カテゴリ:論考「価値観の研究」第三部( 7 )



     『 価値観の研究 第三部 』

                           ― 平成27(2015)年5月編集 ―



        
                                          南原充士
   



目次(タイトル及び執筆年月日)

1.『 価値観の創造 』2009/12/8(火)
2.『 脳が脳を考える? 』2010/1/12(火)
3.『 国民 とは? 』2010/1/15(金)
4.『 条約、協定、黙約、暗黙の了解など 』2010/5/18(火)
5.『 ツイッターの功罪 』2011/5/29(日)
6.『 人物の評価 』2011/5/31(火)
7.『 東日本大震災について思うこと 』2011/6/1(水)
8.『 人間社会は基本的に不完全であるという認識 』2012/3/16(金)
9.『 不完全な人類でも進化し続けることができるか? 』2012/7/25(水)
10.『 意思決定のプロセス 』2012/9/4(火)
11.『 死について 』2013/2/8(金)
12.『 死の捉え方 』2013/2/14(木)
13.『 遺言など 』2013/2/18(月)
14.『 死への恐怖 』2013/2/19(火)
15.『 死への道筋 』2013/2/19(火)
16.『 自殺について 』2013/2/19(火)
17.『 ホスピスなど 』2013/2/19(火)
18.『 死後の世界 』2013/2/19(火)
19.『 死の社会性 』2013/2/20(水)
20.『 死から見た生 』2013/2/20(水)
21.『 死ぬまで生きるということ 』2013/3/11(月)
22.『 表現のほどよさとは? 』2013/3/12(火)
23.『 なにかのために命を投げ出すということについて 』2013/3/12(火)
24.『 大義名分ということ 』2013/3/13(水)
25.『 小さな楽しみの発見 』2013/3/21(木)
26.『 生きることへの反転 』2013/4/3(水)
27.『 精神の自由の確保 』2013/4/17(水)
28.『 遺族の立場 』2013/4/22(月)
29.『 故人の残したもの 』2013/5/17(金)
30.『 歴史認識について 』2013/6/14(金)
31.『 犠牲者の遺族 』2013/7/1(月)
32.『 社会心理と個人の心理 』2013/8/8(木)
33.『 権力は悪か? 』2013/8/15(木)
34.『 偉人伝 』2013/12/13(金)
35.『 自伝 』2013/12/26(木)
36.『 哲学の役割 』2014/3/17(月)
37.『 宇宙は論理的なのか? 』2014/3/18(火)
38.『 死についての教育 』2014/4/3(木)
39.『 人間ガイドブック 』への試み2014/4/26(土)
40.「 子供たちのための、『人の一生とはなんですか?』 」2014/6/18(水)
41.「 一般人のための、『人の一生とはどんなものか?』 」2014/8/28(木)
42.『 一億人のための人生読本 』(構想)2014/9/25(木)
43.『 犯罪等にまきこまれた場合の対処法 』2014/9/26(金)
44.『 接し方 』2014/11/13(木)
45.『 価値観の整合性 』 2014/12/12(金)
46.『 価値観の変更について 』 2014/12/18(木)
47.『 良識ある人 』 2014/12/19(金)
48.『 結婚について 』2015/1/6(火)
49.『 理性と感情について 』2015/2/9(月)
50.『 希望 』 2015/2/10(火)














1.『 価値観の創造 』

 ひさしぶりに、「価値観の研究」を再開する。第三部のはじまりである。

 すでに第一部で、体系的な整理をし、第二部で、個別論による補足をおこなったところであるので、第三部では、論じ忘れたことや思いついたことを少しずつ書いていきたい。ゆっくりしたペースとなるだろうが。

 はじめに、「価値観の創造」について述べたい。

 すでに「人間には生きる目的などないかもしれない」ということについては取り上げたが、では、どうやって生きていったらいいのか、ということに触れたい。

 実は、どんなに賢い人間でも、絶対的な真理や生きる意味を示すことはできない。

 科学的な事実や理論なら、客観的なアプロ-チが可能だが、人間が生きる意味などは客観的に説明しようがない。

 ただ、動物のように生まれて死ぬ。自然のままに生きて寿命がくれば死ぬ。結婚して子供をつくるかもしれない。意味などわからないが、本能や行きがかり上、なにかの痕跡が残る。

 あらゆる価値観は創造されたものだ。法律も、ルールも、主義主張も、道徳も、宗教も、幸福感も、仮のものとして生み出されてきたものだ。歴史の積み重ねの中で、いつとはなしに、絶対的な価値観であるかと思われ、そうひとびとが信じてしまったということだ。あるいは、ある社会で生きていくためにやむをえず受け入れているものだ。

 現在は、社会に奉仕するとか平和をたいせつにする、とかいうことは当然推奨されるべきことだと考えられている。しかし、世界に利己的な人間ばかりいれば推奨されないだろうし、戦争で利益をあげる人間ばかりだったら、平和など歓迎しないだろう。

 自由・平等・博愛とか、基本的人権とか、結婚制度とか、権力構造とか、商取引とか、契約関係とか、
人間の生活のさまざまな局面で登場する理念や制度や慣行は、便宜的に生み出されてきたのではないだろうか?人間の本質的な要素によって必然的にそのような制度が生まれたとは考えにくい。

 かつて述べたように、価値観は複数存在する。それらは、常にレヴューされる運命にある。複数の価値観は常に競争する。勝ったり負けたりしながら、価値観は変化し、交代する。永遠に、なにか絶対的な価値観へと収束されることはないだろう。人間が存在し、社会がある限り、変化しつづけるのが価値観だと思う。

 価値観は、常に創造され、提示され、競争する。民主主義とか資本主義とかも、歴史のある時点で有効とされたシステムだといえる。

 価値観は与えられるものだと考えるひとびとが多いかもしれないが、実は、一定のひとびとが切磋琢磨して生み出しているものだと考えたほうがよい。

 人間は、もっともらしく、正義や道義や説くが、あらゆるものは仮のものであり、たまたま採用されたに過ぎない。それでも、そういうシステムの中で、否応なくそれに縛られて生きていくしかない人間がほとんどであるという事実も否定しようがない。因果なものだということを忘れてはいけない。

 しかし、だからと言って、絶望や無軌道を勧めるものではない。人類の知恵は創造され、相対的にすぐれた価値観であるというものは存在するのであるから、そういう価値観を的確に選択し、修正を加えていくことはできるのだから。

2.『 脳が脳を考える? 』 

 脳科学が目覚しい発展を遂げているようだ。宇宙のことも素粒子のことも遺伝子のこともこの百年ほどの間に人類史上かつてなかったほどに長足の進歩をとげつつあると言えるだろう。

 わたしは科学者ではなく、それらの進展になんら貢献できてはいないが、素人でもよくわかる月刊誌「NEWTON」などで最新の情報に接することは大きな喜びだ。

 宇宙の成り立ちはかなりわかってきたようにも見えるが、まだまだわかっていないことも多いようだ。たとえば、「無」というものについては理論的に解明しきれていないらしいし、宇宙の構造が何次元であるのかもはっきりわかっていないらしいし、素粒子が「ひも」のようなかたちであるという説が提唱されたり、重力などの力の働きも「場」としてとらえようとするアプローチがあるようだし、極微の世界においては相対性理論の適用は不可能らしいし、素粒子の時間と位置を確定することが困難だという理論(不確定性理論とかいうらしい)もあり、曖昧模糊とした部分が数多く残されているという。

 遺伝子の仕組みもまだまだ解明され尽くしてはいないようだし、分子生物学の研究成果の医療への適用も徐々に行われているに過ぎないらしい。脳の仕組みもまた、研究の端緒についたばかりだと考えたほうが的確かもしれない。

 常々思うのは、どんなに厳密な理論を展開しようとしても、脳の認識や理解の構造が可能な範囲でしか考えることはできないのではないかということだ。つまり、脳が本来的に避けようとする認識や論理あるいは認識や理解ができない事実や現象というものがあれば、どんなにあがいても到達できない領域だという気がする。

 人間の脳がわかる範囲で研究は進めるしかないと思うが、「時間」「空間」「次元」「論理」「無」「宇宙」「生成」「消滅」「素粒子」「生命」「遺伝子」「DNA」「量子力学」「場」「エネルギー」「不確定性」など五感を通しては到底理解できない概念も多いような気がする。
 数式の世界でしか議論できない世界については、(たとえば、素粒子が波と粒子の両方の性質を持つ、などと言われても実感はできないと思う。理論的にはそうだと信頼できる科学者が言うから信じるという者がほとんどだろう。)

 この宇宙には、人間には先天的に理解できない認識や構造があると考えることには実際的な意味はないかもしれないが、そのような可能性を念頭においておくことは重要なことではないだろうか?

