち歩いたり。寝転がって読んだり。自由自在に扱える便利さは印刷物にかなわない。電子ペーパーなるものが開発されているようだが、それはかなり利便性をますかもしれない。

 人間の記憶力には限界があるから、いずれにしても、本やインターネットやPCに情報をたくわえておく必要がある。

 必要なときに取り出しやすいようにすることもたいせつである。

 書物は、自分の部屋だけでは限界がある。特に、ぼくはスペースのせまい自分の部屋に多くの資料を置いておきたくない。

 そこで、本屋に行くと、どんな本があるかをざっと見渡す。いろいろなジャンルの本が次から次から出版されるのに驚く。全部を読もうとか、把握しようとかは無理な時代になってしまった。

 自分がどうしても読みたくて購入する価値があると思える本に限って購入する。

 あとは、図書館に行ってどんな本があるかをチェックする。そのなかで、興味のあるものがあれば借り出す。ほんとうに必要な部分はコピーをとるか、メモをとる。

 このようにして、極力、手元に書物を置かないように工夫して、快適な読書に努める。

 ときたま、自分がなにを学ぼうとしているのか、なにを書こうとしているのかを考えてみて、情報の優先順位をつけてみる。

 すると、本屋に行っても、膨大な質量の書物の洪水に押し流されることなく、比較的冷静に書棚に向かうことができる。あの本はあそこにあるんだな!要るときは見にきてやろう。立ち読みですめばすまし、買わなきゃすまないときは買う。

 本屋にある本は、一種の図書館だととらえると気が楽になる。もちろん、返本されて書店の店頭から姿を消す本も多い。そういうリスクも念頭においておく必要はある。

 所詮、情報の一部しか追えない。

 でも、重要性の優先順位さえ間違えなければ、どんなに情報量がふえても対応できるのではないかという気がしてきている。

 知の追求にこだわったアリストテレス並というわけにはいかないが、ぼくは自分の器量のなかで「知の追求」を続けていきたいと思う。
 















13.表現と本音

建前と本音という言葉はよく使われる。

 また、思ったことや感じたことをそのまま表現せずに、言い換えたり、やわらかな言い方をしたり、遠まわしに言ったりするということは、生活の知恵としてしばしば見られるところである。

 筒井康隆、星新一、宮部みゆきなどのSF作家も、読心術や読唇術などあるいはそういう能力を持った超能力者をしばしば作品に登場させる。

 それだけ、人間は思ったことをそのままは表現しないということだ。

 先日、テレビで、星新一の原作らしいが、オウムを肩につけた人間が丁寧にしゃべるとそのオウムが本音をしゃべるというコントみたいなものが放映されていたが、まさにそのへんギャップをうまくとらえたものだと感心した。

 たとえば、セールスマンが、「おいそがしいところ恐れ入りますが、この製品はとても便利なのでぜひお買い上げいただきたいと思います。」と言うと、
 オウムが、『あんた、暇そうだなあ。この製品は非常にいいものだから是非買ってくれ。』と言う。

 客が、「主人と相談しませんとはっきりしたことは申し上げられません。」と答えると、オウムが、
『こんなものいらないよ。早く帰れ。』と言う。

 なかなか辛らつだが、笑いを誘う。

 今回は、人間の言葉をそのまま受け取れない場合が多いということについて考えてみたい。

 それは、やはり、人間関係を円滑にやっていくための生活の知恵と言えるだろう。
 隣近所とか、職場とか、買い物とか旅行とか、役所とかさまざまな局面で、社交辞令や敬語や婉曲表現が求められる。

 では、本音と表現が限りなく近くなるのはどんな場合だろうか?

 やはり家族だろう。とりわけ、夫婦関係。

 恋人同士でもかなり親しくなれば同様だろう。

 親しき仲にも礼儀ありといわれるぐらいだから、それなりの配慮は求められる。

 親友とは、家族に次いで本音に近いことが言えるだろう。

 つまり、人間関係の濃度や深さや距離に応じて、言葉の丁寧さは比例的に変化する。

 関係が遠くなればなるほど、本音と表現がかけはなれていく。

 このように、頭の中にある「考え」や「感情」が具体的に発せられる「言葉」や「しぐさ」や「表情」と乖離があることを踏まえて、他者の言葉を解釈する必要があるわけである。

