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価値観の研究第二部(その6)

26.人間ドック

 病気の予防には、健康診断がひとつの有力な手段であることはいうまでもない。
 人間ドックと呼ばれる健康診断方法は、わが国でもかなり定着していて、毎年きわめて多くのひとびとが受診していると思われる。
 けっこう費用がかさむのが難点だが、いのちにかかわることなので、ある程度の負担はしてもいいと思うひとも多いのだろう。
 ちなみに、「ドック」という言い方は、船が点検修理を受ける場所がドックなので、そこから来たのだと思われる。
 さて、人間ドックの検査結果を見ると、多くの検査結果が基本的には数値で出る。正常な範囲が決まっていて、そこから外れると、マークがつく。重大な場合は、再検査や精密検査を指示される。
 普通は、数値が悪いと言われると、病気になったような不安に襲われるだろう。そこが問題だと感じられる。
 ある医師が言っていたことだが、検査結果にも、すぐにいのちにかかわること、将来的に病気につながるおそれのあること、病気ではあるが命にはかかわらないこと、など、いろいろなケースがあるということだ。
 
 わかりやすく言えば、がんかがんでないかだ。がんだと診断されたら、重大な病気なので、全力を挙げて治療をし、受けなければならない。しかし、がんではない場合には、それほどシャカリキにはならなくてよい。生活習慣病なども、急に命を失うわけではないので、とりあえず、食事に気をつけたり運動をするようにしたりというような基礎的な対応をすることになる。

 実際に、脳梗塞や心筋梗塞が起これば大変なことになるわけだが、なかなか予防しにくい病気もあるだろう。したがって、人間ドックの際も、できるだけ、命にかかわる程度を明確に受診者に伝えるべきだと思う。いずれにせよ、老化により病気にかかりやすくなるのは避けにくいだろうと思われる。そこで、検査の重要性はますます高まるわけだ。

 素人は難しい説明では理解困難だ。
 検査結果の数値の持つ意味を簡潔に、たとえば、このぐらいの異常はたいしたことないからほうっておいてよい。一年後にまた人間ドックを受ければいい。とか、がんのおそれがあるときはすぐにきちんと再検査を受けるべきだとか、がんが見つかったときは、できるだけ早く手術、放射線治療、抗がん剤治療をすべきだとか。とにかく、心配すればきりがないので、異常があっても、重大性によってはっきりと生命への危険度を分類し、重篤なものは先に措置するようにし、中ぐらいの悪性や危険度を持つ異常には、一定の期限までに再検査を受けるよう指導するとか、分りやすい説明が望ましい。

 あまりたくさんの異常を指摘されて頭が混乱し、それをフォローしようとして、ますます落ち込み、病気になってしまうというのは最悪の成り行きだと思う。

 ひとりの人間が、精神的にまた肉体的に同時に対応可能な数はそう大きくないと思う。

 したがって、医師サイドからは、どうしてもフォローしておくべきポイントを2つか3つに絞って患者を指導するべきものと思う。

 人間ドックが病気の早期発見と治療に大きな役割を果たしていることは認めつつも、人間が数字に振りまわされすぎるのが問題といえば言えるだろう。

 その辺は、医師や看護師など医療機関サイドと受診者サイドの上手なコミュニケーションの図り方や指導方針の明確化によって改善されうるのではないかと期待される。

 
 












27.医師の役割

 病気について、一般人は、患者にしかなれない。病気と治癒と半病と後遺症と障害と苦痛と昏睡と死と。
 しかし、医師は、治療することができる。この差は、天と地ほどの差がある。