 宇宙が不可知だからと言って、ただちに「神」「「超越者」「絶対者」という論理を超えた存在に依拠することなく、地道に研究を進めるべきだと思われる。おそらく、宇宙や生命のあまりの複雑さや精巧さを眼前にすれば、だれでも「人間を超えた存在」を信じたくなるだろう。そこをじっと耐えて、知りえた知識や経験を増やしていこうとする姿勢がたいせつなのだと思う。

 さらに、こうしたアプローチは科学の分野だけでなく、社会においても文学といった領域においても、不可避とならざるをえないと思う。






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by nambara14 | 2015-05-23 19:51 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)


3.『 国民とは? 』
 
 最近、民主党の国会議員の発言によく登場するのが「国民」という言葉だ。

 民主党になにか批判的な発言がなされると、必ず、「マニフェストに書いてあるから」とか「マニフェストは国民との約束だから」という反論をする。

 ここでいう「国民」とはなんだろう?

 国民全体の支持をえているというようなニュアンスで使われているようだが、実際には、国民はばらばらである。年齢、性別、職業、収入、資産、住所、出身、学歴、知名度、思想・信条、価値観など千差万別のひとびとがいる。それらをひとくくりして「国民」というのは無理がある。

 国民が平等に扱われるとか法律によらなければ義務を負わないとかいうような、憲法上保障された基本的人権のような場合は、すべての国民は同等にとらえられる。それは、違いを前提としつつ、法的な扱いは平等だという理念を明文化したものだからだ。

 選挙結果は、「多数決」でしかない。

 国民は、マジョリティとしてあるのだ。しかも、投票したという点において共通点があるだけで、それ以外の点について考え方などに異同があるかどうかはわからない。前回の総選挙では民主党支持でも次はどうなるかもわからない。きわめて流動的だ。

 「国民」「国民」と政治家が叫ぶときは、注意しよう。

 どこにも整然と列を成して民主党を支持する「国民」などというものは存在しないのである。従来もまたそうだった。自民党・公明党政権においても、国民は数でしかあらわれなかったのである。

 「国民」の支持は、あやふやだが、それしか説得力や根拠にはなりえないのもまた事実だ。マスコミが発表する「内閣支持率」も不正確な要素はありながら、世論に大きな影響を及ぼし、ひいては政治にも影響を与える。その意味で、「国民」の意向を尊重する姿勢は肯定されるべきだし、「国民」をたいせつにしようとする民主党政権の姿勢もそれでよいと思う。

 ただ、それを受け止める国民の方は、常に疑いながら、政治家の発言を聞く必要があるということを忘れてはならないと思う。

 さまざまな意見がある。その中から、決断を下すのが政治家の役割だ。ひとつひとつの事柄について、きちんとした判断がなされていけばいいが、問題ある判断がなされたときは、「国民」がいろいろな角度からブーイングを唱えることがたいせつだし求められる。それが、日本を過ちから救う唯一の道だと思う。



 

4.『 条約・協定、黙約、暗黙の了解など 』  

 昨年、民主党政権が発足したときに、わたしはこのブログで国際関係は難しいから要注意だと指摘したところであるが、案の定、鳩山政権は普天間問題でもたついており、政権維持すら危ぶむ声が大きくなっている。わが国にとってきわめて由々しき事態だ。なんとか、事態の打開を図ってもらいたいと切望する。

 ところで、国際的な約束の代表的なものは、条約や協定だが、実は、それとともに、さまざまな約束事が存在するようだ。覚書、黙約、暗黙の了解、メモなど。ものによって、法的拘束力にちがいがあるので、違反した場合の効力にはちがいがあるが、いかなる世界においても、グレーゾーンは存在せざるをえないのであり、建前とは別の本音や沈黙や阿吽の呼吸といったさまざまな要素をひっくるめて国際関係はとらえる必要があると思う。それは、国内関係やふつうの社会におけるさまざまな関係においても同様だと思う。

 今回の鳩山内閣における最大の問題点は、手順前後、シナリオライターの不在あるいはシナリオライティングを明確に指示しなかったリーダーのミス、明文の条約や協定や合意の拘束力の軽視、連立内閣での閣内調整不調、米国政府との交渉ミス、地元へのアプローチミスなどが重なって深刻な手詰まりに陥ってしまった。

 法的な拘束力を前提としつつも、昨今の社会情勢においては、法的な義務はなくても地元の基本的な了解は必要である。そういった極く初歩的な手順を踏まずに従来の方針の大転換をしようとした態度は大胆ではあったが軽率のそしりをまぬかれない。

 すべてをオープンに論じることは民主的かもしれないが、外交や軍事のように機密保持が必須な分野については、秘密裏に物事を検討し協議し大筋の方向をさぐっておくべきである。政府が公表することを踏まえて、マスコミや評論家などが黙約や暗黙の了解の部分について解説をほどこすというのが望ましい役割分担だ。

 こうした役割分担は、当事者によって相談の上決まるものではなく阿吽の呼吸で決まるものだ。そして、それは政治においてのみならず、財政、経済、貿易、金融その他のさまざまな分野においてもきわめて重要である。

 たしかに複雑な方程式を解く程度の知性と正確さと慎重さを求められるが、事柄の重要さを考えれば、それだけの能力を持つ者がリーダーとして的確な指揮命令を発してくれなければ、日本は危機に瀕することは明らかである。

 理屈をこねることはたやすい。だいじなのは、責任ある立場の人間による責任ある判断と行動だ。

 

5.『 ツイッターの功罪 』
                              
1.ソーシャルメディアとはなんだろう?

 ミクシイ、SNS、ツイッター、フェースブックなど、いわゆる「ソーシャルメディア」といわれるシステムが、インターネット上で、口コミ的な情報発信・交換・収集の場として目覚しい発展を示している状況を見ると、コミュニケーションの方法に革命的な変化が進行中であることに気づかされる。

 言うまでも無いことだが、メディアというのは、従来は、新聞、テレビ、ラジオなど、商業的な報道機関が視聴者や購読者に対して一方的に情報を送るというのが原則的な形態だった。投書欄などがあるものの双方向の発信は例外的でしかなかった。

 ところが、インターネットの発達により、資金力や情報力や販売力の乏しい、一個人でも、容易に情報を発信し、受信し、交換できるようになってきた。知人、友人、仲間の間のやりとり、口コミ、といったものを通じて思うままの発言が可能になった意義は大きい。売れる発言かどうかの選別を受けることなく玉石混交の発言がインターネット上に大量に出回り始めたのである。

2.ツイッターの功罪

 ソーシャルメディアにはそれぞれの特徴があり、利用者もそれに応じて メディアを選択しているものと思われる。
 その中でツイッターの特徴は、手軽につぶやけるということだろう。一回140字以内という制限はあるが、何度でもつぶやけるし、フォローというかたちでメンバーを選択すればその書き込みが自動的に流れてくる。
 手に入れたい情報を選べばリアルタイムで入手もできたり、興味のあるメンバーの発言や動向も入手できる。それはとても便利で楽しくて魅力的だ。
 だが、他方で、ツイッターには手軽さゆえの危険性や問題点もひそんでいるように思われる。
 新しいつぶやきに古いつぶやきは押し下げられて、どんどん過ぎ去っていくが、その一過性もまた気楽なつぶやきを助長する。その気軽さゆえか、ついつい本音のつぶやきもしてしまいがちだ。
 ひとは思うことをすべて口にすると時として愚痴や批判や悪口が混じりやすい。表現の自由は尊重されるべきだが、行き過ぎた発言や誹謗中傷は避けるべきだと思う。個人的な日記や仲間同士のおしゃべりならかまわないだろうが、ツイッターも公の場である以上、社会的な配慮が必要ではないだろうか。
 特に、特定の対象を批判するとき、独特の感情が増幅されて、ときにより「炎上」などという事態も発生する。社会的な感情や気分というものはとても怖い者だ。個人ではコントロールできなくなることがある。
 世論の形成、誘導、操作というような政治的な側面さえおびてくることもあるようだ。
 ツイッターというメディアが登場して間が無いので、その功罪について結論めいたことを言うのは早計に過ぎるとは思うが、公の場で発言する以上は、「マナー」や「エチケット」というものは最低限必要なのではないかと思う。日々、ツイッターの発言を自分なりにフォローしてみてそんなことを感じるこの頃である。
 ともあれ、ソーシャルメディアという場を通じてだれでも気軽にかつ手軽に発信できるというプラスは否定すべくも無い。その活用を推進する中でリスクを最小限に抑える工夫も待たれるところだと思う。
 

 

6.『 人物の評価 』
 
1.人物の評価ほど難しいものはない。

 一人の人間にはさまざまな要素がある。たとえば、外見、体力、知力、性格、さらには職業、地位、収入、金力、財産、家柄、血筋、交友関係、趣味、特技、資格、影響力などである。
人間関係にもまたさまざまなパターンがある。夫婦、家族、恋愛、友人、知人、同僚、職場、同級生、学校、隣人、地域、グループ、その他。
夫婦や恋人ならば、付き合いは全人格的なものになり、仕事の上の付き合いならば、部分的になりうる。もちろん、仕事や趣味の付き合いでも意気投合して全人格的な付き合いに至ることもある。ケースバイケースである。

2.では、一人の人間の評価は全体として評価することができるだけだろうか?