 たとえば、有名な「京都のおちゃづけ」も、京都人の冷たさと受け取るべきではなく、
京都人の表現方法と受け止めれば、腹も立たない。

 念のため説明を加えておけば、よその家を訪問した客は、原則として、『お茶漬けでも食べませんか?』と言われる前に、帰るのが礼儀だと言うことだが。

 ちなみに、詩や文学をやるものはこういうギャップに敏感なはずである。

 比喩とか婉曲表現とか象徴とかの表現技術が駆使されるわけである。

 あまり上手でない文学者は、そういう技術が十分身についてないと言えるだろう。

 文学者じゃなくても、そういう表現と本音のギャップを念頭においておくことは無駄ではないと思う。
14.人間はみな不完全

 防衛省の不祥事を見ていると、やはり人間は誘惑に勝てないものだという思いを深くする。

 防衛省のトップになるというのはたいへんなことだ。きわめてすぐれた人材だと見てよい。

 それでも、あのような贈収賄事件の当事者にあるのだから、世の中はおそろしい。

 おそらくはじめは小さな誘惑だったのだろう。やがて、徐々に大きな誘惑へとステップアップしていった。感覚は麻痺した。気が付くと後戻りできないところまで来てしまった。

 いまごろ、なんでこんなおろかなことをしてしまったのか!と悔やんでいるに違いない。失うものが大きすぎる。

 一般に、ルールは守るために作られる。だが、完全に守られるルールもありえない。
かならず、ルール違反が生じる。その場合、どのような制裁を加えるか、どのように強制力を確保するかが重要な問題になる。

 賢い人は、違反した場合の制裁とメリットを量りにかけるかもしれない。少々の罰金なら払ってでも、ルール違反による利得の確保に努めようという発想だ。

 また、車のスピード違反に見られるように、10キロオーバーならとりしまらないだろうという不文律がある。

 ルールのあてはめには常に灰色部分がつきまとう。公平さを確保したいが、警察官などの人員には限りがある。全部の違反をつかまえきれない。すると、違反度が高い場合や、たまたま運の悪いものがつかまるということになる。

 国際的に見ても、国連憲章や国連決議に違反した国に対して、制裁をかける例がある。
 それが実効力をもつかどうかが鍵だが、今は、アメリカなど強国の個々の力による制裁が目立つ。

 罪刑法定主義という考え方がある。基本的にはいまの日本でもそうである。

 ところが、アメリカがテロとの戦いということで、外国を攻撃したとき、はたしてなにに基づき、なにに違反したことをもって攻撃理由になったのかが問われたことがある。
 戦争は国家間のものだったのに、急にテロ勢力を相手に戦争できるという大転換がなされたのだった。これはかなり「超法規的な」措置だったと思う。

 ことほど左様に、人間社会は、国内、国際を問わず、あいまいな部分がある。個人的な身近な人間関係でも、杓子定規にはいかない場合がいくらでもある。

 人間は100点じゃない。80点、50点、30点千差万別だろう。

 そういう不完全な人間が集まって作っているのが国家であり社会だ。

 だから、ルール作りもたいせつだが、同時に、その運用にあたっては、人間のもつ不完全さを十分に考慮に入れて、適切に実施されるように工夫する必要があると思う。

 不完全なのは罪ではない。不完全だからといって罪の意識を持たなくなることが罪であるとおもう。
不完全な人間同士が知恵を出しあい、協力し合って、住みよい社会を作っていければいいなと思う。

 







15.名目GDPの減少

 きょう(平成19年12月27日)の新聞各紙の報道によれば、2006年の日本の名目GDPは、4兆3755億ドル。前年比4%減。世界に占める割合は、9.1%で、24年ぶりに、10%を割り込んだとのことだ。(内閣府26日発表)
 また、国民一人当たりの名目GDPも、OECD加盟国30カ国の中で18位と前年の15位から下落した。
 その理由は、円安やデフレ脱却の出遅れで名目経済成長率が伸び悩んだことが背景にあるという。

 こういう危機感をあおる報道姿勢は、新聞の常だ。

 改革の遅れが最大の停滞理由だというのは間違っていないと思うが、日本はこれまで、延々と諸改革を実施してきたのではなかったか?特に、小泉内閣などは、「改革内閣」といってよかったと思う。

 だとすれば、こうした日本の経済の伸び悩みはある程度避けられないものなのだと考えて、冷静に現状分析をしたうえで、現実的な成長路線を模索する必要があるのではないか?

 高度成長期のようなわけにはいかない。中国やインド、ロシアやブラジル(いわゆるBRICs)に加えて、ASEAN諸国やその他の開発途上国もめざましい発展を遂げつつある中で、日本の相対的な位置づけは過去とはまったくちがっている。

 いたずらに焦りを誘うことなく、可能な範囲での、プログラムを練り上げるために、まず政府レベルで政策立案や予算、金融、税制、その他の総合的な重要な課題について、有識者をまじえて十分論議を尽くす必要があると思う。その上で、新たな日本の目指すべ指針を策定する。そして、各省庁、民間のさまざまなセクターが連携し、協調をとりつつ、現在の日本の身の丈に合った着実な成長戦略を構築し、推進すべきだと思う。

 このような衰退傾向があらわれると、概して、浮き足立った議論が展開されがちだが、そういうときこそ、落ち着いて、現状を見据えた、的確な政治や経済運営がなされることを切望するものである。

by nambara14 | 2009-09-14 20:23 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)