 医師は、患者の命をあずかる。握るのである。

 患者は、命永らえるために、医師にすがる。ひれふす。懇願する。崇め奉る。服従する。

 そこに生まれる上下関係、一方的な依存関係は、医師にとっては自尊心を満たすとともに、重圧でもあるだろう。

 医は仁術だが、医師もまた、生身の人間であり、患者にもなりうる弱いひとりの人間である。

 全力で治療に当たろうとしても、時間的体力的気力的限界がある。

 そこに問題が発生するおそれは常にある。

 やはり、病院側が、すぐれた医師や看護師を確保し、効率のよいシステムを構築し、患者に対して的確な医療サービスを提供することが基本だと思うが、同時に、患者への説明が十分になされることが求められる。時間が限られているなら、なんらかの補足的な方法をもっと充実させるべきであろう。説明書とか参考書とかDVDとか、相談コーナーとか、工夫すればやれないことはない。患者側の費用負担もある程度なら可能だと思う。「この本がいいですよ」と医師が勧めれば、よほど高価なものでない限り買い求めて一生懸命に読むだろう。

 忙しくて大変だとは思うが、やはり、医療の中心は医師である。医師のほうから、さまざまな指示やヒントを与えてくれなければ、患者はうろうろするばかりだと思う。

 医療従事者のみなさまよろしくお願いします!

 ところで、わが主治医ともいうべき医師がくれたペーパーをもとにたわむれに、いやまじめに、短歌形式にまとめてみた「医師の弁明」ともいうべきものがあるので、参考までに載せておきたい。

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       (ある医者の弁明)

   
   診察は すぐに済むけど 準備して 責任もって 診断してる

   たくさんの 患者を診れば 時間ない 結論先に 伝えているよ

   いのちには かかわらないこと 後回し 深刻ならば きっと処置する

   まず検査 それから診断 運悪く 病気があれば 治療しますよ

   限られた 時間の中で 精一杯 命を救う わたしは医者よ!


















28.情報の偏り

 情報化社会といわれるように、最近、われわれの周りには膨大な情報があふれている。
 新聞やテレビやラジオ。雑誌や単行本や文庫。インターネット。CDやDVD。屋外広告や交通広告。映画、演劇、コンサート。デモ行進。立会い演説。口コミ。など。

 できるだけ多くの情報を集めて利用しようとする態度はたいせつだろう。
 だが、その際に非常にたいせつなことがあることを忘れてはならないと思う。

 つまり、情報は、自然にまかせておけば、必ず偏りがあるということだ。バイアスがつきものだ。

 たとえば、新聞やテレビのニュースが一般的には多くのひとにとって身近で主たる情報源だと思うが、ニュースというものは、本来、異常な事件や事故を優先してとりあげる性質がある。昔から言われているように、「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛めばニュースになるのである。」

 すると、漫然とテレビや新聞を見ていれば、ひとは、現実以上に悲惨で危険で薄情な世界に生きているという意識を持つこととなる。凶悪犯罪ばかり見せられれば、世の中には、犯罪者ばかりいて、毎日あちこちで殺人事件が起きているような気がしてくるはずである。

 サブリミナル(潜在意識)効果を活用した広告や世論操作や犯罪がよく話題になることがあるが、まさにこれなども、無意識にある情報に誘導される好例と言えよう。

 では、どうしたら、そのような負の圧力に屈することなく、客観的で中立的な情報の収集や分析ができるかといえば、ニュース性はないが、明るくて楽しい話題をたくさん集めたり、友人知人などと明るい話題を交換したりすることにより、世の中全体の現状把握に努めるという方法があるだろう。

 たとえば、殺人事件は年間何件起きているかとか、一日になおしたら何件かとか統計的なアプローチも有力かもしれない。アンケート調査結果なども参考になるかもしれない。

 なぜ情報の偏りが怖いかというと、そのことにより、現実認識を誤り、判断を誤り、結果として、国民全体の不幸につながるおそれがあるからである。場合によれば、世界のひとびとへも悪影響を及ぼすおそれもあるし。

 そこで、できるだけ多くのひとびとが、意識的に情報の収集、処理をすることを提案したい。

 暗いニュースもあるが、明るいニュースもあるはずだ。報道されないからといって、生きる喜びを感じさせくれるニュースもないわけではないだろう。

 もちろん、暗いニュースから目をそむけることを推奨するつもりはない。通り魔殺人事件などについては、原因究明を徹底して行って再発防止策を講ずべきであることは言うまでもない。

 しかし、同時に、あまりにもひとびとの危機感をあおることは、社会安定上好ましくないことも否めないと思う。夢も希望もない社会はだれにとっても生きる意味に乏しいだろうから。

 そのへんのバランスをうまくとっていくことが望ましい態度ではないだろうか?