 好き嫌い、良い悪い、優劣、貴賤、強弱、美醜、敏捷・愚鈍、才能・非才、非凡・平凡、貧富、など単純な二元論で分けてしまえるだろうか?
現実問題として、ひとりの人間をいくつかの要素にわけて、たとえば、頭はいいが、意地悪だとか、お金持ちだがけちだとか、美人だが色気がないとか、貧乏だが気立てがいいとか、ひらめきはないが粘り強いとか、平凡だがうそをつかないとか、いろいろなバリエーションがありうる。
いくつかの要素の組み合わせとしてとらえることができる。
あるひとが自分と政治的な立場が違うがともにゴルフが好きで一緒にプレーしているとしよう。ゴルフをともに楽しめるなら付き合えばよい。
あるひとが他人の批判ばかりするところが気に入らないけれども、頭脳明晰で目からうろこ的なものの見方や情報を提供してくれるなら、その限りにおいてつきあえばよい。
恋愛関係はそうはいかないかもしれない。恋人の顔は好きだが、性格が嫌いというのでは長続きしないだろう。恋人として付き合うには、全体として付き合いえるだけの魅力や価値がないといけないだろう。

3.そのように人物の評価は、人間関係や時と場合によって、使い分けることが賢明だと思われる。かたくなに、嫌いだとか卑怯だとか虫が好かないとか決めつけて、そのひとの持つ長所までも遠ざけてしまうのはもったいない。もちろん、場合によってはある要素が重大な意味を持ち、それによって全人格的な評価もマイナスとせざるを得ないこともあるだろうが、可能な限り切り捨てることは避けたほうがよいと思う。ひとりの人間のさまざまな要素をよく見極めて上手に付き合えるように工夫することも必要だと思う。

7.『 東日本大震災について思うこと 』

1.東日本大震災の発生

 平成23年3月11日に発生した東日本大震災の影響は、東北・北関東だけでなく、東京を中心とする首都圏さらには日本全体、海外までも及んでいる。
 今回の震災による被害の大きさと原発という特殊性が大きな影響を与えることとなったといえる。

2.風評被害

 放射能汚染についてはさまざまな風評被害が報告されている。チェルノブイリなど過去における原発事故の影響についての知見をもってしても説得力のある科学的な対応が困難であるという事情もあって、風評被害が起きやすいと思われるが、関係者が粘り強く対応をしていくことにより徐々に問題が解決されることが望まれる。

3.批判、誹謗中傷
 
 今回の震災による甚大な被害について、東京電力に第一義的な法的責任があることは明らかであるが、政府の法的責任については議論を要する。法的責任を超えた社会的道義的責任も考慮する必要がある。
こういう甚大な被害が起きた時、世論の盛り上がりにより、冷静な対応が困難になることがある。本来なら法的な責任を負わない場合にまで、賠償責任があるような議論がなされる。
故意過失によらない損害について賠償することは例外的であり、それなりの法的な根拠が必要である。また、政策的な救済措置として対応するならそういう趣旨を明確にしたうえで、予算措置・立法措置を講ずるべきである。
 最近のテレビや新聞報道を見る限り、政府や東電は犯罪者扱いをされ、問答無用の批判にさらされているように見える。もちろん、批判されるべきことについては徹底的な批判がなされたうえで、責任の追及がなされてしかるべきである。だが、被害者としての悲しみ、怒り、憤懣などを基礎とする感情的な批判には危険も伴う。世の中が戦争や災害や大不況等騒然とした状態になると、人心は乱れ、社会的不安が増大し、デマが横行したり、過激な意見が出回ったりするおそれがある。
 東日本大震災をめぐる今の日本の状況もある意味では世論形成に危うさを感じる。
たしかに、被害の状況や被災者の苦境を思えば、政府や東電の対応に不満を感じるのは当然かもしれない。だが、マナーやエチケットや法的なルールまで無視して他者を非難する姿勢や態度があることには行き過ぎを感じることもある。

4.今後の対応

 今なすべきことはとにかくできうるだけの対策を速やかに総動員して、復旧復興、原発の安定化を図ることだ。
 今、国内でも国際的にも、日本及び日本国民の鼎の軽重が問われている。国民全体が一致協力して最善の対応をし、一刻も早く新しい東日本を作ることが求められている。
 日本人の知恵と団結力をもってすれば、今回のような異常事態にも的確に対応することが可能だと信じる。
 内輪もめしたり仲間を誹謗中傷したりすることなく、ひとりひとりが可能な限り粛々と自分のなすべきことをなしていくことが求められていると思う。

8. 『人間社会は基本的に不完全であるという認識』

1.世界が平和であってほしいとか、人権が保障され、自由で民主的で豊かな社会が実現してほしいとか、人種や宗教や性別や貧富や家柄などで不当な差別は受けない社会であってほしいとか、戦争や侵略や殺戮や残虐な行為は行われない世界であってほしいとか、人類はずっと願ってきたことだと思う。
 だが、様々な理由があったにせよ、歴史は常に紛争や残虐行為の繰り返しであったことを示している。
 理想を掲げてそれに向かって進むというのは望ましい姿だが、現実はそう簡単には理想に近づかない。
 最近の世界情勢を見ても、イラク、アフガニスタンをはじめ、イスラエル、パレスティナその他の地域で紛争が続いている。

2.思うに、これまでも世界平和やさまざまな問題解決のために献身的な努力をし、世界に貢献した偉人は少なくない。永遠平和のためにを著したカントとか無抵抗主義を貫いたガンジーとかそのほかシュヴァイツァーとかマザー・テレサとかマンデラとか。
 世の中には偏狭な考え方を持ち、私利私欲を追求する輩も多数いることは否定しようもないが、平和で安定した社会の実現を願う者が圧倒的に多数だと思う。
 にもかかわらず殺し合いが避けられないという歴史的事実は、人間社会の複雑さを示している。だからといって人類の理想を追求することを放棄すべきではないと思う。理想と現実のギャップの大きさを認識したうえで理想の実現を目指すという辛抱強い態度が望ましいと思う。

3.人類の紛争を顧みるとき解決が最も困難と思われるのは宗教紛争であろう。ブレア―前イギリス首相は、首相退任後の自分の課題は異なる宗教間の相互理解や共存共栄の促進であると表明している。すぐれた人物がこうした貢献をすることを高く評価したいが、可能な限り多くのひとびとがそのような意識を持って問題解決に向けて知恵を出し合い協力することが望まれる。

4.日本というひとつの国の中でさえ、政党間の争いは熾烈であるし、産業間、地域間、その他の利害関係による競争や摩擦は激烈なものがある。
 国民全体の理解と協力なしには日本の未来は開けないだろう。

5.ついでに言えば、個人個人もまた異なる価値観を持ち複雑な利害関係の中におかれるので、個人レベルでの紛争もまた頻発している。そうした問題の解決もまた社会全体のあり方や発展段階や考え方や習慣やルールに関わってくる。
 条約や法律など、個人レベルでは解決できないこともあるが、コミュニティレベルでの問題など個人のかかわり方が大きな役割を果たしうる場合もある。
 それぞれの立場において、理想を追求する姿勢が望ましいことは言うまでもない。

6.以上、人間というものは、個人で見ても、地域で見ても、集団で見ても、国家で見ても、世界全体で見ても、不完全な者同士で構成されているので、不完全であることを前提としてとことん辛抱強く問題解決の努力を続けていくことが必要であり、重要であるということを再認識すべきであると思う。     

9.『 不完全な人類でも進化し続けることができるか? 』
(不完全な人間が社会や国家を作り不完全な情報と判断力で不完全な結論を積み重ねるのを前提に世界は徐々に進歩するだろうという希望を捨てないでいられるか?)

1.時間は止まらないから、とにかく世界は変化する。地球上の人類も変化の歴史の流れの上にいる。歴史を振り返れば、明るく楽しい出来事は記録が少なく悲惨な争いや災害や疫病などが目立つ。
 幾度も繰り返される不幸な出来事を前に人類は何度となく絶望し、じっと耐える中でまた希望を持ち続けてきた。
 現在の世界情勢も日本の状況も不確定で希望が持ちにくいと言わざるを得ない。
 それではどうしたらいいのか?

2.思いつくままに、いくつかの視点を列挙してみる。

・科学的に証明することは困難だが、人類はさまざまな方面で進化してきたし、これからも長い目で見れば進化し続けるだろうという確信を持つこと。
・ さらに、暴力を可能な限り抑制し、言論による紛争の解決を図ることを重視すること。
・ あるいは、意思決定のルールを決め常に見直すこと。
・ ルールを破った者に対する制裁を決めておくこと及び制裁を実効あるものとするための組織づくりや権限・財源の確保を進めること。
・さまざまな意見を述べる権利を保障すること(言論の自由)。
・異なる意見をつきあわせることによる議論の深化を促進すること。
・意見の集約方法を明確化すること(たとえば、多数決。)
・決まった結論は不満でも尊重すること。反対であることを主張し続けることはかまわない。
・次のルール改正や方針変更の機会を活用すること。
・世代交代を念頭に入れたルールや制度作りをしておくこと。
・すべてが不完全であることに絶望しないこと。
・平和、豊かさ、思いやり、相互扶助などの共通の価値をたいせつにすること。
・人生を楽しめるように協力し合うこと。
・ライフサイクルに応じた社会的なサポートを提供しうる仕組みを作ること。
・すべてはダイナミックなものだという認識を忘れないこと。 
・その他

3.これまでのところは科学的には証明されていないが、当面、人類が進化し続けるだろうという仮説を人類が共有できるように努力すべきだというのがわが信念である。

10.『 意思決定のプロセス 』

1.国内外の情勢が複雑化しさまざまな利害や考え方が対立を強めている状況の中では、なかなか物事が決まりにくい。国政においてその典型的な事例がみられる。
 そのようなときにただ頭を抱えているだけではなく、もう一度意思決定のプロセスというものを整理しておくことは意味のないことではないだろう。

2.国政における意思決定は、憲法を含む法令が第一の根拠であるので、その定めるところにより決定を図るのがはじめに取るべきステップである。決められない政治と言われているが、とりあえずは、行政のトップである内閣が企画立案し方針を決定するしかない。予算や法律は国会における承認手続きが必要である。
 では、成立した予算や法令などに反対したい場合はどうしたらいいのか?
 ひとつは、さまざまなツールを通じての反対意見表明である。インターネットや投書や集会・デモなど。
 次は、選挙において、自分の意見を代弁してくれる候補者に投票することである。総選挙や参議院議員、知事、市町村長、県議会議員、市町村議会議員などの選挙の機会を活用することである。
 新たな与党が登場し、新たな内閣が成立しても、手続きは大きくは変わらない。新たな政策を実行したければ、新たな予算を編成し、新たな法令を策定するか既存の法令を改正する必要がある。そのためには、多数決というのが絶対の要件になっている。
 与党と野党の意見調整というのは、まさに多数派工作として表れる。

3.意思決定のシステムが法令で決まっている法治国家においては、どんなに反対意見を持っていてもそう簡単にはそれが実現しない。言論による戦いに勝ち、多数決を取り付けなければならない。
 危惧すべきは、言論闘争に絶望するあまり、暴力に訴えることである。歴史的には、法令による解決が未成熟であった時代においては、暴力による解決はふつうであった。しかし、現代においては、暴力による解決を認めるという選択はいかがなものであろうか?
 時には手間暇がかかりすぎて辛抱しきれなくなるような場合もあるかもしれないが、法治国家であることの意義はまさに適正な手続きによってしか政策が決定できないというところにある。望むらくは、今後においても、さまざまな膠着状況を打開するために暴力に訴えることなく言論によって対応するというコンセンサスが国民の間に再認識されることを!




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by nambara14 | 2015-05-23 19:49 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)



11.『 死について 』
                           
1.生老病死という言葉がある。人生を簡潔に言い表していると思う。
 だれも「生まれるの」であって、気が付いたらこの世に存在するという出発点に立っている。芥川龍之介の小説「河童」のような選択権はないのである。
 老いもまた避けがたい。
 病気は軽重さまざまだが、死に至る重篤な病を得るかどうかは遺伝と生活習慣と環境と運にかかっているのだろう。
 重篤な病はなくても老衰によってひとは死に至る。
 苦しみや痛みの程度や体の自由度や認知症の程度など、ひとそれぞれだが、だれも死をまぬかれない。
 人間は基本的にそういう認識を持って生きる。覚悟しようとしまいと生きることは死によってピリオドが打たれる。死にたくないという思いや死への恐怖感さらには死後の世界の不安など生きている人間にとって死は扱いにくいものだ。

2.過去の人間の死への向かい方についてはさまざまな記録や情報が残されている。世俗的なものから宗教的なものまで多岐にわたっている。先人の経験や感情や考え方は参考になるが、どれだけ救いになるかは受け止めるひとによって異なるだろう。なにせ死人は生き返らないので死の経験を語ることはできないし、聞くこともできない。
 日々多くの人間が生まれ多くの人間が亡くなっている。葬儀も日々行われ、自分の家族や知り合いの死に遭遇することも少なからずある。日常生活の中に死は入り込んでいるので、珍しいことではない。だが、自分の死となると話は違う。死んでしまえば、世界はなくなるという感じがする。実際には、自分が死んだ後もなにごともなかったかのように世の中は続いていくだろうと思っているのだが。

3.死へのステップはだれも予測できない。突然死もあり、長く病床に伏せる場合もあり、認知症で判断力が衰える場合もある。心臓、脳の疾患やがんなど命にかかわる病に侵されることもある。自分の身近な人間の死にざまを観察すると、自分の心身の健康もまた危ういものだと認識する。そして、医療や介護の重要性が理解でき、そのための仕組みの持つ意義もよくわかる。さらにすべてには費用がかかるので収入、蓄えの必要性、公的な補助の必要性などにも思いが至る。
 一寸先は闇だという認識のもとに、死ぬまで生きることは意外とやさしいことではない。そこには、自分の価値観、希望、環境、運命、医療介護の現状などが複合的にかかわる。いずれにしても多くのひとたちの支援なくして死ぬことはできないようだ。

4.以上のように、ひとそれぞれの死というものがありうるわけだが、自分の死はなかなか客観的に受け止めにくい。感情も揺れ動く。恐怖感や絶望感や無気力感などが交錯するだろう。たんたんと死を受け入れることができないかもしれない。あるいは、植物人間になって意識を失うかもしれない。だれにも起こりうることだ。おそらく絶対の死に方マニュアルというものはないのだと思う。ひとそれぞれ運命に翻弄されて右往左往しながら、あきらめたり取り乱したり恨んだり感謝したりしながら、臨終を迎えるのだろう。
よくわからないけれども自分にかならずやってくる死というものを自分なりに考えておくことは必要だと思う。半面、死について考えすぎると精神的に落ち込んで明るく楽しく生きられなくなるかもしれない。
 なにごともほどほどが肝心かもしれない。
 死については、あまりに重たいことなので、結論めいたことは言えない。

12.『 死の捉え方 』

1.人間は死を免れない。Man is mortal. 死を忘れるな。 Memento mori. ということは古来言われてきたが、そのニュアンスは、時代とともに変化してきたらしい。もともとは、「どうせ死ぬのだから生きている間は楽しくやろう」、という意味合いが強かったが、やがて宗教と結びつくと、文字通り、「人間は死を免れない」ということを認識せよ、という教訓的な意味合いになったらしい。

2.人間は死をどのようにとらえてきたかを調べてみると興味深いことが明らかになるだろう。そんな中で来世があるという考え方は歴史的にかなり根強いものがあるように思う。
 現世での行いによって、来世に自分が天国に行くか地獄に行くかが決められるという考え方が代表的だろう。
 東洋の極楽浄土と地獄、西洋の天国と地獄、最後の審判などは好例だろう。
 来世への恐怖が現世における行いを清く正しいものにさせるという論理はわかりやすい。
 しかし、来世があるかどうかの証明は難しいのではないだろうか。神が存在するかどうかの証明と同様に。信じるとか感じるとかが大切だと言われるが、科学的な説明として受け止めることはいろいろ難しさがあるような気がする。

3.最近では、「人は死ねばゴミになる」というような見方もある。無神論的な見方なのだろう。この考え方からすれば、来世もなければ、輪廻もない、魂はなく死ねば肉体が朽ち滅びるだけだという。
 この考え方が科学的であると断言できるかどうかはよくわからない。

4.多くの人間が死を恐れることは事実だと思う。そのことが死を直視することを困難にする原因のひとつだろう。余命いくばくもないと知った時には多くの人間が周章狼狽するだろう。パニクって冷静ではいられなくなるだろう。精神的な動揺が現実を正確にとらえにくくする。悟りを開くのは容易ではなさそうだ。迷いや不安や苦悩や恐怖の内に、最期を迎える人間が多いのではなかろうか。意識を失ったままで亡くなるケースもあるが。宗教を信じ、聖職者に懺悔し告白し導かれながら、穏やかな精神状態で神の迎えを待つという心境に達する人間もいるだろう。最期についての考え方、受け入れ方、迎え方は、ひとそれぞれだろうし、どれが正しいと結論が出るものでもないと思う。いわば、答えのない問い、永遠の謎の中で今後とも、人間は生きて死んでいくしかないということではないだろうか?