29.もぐらたたき

 北海道洞爺湖サミットが終わった。その成果については、さまざまな評価がありうるが、私見では、なかなかのできだったと思う。

 しかし、現実は、予想以上にドラステイックに変化する。

 サミットの大きな枠組みとは別に、マーケットはグローバルにまたローカルに刻々と移り行き、息を継ぐ暇もない。

 最近、日本の国民にも物価の上昇は身にしみて感じられるようになってきた。これはあきらかに「深刻な事態」である。
 政治は、こういう事態に的確に対処することが求められるが、実際問題として、どうしたらいいかなかなか有効な対策は見出せないかもしれない。

 地球環境問題という最大のテーマがある。
 しかし、目の前に、物価高が迫り、消費生活や医療や教育など、重圧が加われば、かっこいいことは言っていられなくなるおそれがある。なりふりかまわずということである。もちろん、そういう事態は避けたいのは当然だが。

 およそ、政策には体系がある。優先順位があり、予算がある。計画がある。そういう、ステップを着実に踏むことで政策は着実に実行されるはずである。

 しかし、現実には、災害が発生し、事故がおき、国際的な摩擦や衝突がおき、病気がはやり、テロがおき、陰惨な犯罪がおき、自殺者が相次ぎ、異常気象で作物が不作になる。

 経済はシュリンクし、生活はどんぞこに転落する。ひとびとは夢を失い、すさんだ表情の大衆が呆然とたたずみ、時には暴徒化する。これは最悪のシナリオだが。

 さて、ひとつの道は、とりあえず、決まった計画を地道に実行することだ。現象面だけ見て、パニックに陥れば、人心は混乱し、確実な経済活動が危うくない、国民生活も不安定になる。

 もうひとつは、目の前にふりかかる火の粉をすばやく的確にはらうことである。

 そうすることで、大きな火事になることを防ぐことができる。むずかしくても、最善を尽くすことがたいせつだ。

 原油高が大きな問題だとしたら、それへの緊急対策を政府は打ち出すべきだ。完全ではなくても、そういう姿勢が国民に安心感を与えるから。もぐらたたきみたいなことでも、たたかないよりはいいのである。

 すみやかな、対策の樹立と実施が待たれる。


























30.歴史的なアプローチ

 人物の評価の難しさは、前述のように、情報の制約や評価の主観性という制約によるものであるが、それは結局は、評者による同一人物評価の多様性につながる。

 たとえば、入社試験の面接の場合、役員、部長、課長、担当者などの間で評価は別れうるだろう。

 社内の昇進についても、人事にかかわる役員や社員の評価は必ずしも一致しないだろう。

 このような場合は、通例、決定のルールが決まっているので、それによって問題なく決定できる。

 しかし、家族や友人知人などの間では、統一的な評価基準はないし、そのような必要もないのだろう。

 恋愛・結婚・出産・成長・老化・病気・けが・離婚・死別などの段階がある。

 それぞれの段階で、さまざまな人物評価はなされるが、必ずしも、決定はなされないまま、事態は進行する。あいまいな人物評価が複数存在したまま人生が終わるわけである。

 多くの民衆は、その人物像や評価は歴史に登場しない。しかし、それらの無名の民衆の人物評価が集団として、地域や社会に影響を及ぼすことはまちがいない。

 したがって、権力者の場合のように、資料や伝記がそろっていなくても、ある時代の人物評価についての一般的な見方を支えていた有力な勢力として群衆をとらえる必要はあるかもしれない。

by nambara14 | 2009-09-14 20:17 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)