13.『 遺言など 』
 
1.自分の死を冷静に考えてみれば、すでに故人となったひとびとがどんな死の準備をしていたかについて関心をもつだろう。
 ちなみに本居宣長は、ヤマザクラを配置した自分の墓のデザインを書き残しておいたそうだ。

2.死への準備をいくつかのカテゴリーに分けて考えてみれば、次のようなことが考えられる。

(1)遺言(主として財産相続の件、法律に基づく処理)
(2)財産相続を除く事項
  ①葬儀の方法(仏式,神式、教会葬、人前式など)
  ②墓地、埋葬の方法(墓、樹木葬、散骨など)
  ③遺品の処理方法(相続財産以外のもの)
(3)会社のオーナー経営者などの場合は、後継者などについての指名あるいは希望
(4)遺族、友人、知人等への感謝の言葉等
(5)その他

3.遺言については、民法など関係法令に従って処理する必要があるので、弁護士や司法書士などと相談することになるだろう。

4.葬儀、埋葬方法については、本人の意向が尊重されるべきだと思うが、遺族がそれに従うかどうかは事情によるだろう。パニック状態にあれば、通常の仏式の葬儀という方法を選んでしまう可能性がある。余裕があれば、個人の意向どおりに処理してくれるだろう。

5.オーナー会社の経営者であれば、後継者について明確にしておく必要があるだろう。ただし、生前に手を打っておける可能性もあるかもしれない。

6.配偶者や家族、その他親交のあった友人知人に言葉を残したいと思う場合もあるだろう。様式はいろいろ考えられる。

7.その他ひとそれぞれのこだわりがあるだろうから、それを生前に準備しておけばよいだろう。たとえば、廃棄処分を望む書類、写真、手紙、メールなどがあるかもしれない。そのような場合はその旨を書き残しておいた方がよいだろう。なお、慈善団体への寄付などは、遺言の中で明確にしておくべきかもしれない。
 概して、死後になにをすべきかは最小限にできるように、できるだけ生前にできることは生前にやっておいた方がよいと思われる。
 死後のことは、死人に口なしということで、見届けようはないが、遺族などの心情や負担を考慮して生前に処理できることは最大限しておくというのが人間として望ましいと思う

14.『 死への恐怖 』

1.死への感情は複雑だろう。恐怖感、絶望感、錯乱、無気力、あきらめなど。
 漠然とした不安や自分がいなくなってしまうことへの恐怖感や精神的な錯乱にふりまわされるのはごく自然なことだと思える。

2.漠然とした死の観念とは別に、死に至るまでにさまざまな苦しみを経験することも大きな不安材料だろう。

 たとえば、脳こうそくで全身あるいは半身不随になるとか、言語障害になるとか、がんの進行で強い痛みにさいなまれるとか、事故や病気でで体の一部を失うとか、介助者なしには日常生活が営めないとかの状況に陥ることは大きなプレッシャーとなるだろう。

 視力や聴力、味覚や嗅覚、触覚などが低下することも耐えがたい試練と言えよう。

 
3.突然死は別として、人間は死ぬまでの過程においても苦悩にさいなまれるおそれをかかえているわけだ。

 そして、いかなる道筋で死を迎えるかもあらかじめ予知することがむずかしいので、ほとんどの場合、不幸は不意打ちでやってきて、否応なく人間にとりつくというものだ。

 
4.死は世の中にごくふつうにみられるもので、めずらしくもなんともない。だが、個人にとっては、死は一回限りで特別で絶対的なものだ。

 死に至るまで悟りを開くこともなく乱れた感情を持ち続けたとしても不思議はないと思う。

 死はそんなにかんたんに受け入れることができるものだとは思えないからだ。

15.『 死への道筋 』

1.人間の死に方はさまざまだ。老衰、自然死、病死、事故死、自然災害による死、犯罪による死、決闘やケンカによる死、無差別殺人による死、テロ、戦争、戦闘、内乱等による死、刑死、虐殺、自殺、心中など。

 病死にも、脳こうそく、心筋梗塞、がんなどさまざまなケースがある。

 自然災害にも、台風、地震、高潮、津波、大雨洪水、地滑り、地割れ、地盤沈下、なだれ、竜巻、隕石落下などいろいろな場合がある。

 事故死にも、交通事故、転落事故、墜落事故、落下事故、水死、衝突、挟まりなどいろいろな形態がある。

2.すべての人間が、自宅で穏やかな死を迎えることができるわけではない。
突然死、不慮の死、不遇の死といった痛ましい死を迎える人間も少なくない。

 しかも、どんな最期を迎えるかは、運命による要素が強いと思われ、人間の努力には限界があると思われる。

 もちろん、できるだけ事故に遭わないような配慮や病気にならないような健康管理に努めることは無駄ではないだろうが、非情な運命をどれだけ左右できるのか定かではない。

3.死の時期やタイミングがなんらかの兆候としてあらかじめ示されることは少ないと思われる。重い病気に苦しむ人間が徐々に病状が悪化して死に至ると言うような場合はある程度想定内だと言えるだろうが。

 多くの場合、個々の人間はいつ死ぬかわからないまま生きている。余命宣告されないことで、比較的落ち着いた心的状態で過ごせると言うメリットがあるだろう。

 だれでもいつかは死ぬのだが、すぐには死なないというのは極めて大きな安心を与える材料だろう。あいまいさの意義は大きい。

16. 『 自殺について 』

1.死を恐れる人間の多い中で、自ら命を絶つ人間もいる。
 最近の日本でみれば、毎年約3万人の自殺者がいるという。痛ましいことだ。
  その原因は、病苦、借金苦といった割合が多いらしい。追い詰められて、苦しみに耐えられなくなって、死を選ぶという場合が多いのだろう。

2.ひとりの人間の中でも、生きたいという欲求と死にたいという欲求が共存しているケースもあるように思う。揺れ動く心理状態の中で、精神状態がきわめて悪い方に振れたときに、逃げ場がなくなって死を選ぶのだろうか?

3.自殺を予防しようとする取り組みも公的機関などで行われているようだが、カウンセリングとか薬の投与とかをはじめ、医師やカウンセラーなどの専門家による判断のもとに、家族や友人や知人や同僚が自殺防止に協力するというかたちが有力な方法のひとつではないだろうか?

4.宗教によっては自殺を禁止しているものもある。そういう掟を破って自殺すれば本人も宗教的に不利な扱いを受けるだろうし、遺族もつらい目に遭うかもしれない。宗教とまで行かなくても、一般的な社会的関係の中でも、自殺した者の遺族などは他人から特殊な目で見られるということがある。一人の人間の死が死後にまでさまざまな影響を及ぼす例である。
 では、そういう悪影響を及ぼすことを考慮して自殺を思いとどまれるだろうか?おそらく答えは否だろう。どうしようもなくなっての自殺という場合が多いのではないだろうか?

5.神風特攻隊は強制されての行為だっただろうが、最近のテロリストには宗教や社会的使命感によって自爆テロをする例もあるように見える。

 自殺の一形態ではあるが、上に述べたケースと性質がだいぶ異なると言えるだろう。

 人間の死もまた複雑怪奇なものの最たるものであることは言を俟たないだろう。

17. 『 ホスピスなど 』

1.死への道筋がさまざまであって、多くの人間が老いや病気や事故等により介護が必要な状況に追い込まれる時代状況の中で、人間が尊厳ある死を迎えられるようにすることは社会的に重要なことだろう。

 医療や介護の体制の整備が求められる。

 病気になれば病院で治療を受けるが、治療が済めば退院せざるを得なくなり、自宅に戻るかどこかの施設に入居する必要が生じる。

 特に、体に不自由があって自立できない人間にとってだれかの支援を受けらるかどうかは文字通り死活問題である。家族がいればある程度のサポートが期待できるが、身寄りがない者の場合は、システムにすがるしかない。しかも、収入が乏しい者である場合は、生き延びる手立ても限られて来るだろう。老後の蓄えや年金やなんらかの収入があればよいが、そうでない場合は生活費を工面することがきわめて難しいい試練となるだろう。

 お金に余裕がある人間の場合でさえも、民間の有料老人ホームなどお金でサービスを得られる場合はよいが、がんや呼吸器系の病気など施設が受け入れを拒否する場合もあるだろう。

 そうした場合は、なんらかの支援体制がなければ生き延びていけないことになる。

 自宅にいて、24時間ヘルパ^-などに介護を受けるといようなサービスが必要となる場合があるが、収入も貯金もない人間にたいしてはどのように取り扱ってくれるのだろうか?

 
2.末期がんの患者を受け入れるホスピスの存在が知られているが、今後ますますその重要性は増してくると考えられる。

 単なるボランティアではなく、医療介護体制の中できちんと位置付けていく必要があると思う。

 今、医療介護制度については、財政問題、患者の負担割合、従事者の資格や待遇など困難な問題が山積しているが、少子高齢化時代を迎えて、その重要性はますます大きくなっている。

 死へのステップを尊厳あるものとするのが人間社会の責務であると思う。みんなで知恵を出し、力を合わせて解決の方向を見出していくことが望まれる。

18.『 死後の世界 』

1.死後の世界については、古来さまざまなことが言われてきたが、だれにも確かめることはできない。

 エジプトのミイラは人間が蘇ることを信じた上での制作だっただろうし、仏教の浄土や地獄、輪廻といった考え方も興味深いし、キリスト教の天国と地獄、最後の審判といった捉え方もあるなど、さまざまな宗教や思想が死後の世界を想定し描いていたことはまぎれもない歴史的事実である。

 たしかめようもないのに、長い間多くのひとびとによって信じられてきたという事実は重い。
 人間にはなにかを信じたい、つまり生老病死を背負った人間というものを導く教えや価値観とでもいうべきものを欲する必然性があるのだろうか?

2.あの世とこの世とか、三途の川を渡るとか、盆には先祖が帰って来るとか、日本人の生活にもそういう慣習が根付いている。社会慣習というものは、冠婚葬祭にみられるように、科学的な進歩が顕著であっても、ただちに否定されたりすたれるものではない。
 人間にはあるいは宇宙にはまだまだ解明されていないことがたくさんあり、これまでわかってきたことからだけでは、すべての謎を解き明かせないということは確かだろう。

 死後の世界という捉え方についても当分は受け入れられていくと思われる。

3.死後の世界については、信じるかどうかという観点以外にも、一種の空想的な物語やロマンとして楽しむと言う姿勢もありうるかもしれない。そこには人間の生が反映しているともいえるかもしれない。
 人間は生の中でしか生きられないが、死を意識せざるを得ない存在として、過去の死者や死の捉え方などを生の中に取り入れて生きていかざるを得ないのかもしれない。
 多くのことは仮定形で語られるにしても、死は常に生の最後に居座るのだから。





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by nambara14 | 2015-05-23 19:47 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)



19. 『 死の社会性 』

1.死は個人のものだが、死の社会的な関わりは無視できないものだと思う。
 それは生と死とをひっくるめた社会性と言えるかもしれない。

  生老病死は、すべての段階でなんらかのかたちで他者の助けを得て成り立つ。他者には親や家族も含むが。
 つまり人間がひとりきりで生き延びることはほとんど不可能なのが人間社会なのである。野生の動物なら可能かもしれないが。

 生まれてから成長し老いて死に至る各段階で人は社会とかかわりを持つ。

 死について言えば、たとえば、葬儀、法要、何回忌、墓参りといったしきたりがあり、遺族をはじめとする縁者がかかわってくる。

 そうしたしきたりを無視することは実際上きわめてむずかしい。それこそ村八分を覚悟しなければならないだろう。

2. 天才とか有名人とかを除けばほとんどの死者は時間の経過とともに忘れられていくだろうが、不名誉なレッテルを張られた死者はなかなか忘れてもらえないかもしれない。死後のことだから死者本人とはかかわりがないものの、遺族など関係者には大きな影響を及ぼし続けるだろう。
 
 人間は生きているときに自分の死後のことを考えて行動することはあまりないだろうが、遺族に迷惑をかけないようにしたいと思う者は少なくないだろう。

 死後に名声が高まるという例もあるが、そういう願いを胸に臨終を迎える人間はあまり多いとは思えない。

 死は死者の歴史を通じて人間の社会においてかたちを与えられる。

 言い換えれば、生者が、それぞれの社会の固有のかたちで、死を取り扱うのだと思う。

20.『 死から見た生 』

1.自分の死を想定して、そこから生きている自分を眺めてみるというようなことをしてみると、生と死というものがより密接に思えてくるかもしれない。

 さらには、心身の能力が衰えて、十分な活動ができなくなった人間の生きる意味というような問いも浮かび上がってくるかもしれない。

 生きがいというのは、おそらく大多数の人間はあとから見出すもの、あるいは妥協の産物だろう。見つけられないままの人間だっているだろう。

 どうせ死ぬのだから、悔いのないように生きよう、というようなことがしばしばいわれる。

 そのとおりだが、悔いのないように生きることは実際はとてもむずかしいことだと思う。

2.余命いくばくもない人間がじっと病床に寝たきりで食事もトイレも自分では処理できずに最後の時を過ごしているというような場合に、その人間の生きる意味とはなんだろうか?

 命のある限りは生きるというのが人間に与えられた運命であって生きることそのものに人間の尊厳を見出すべきだと考えるのか、あるいは、あきらめて、その段階においては、もはや生きがいは失われて死ぬのを待つしかないと考えるのか?

 介護施設等で多くの高齢者を見るにつけ、人間とはなにか、人生とはなにか、生きるとはどんなことか、生きがいとはなにか、生きる意味はあるのか、人間の尊厳とはなにか、人間の幸福とは何か、等々多くの困難な問いに面食らう。

 ひとつだけ言えるとしたら、死を避けることなく、直視することは、(たとえ恐怖感に襲われることがあっても)、生きるということを見つめなおすというきっかけを与えるということだ。

 人生はシナリオのないドラマであり、答えのない問であり、始まりと終わりのあるものだ。

 普遍的な生き方の案内書はない。ひとそれぞれが自分で自分の生き方を見出すしかなく、予期せぬところで未完に終わるのが人生というものだろう。

21.『 死ぬまで生きるということ 』

1.死が間近に迫っている場合とある程度余命が限られている場合と明確な死期がわかっていない場合とでは、人間の生きる意識や姿勢に違いがあっても不思議ではない。

2.死が間近に迫っている人間の場合は、いかに死を受け入れられるか、安らかに最期を迎えられるか、が問題だろう。植物状態ならともかく、意識があって痛みが強いというような場合では、緩和ケアが重要な意味をもつかもしれない。医療関係者や家族などの協力もたいせつだろう。死を目前にしてじたばたしないでいられるのかどうかはよくわからない。

3.死が目前でないまでもある程度余命に限りがあると告げられた場合は、それなりの心の準備はしやすいかもしれない。やれるだけのことをやって最期を迎えられればやむを得ないというふうに思えるかどうか。やはり死期が近づいて来れば、上記2の場合と同様な心理状態に至るのだろうと思われる。

4.まだ死期が明確に示されていない場合はどうだろうか?
 年齢によって違うかもしれない。20歳以下なら、死は遠いもので、生きることへの関心で満たされているだろう。30代、40代でも死はそれほど身近なものではないだろう。50代になれば、少しは死というものを考えるようになるだろうが、それでも30年以上先のことだと思うだろう。還暦を迎えるころから、人生は最終段階に入るという意識を持ち始めるかもしれない。病気にも襲われる確率が高くなり、死というものが次第に近づいていると感じるようになるだろう。

 70代になれば、元気でいられればありがたちということで、次第に社会の第一線からは離れて自分の年齢というものを考えるようになるだろう。80代になれば、そろそろなにがあってもおかしくはないという心理は働くだろう。90代以上になれば、生きているのが僥倖といった感じになるのではないだろうか?

5.さて、死へのステップや死への意識はさまざまであるのせよ、多くの人間の死を振り返ると、生きている限りは、とにかく楽しいことやうれしいことや希望を持てることなど人生を前向きにとらえることがいいのではないかというように思える。絶望に陥った人間に笑っていろというのは酷なようだし難しいことだとは思うが、できうれば、楽しそうに笑って最期を迎えるのが理想的ではないかと思える。自分がはたしてどういう最期を迎えるかははなはだ自信はないにせよ。

22. 『 表現のほどよさとは? 』

1.人間のコミュニケーションの基本は言葉で伝えることである。
 表情やしぐさや映像等で伝えることもあるが、基本は言葉によるコミュニケーションである。

2.言葉はいつも使っているが、実際はとても難しいものだ。
 余計なことを言って傷つけたり、不愉快な思いや退屈な感じを与えることがあるかと思えば、言葉が足 らなくて相手に自分の意図や思いを正確に伝えることができないこともある。

3.おそらく、言葉を使う人間の性格や生まれ育った環境や自分なりに形成した価値観によって、言葉を どのように発したらよいかという方針が決まるのだろう。
  おしゃべりな人、無口な人、ほどほどのひと、いろいろいるが、必要なことを適時適切に表現できる 人は必ずしも多くはないし、また「適時適切」についての判断もひとそれぞれだから、一概にだれがど うかということを決めつけることも難しい。

4.たとえば、だれかが入院したとしよう。だれに連絡すべきかの判断は難しいだろう。手術の結果を伝 えるのも同様に難しそうだ。連絡をする立場の人間の判断によるということになるだろうが、連絡を受 けるのが当然だと思っている相手に連絡しなかったら、気持ちに食い違いが生じうるだろう。

 
5.契約や規則がない日常生活のさまざまな場面で、上記のようなコミュニケーションの過不足の問題は 頻発する。常識、良識、マナー、気配りといった分野については、言葉による表現のほどよさをどのよ うにして身に着けることができるのだろうか?社会や地域の知恵が求められるだろう。
 

23.『 なにかのために命を投げ出すことについて 』

1.死ぬのを恐れる人間が時としてなにかのために命を投げ出すことがある。
 我が国の歴史を見ても、切腹、特攻隊など社会的な強制による場合もあれば、三島由紀夫のように憂国 の情から起こそうとしたクーデターに失敗して自ら死を選んだ例もある。
  外国でも、政治や宗教に殉じる例も多く見られるようになっている。爆
 弾とともに自爆テロを敢行するいわゆる「スーイサイド・ボミング」などは
 典型的な例と言えるだろう。

2.個人的には死を恐れ死を免れたいと思いながら、他方、国家とか社会とか
 宗教とかのために尊い命を犠牲にしてもよいという相反する心理は人間には
 ありうることと言える。
  愛する者のために命がけで戦うという心理の延長線上には、なにか大義が
 あれば命を投げ出してもいいと思える人間のふしぎな心情が存在するような
 気がする。
  戦争が勃発するのは、政治的経済的利害の対立が限界を超えてしまっ
 たという場合が多いだろうが、そのような状況においては、愛する家族や仲間のいる国を守るために命 がけで戦うという集団的心理が働きやすいように見える。

3.かたちの見えない人間の心理や感情というものも、ある種のかたちによって影響されるということは 真理だと思える。尊敬する師の言葉に従ったり、法令による強制に従ったりする心理や自分の信念によ る行為やはずみでやってしまう英雄気取りなど実に多くのケースがありそうだ。
  個人の死とは別に、集団の中での死という捉え方も必要な視点だと思える。心理学や社会心理学とい った学問的アプローチも歴史的アプローチに加えて重要な意義を有すると思う。
  犬死を防ぐための知恵は人類全体で取り組む価値のあるテーマであることは言を俟たない。

24.『 大義名分ということ 』

1.人間には生きる意味があるかどうかと正面から問われれば答えに窮する場合もあるだろう。後付けの理屈はいろいろ言えるが、そもそも『生まれてきてしまった』人間には生まれるかどうかの選択権がないのだから、答えのない問いだと言えよう。

2.人間が生きるということについてどんなに虚無的な捉え方をしても、生きている以上は腹も減れば眠くもなりさまざまな快不快に直面する。理屈以前にさまざまなことに追いまくられ対応を迫られる現実がある。そのうち、おいしい食べ物や酒、高級な衣服、豪邸、恋愛、スポーツ、芸術、旅行など多くの楽しみを発見して、生きているのも悪くはないと考えるようになるかもしれない。

3.ところで、衣食足りて礼節を知る、と言われるように、欲望に突き動かされて行動している段階から、自分の行為が正義や正当性に則っているかどうかを気に掛ける段階へと移ったとき、どのようにしてそれを判断するかは重要な問題となる。

 政治、経済、社会、文化に加えて、歴史、民族、宗教、などの制約を受けつつ物事を判断せざるを得ない人間にとって、絶対正義は見出しがたいだろう。たとえば、テロとの戦いでテロリストを軍事的作戦により殺戮することは正義だろうか?テロリストのサイドから見ると事情は違って見えるかもしれないし、異なる正義があるかもしれない。

 正当防衛でひとを殺すこともある。恋人を殺された仕返しに犯人を殺すことはどうか?現行刑法では正当化されない。

 なにかをするときにはそれなりの理由があるが、殺し合いのような極端な場合は、どこかで正当化という過程が存在することが多い。
 人間は「大義名分」を求めることで良心の呵責なしに、他人を攻撃することができるのだろう。

 人間の心理と行動は不可思議なものだと思う。

25.『 小さな楽しみの発見 』
                  
1.老いるにつれて心身に障害がみられるようになると、在宅にせよ施設入居にせよ、なんらかの手助けや介護が必要になる。

 障害の程度はひと様々なので、介護サ-ビスもそれぞれに応じた内容が求められる。

2.費用負担の問題は大きな比重をしめるだろう。裕福な人と貧しい人と中間の人とで、問題の処理のしやすさが変るだろう。

 仮に、最低限のサービスを受けることができて、一応毎日の生活を送っていける場合を想定しよう。

 そうした場合に、忘れてはならない視点が、毎日なんらかの楽しみを見出せるかどうかということである。

3.小さな楽しみの例を挙げてみよう。

 ①書道に親しむ。
 ②絵を描く。
 ③新聞、雑誌、本などを読む。
 ④テレビを見る。
 ⑤花を活ける。
 ⑥歌を歌う。
 ⑦おしゃべりをする。
 ⑧電話をする。
 ⑨俳句や短歌を作る。
 ⑩散歩する。
 ⑪音楽を聴く。
 ⑫おいしいものを食べる。
 ⑬花を見る。
 ⑭風呂に入る。
 ⑮リハビリ体操をする。
 ⑯手紙をやりとりする。
 ⑰できればPCにアクセスする。

 人間の暮らしは、小さなことの集合である。食事、トイレ、睡眠を基礎として、こまごまとしたことを繰り返す。仕事を持たなくなった人間は特に時間の使い方が大切になる。

4.心身の状態や家庭環境などに左右されながらも、死ぬまでの時間を有意義に楽しく過ごしていくことが望ましいと思う。そのためには、日々小さな楽しみを見つけることが大切だろう。

 本人が自分で見つけられるのが理想だが、そうでない場合は、周りの者が手助けすることが求められる。

 話しかけたり、要る物を尋ねたり、一緒にできることを探したり、今後のスケジュールを相談したり、なんでもいいから、日々の暮らしが楽しくあるいは少なくとも苦しくも辛くも悲しくもないようになるように手を差し伸べることが望ましい。

 死期が迫った人間でも、死のことばかり考えているわけにはいかないし、そうあるべきでもないし、周りの者もまたそれは避けたいと思うだろう。

 だれでも生きている間は、幸福になりたいと思うだろうし、楽しく過ごしたいと思うだろう。
 そういう方向性をたいせつにしながら、人間が最期を迎えることができたらいいと思う。

26.『 生きることへの反転 』

1.死というものを見つめても悟りが開けるとは限らない。そこで、死を突き詰めることを一時やめるという選択もある。となれば、日常のわずらいへと視点は帰って行き、いかに生きるべきかというこれまた答えの見つけにくい問に直面する。

2.「生きる意味はなにか?」とか「生きる目的はなにか?」とか「生きる喜びとはなにか?」とかいう問いについては、すでに他の項目として取り上げたことがあるが、死を考えた視点から転じて生を見直すという視点は新しい視点だと言えるかもしれない。

3.命に係わる病を経験したひとびとの手記などを読むと、生きていることのかけがえのなさを感じて残された時間をたいせつに生きたい、というものが目立つ。もちろん、絶望して、生きていてもしようがない、と感じながら生き続けている人や、苦悩や錯乱の中で日々を送る人や、植物状態になってしまった人など、前向きの捉え方をする人ばかりではないだろう。
 
4.死を身近なものと感じたことのない多くのひとびとにとっても、死を身近に感じざるをえなかった経験を持つ者の生の捉え方や生き方は参考になると思う。
 人生には答えのない問が多いというのが真実だろうが、多くのひとびとの生き様や感想や経験談は貴重な教科書になりうると思う。

5.所詮、人間の寿命は長くても100年程度だ。平均すれば80年ぐらいだろうか。男女差はあるようだが。

 だとすれば、いつかは訪れる死にいかに向かい合うかということもタイミングを見ながら考えておく必要はあるだろう。結論はなくてもやむをえないと割り切って。

 多くの人々は、生死のことを考えるいとまもなく日々の雑事に追われていることが多いかもしれない。むしろ、深刻に思い悩む時間が多すぎない方がいいのかもしれない。

 6.死に近づきながら、そのまま死に至るのではなく、生き延びて生へと反転することができれば、不幸中の幸いということかもしれない。

 高齢化社会にあって、多くの高齢者が重篤な病気を経験することがふえるだろう。そうすれば、一人の人間が、生き延びることを繰り返して、ついには死を免れなくなるというようなケースがふえることは想像に難くない。

病気と闘わないという考え方の人間もいるようだが、多くはなんとか病気と闘って克服して少しでも長く生きたいと思っているように見える。

 哲学的なアプローチは難しいが、現実を観察するということに徹するだけでも人間の人生や生死というものが少しは冷静にとらえることができるかもしれない。あるいは、本当に死期が迫ればそんな悠長なことは言ってられなくなり、泣きわめくことができるだけかもしれない。

 いずれにしても、生死について明確な答えなど期待できないのだと思う。

27.『 精神の自由の確保 』

1.さまざまな価値観を有する個人、地域、社会、国家等がこの地球上には存在するが、それらがいかにして価値観の多様性を相互に認め合い尊重し合い平和的に共存共栄しうるかということが価値観の研究の最大のテーマである。

2.価値観は多様だが、価値観が形成されるプロセスも多様であり、複雑である。親兄弟や地域住民、学校の先生、職場の同僚、友人知人等の影響も無視できない。
 たとえば、最近の大きなテーマである原子力発電所の建設や稼働を認めるべきかということについては、国民の間で大きく意見が分かれている。
 このように重大で複雑な問題について自分なりの考えや態度を決めるのはやさしいことではないが、どのようにして自分の意見を持つべきかということは一般論として議論するのが難しい。
 しかし、大小さまざまな課題がるときに、個々の課題についてきちんと考えを整理しようとする努力はたいせつだ。場合によっては、忙しいとか興味がないとかで、自分なりの意見を持つことを放棄するひとびともありうるだろうが。
 人生を有意義に生きたいと思う時、限られた時間をいかに有効に使うかは重大事であり、ひとそれぞれに重要な事柄は違うだろうし、それはやむをえないことだろう。
 「地震国である日本に原発を作り稼働させることにはそもそも無理がある」という意見から「エネルギー資源の乏しい日本が世界で生き延びていくには英知を結集して安全な原発を建設稼働させる必要がある」という意見まで、幅広い意見がある。それぞれの論拠を十分に吟味したうえで最後は政府が決断すべき問題だと思う。

3.多くのひとびとは、平和を愛し、安全で豊かな暮らしを望むだろう。だが、それをどのように実現するかの方法論は千差万別だ。だが、いかなる方法論をとろうとも、虚心坦懐に、現実を見つめ多くの意見に耳を傾けた上で判断すべきである。はじめから、「反対だ」と決めつけたのでは、まともな議論にはならない。右翼だとか左翼だとか、権力だとか反権力だとかいうのが好きな連中もいるが、そんなレッテルを張っても問題は正確に見えては来ない。自分の眼で見て自分の頭で考えて結論を出すべきだ。そのあとは自分の意見の反映に努めて、実現すればよし、実現しなければとりあえずその結果に従う。同時に、次の機会に向けて自分の意見を反映させるための準備を進めるということだろう。
 常に偏見から自由になり、誠心誠意、科学的なアプローチをして客観的な判断を下すことが重要だ。
 個人レベルで、また集団レベルで、国家レベルで、世界レベルで、精神の自由が確保されることが望まれる。

28.『 遺族の立場 』

1.自分が死を迎えるという観点から縷々述べてきたが、遺族の心身のダメージもまた甚大であり、どのように考えたらいいかを整理しておくことには大きな意義があるだろう。

2.遺族と言っても、さまざまなケースがありうる。たとえば、年齢的に成人して経済的に独立しているような場合なら、悲しみを癒すことが最重要課題だろう。遺産相続というような手続きはあるにしても。

 問題は、遺族に未成年がいて、経済的に苦境に陥るというような場合だ。
 たとえば、父親が若くして亡くなり、母親にも収入がなく、遺産もなく、援助してくれる親戚もいないというようなケースでは、自助努力は選択肢としてあるものの、最終的には、公的な生活保護に頼るということになるだろう。

3.自分が死んだ場合に愛する遺族が苦境に陥らないような備えがあることが望ましいと言えよう。生命保険は有力な方法だろう。専業主婦もまた、まさかの時のために働けるような資格や技能を身に着けておければベターである。人それぞれにいろいろな事情があるだろうから、そう簡単にはいかないだろうが。

4.それなりの財産がある人間がある程度の年齢になれば、遺族が財産相続で争わないようにしておくための準備もしておくのが望ましいだろう。遺書を書き残しておくということは重要なことだと言えよう。

5.自分がなんらかの事情で植物人間になったり、機器の力で延命措置が取られている場合に、法的に許される範囲で死を選択するという意思を明確に表明しておくのも一法だろう。

6.葬儀や埋葬、遺品の処分等についても意思を明確にしておくのもよいことかもしれない。ただし、遺族がどれぐらいそれを守れるかは、その家族をめぐる諸事情や環境によるものと思われるが。

7.要するに、死は誰にでもいつでもやってくる可能性がある以上、死を前提にした対応策をあらかじめ用意しておくことは推奨されるべきだろう。

29.『 故人の残したもの 』

1.一人の人間が一生の間に残すものは、様々だ。個人差もある。その遺産(有形・無形のもの)はその人間が死んだからといって消滅するわけではない。良くも悪くも、死後にまで様々な影響を与えることになる。

2.個人の残した有形無形の遺産としては、たとえば、文字通り相続財産がある。財産があれば、遺書などで分割方法を明示しておくと遺族の間に争いが起きなくていいだろう。

 ほかには、結婚関係や子供などの関係がある。配偶者や配偶者だった者、子供、その他の家族との関係などが考えられる。。
 結婚や離婚を何回かして何人かの子供がいる場合などは、相続関係も複雑になるだろう。

 また、親類関係も生前の付き合い方によって遺族に影響を及ぼすだsろう。

 さらには、仕事関係の人間関係や功罪が、遺族にプラスマイナスの影響を及ぼすこともあるだろう。

 そのほか、交友関係、地域との関わり、ボランティア、表彰歴、犯罪歴、趣味などがいろいろなかたちで遺族に影響を与えることもあるだろう。

3.以上のように、一人の人間が生きることはさまざまな関係を構築する。自分の死後のことまで考えて生きることは難しいかもしれない。遺族へ悪い影響を与えないように努力して生きる人もいれば、傍若無人に生きる人もいるだろう。

 いい評判は遺族にはプラスに働き、悪い評判はマイナスに働くだろう。
 人間という者は生まれて死ぬまでのみならず死んだ後までもこの世に影響を与え続ける因果な生き物だとつくづく思える。いかに生きるか、それは個人の問題だろうか?それとも社会の問題だろうか?それらを超えた問題だろうか?






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by nambara14 | 2015-05-23 19:44 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)


30.『 歴史認識について 』

1.日本にとって諸外国との関係は最大の重要性を持っている。特にグローバル化が急速に進みつつある現在の国際社会においてはそう言える。とりわけアジア諸国中でも中国と韓国との関係は特別に重要である。
 地理的に近く隣り合っているという状況は当分変わりようがないので、日中・日韓関係をいかにうまく築いて行けるが、我が国のトップにとって最大の関心事であるだろうし、すべての国民の願うところである。
2.人類の歴史を振り返れば、まさに戦争や内乱の連続であり、裏切りや憎しみの歴史である。時代により地域によりあるいは人種や宗教などにより多様性はあるものの、侵略や略奪の繰り返しであったことは疑いがない。
 法制度についても権力の統一とともに整備が進み実効性も上がってきた。
 国際連合憲章といった国際法や国連軍といった仕組みも導入されて、国際的な秩序維持に向かって各国が協力し合おうという努力も傾けられてきた。
3.平和を願う思いは万人に共通なものなのに、現実にはなぜ争いが減らないのだろうか。永遠の謎であり、避けられない課題なのだと言う気がする。
 特に、太平洋戦争にかかわるさまざまな行為が批判の対象になることが多いので、これを主としてとりあげてみたい。このことについては、すでに多くの歴史学者や戦争体験者や被害者などが膨大な資料収集をし、証言をし、批判をしてきているので、学問的に言えばそれらを踏まえた議論をすべきであろうが、ここでは、現時点における自分なりの感じ方を述べるにとどめたい。
4.歴史はずっとつながっているが、ある時点以降だけを取り出して論じることはいかがなものか?
 日本の敗戦国としての国際法的位置づけは、無条件降伏、占領、東京裁判などを経て、サンフランシスコ講和条約の締結を基本として考えることができるが、日韓間については、日韓基本条約(昭和40年(1965年)締結)、日中間については、日中共同声明(1972年)及び日中平和友好条約(1978年締結)によって明確になっており、たとえばその中で日本に対する賠償金の請求権は放棄されている。
5.国家間においては、以上のように法的な処理がなされているが、それでも追加的な請求や主張がなされることがあり、難しい対応を迫られることになる。
 たとえば、強制連行とか大量虐殺があったかどうかといった事実の有無によって立場が異なってくるようなケースにおいては、いわゆる歴史認識の相違がなかなか埋まらず、容易に解決することは困難である。
 また、民間人による行為によって被害に遭った人々について民間人に対して損害賠償を求めうるかどうかというような議論もなされている。
 6.法的な責任の有無を判断するには、違法な行為がなされたという事実を立証する必要があるが、立場の異なる者同士がどんなに議論をしてもなかなか意見の一致を見ないという現実がある。
 被害者としての意識は、法的なアプローチだけでなく、道義的なアプローチをも求めることになるが、賠償や謝罪といった法的問題や感情問題が絡み合うので容易に解決を見ない。
7.過去の国家間の侵略や植民地化の歴史を振り返れば、先の大戦中に日本が行った行為だけが非難されるのは不公平だという見方もあるだろう。戦後処理は法的な面だけではなく、各国の国民感情や政治情勢などによっても影響を受けるので、戦後長い歳月が経過してもすっきりと処理済みになることは困難だ。特に被害者意識は根強くさまざまなかたちで種々の分野で顔を出すので取り扱いが難しい。
 それでも、不幸な過去を正確にとらえて反省すべきは反省し将来に向かって平和な国際関係の構築に向けて各国が理解し協力し合うことが不可欠だと思う。

31.『 犠牲者の遺族 』

1.戦争や災害や事件、事故など人類の歴史には多くの痛ましい出来事があり、その犠牲者も膨大な数に上っている。特に犠牲者の遺族が生存している場合には、その出来事の取り上げ方も注意を要する。

2.たとえば、戦争の犠牲者の遺族がいたとしよう。その戦争について語ることはむずかしい。正義の戦争だとか誤った戦争だったとか意見をたたかわせることさえ、その気持ちを傷つけるおそれがあるとき、根掘り葉掘り話を聞いたり、戦争責任を追及したり、特定の人間を弁護したり批判したりすることは避けたい。

3.真実を求めようとする科学的な態度は必要だが、遺族の立場になれば、ふれられたくないことやあいまいなままにしておいてほしいこともあるだろう。

4.ある出来事の詳細を明らかにしようとしたり、それに関する責任関係を明確にしようとするとき、複雑な人間関係が浮かび上がることがある。当人がそれでよいと言うのならよいが、嫌がっているときには、なんらかの配慮が必要となるだろう。

5.最近における、事件・事故、自然災害などの被害者の遺族ともなれば、心身共に大きなダメージを受けているだろうから、とりあえず立ち直りを支援することがたいせつだろう。

6.それとともに、被害者は、加害者がだれであって、どういう責任を負うのかを追及したくなるだろう。

7.関係者がすべて亡くなってしまっているような過去の出来事なら、それなりに冷静に事実を調べ、事実関係を報告することも、比較的容易だろう。
 しかし、関係者の多くが存命中であるような段階では、それらのひとびとの感情を傷つける恐れがあるかないかをチェックすることが必要だろう。

8.デリケートな立場や感情や意識を持つ人々がいるときも、別途、歴史的な研究は続けられるが、その成果の発表内容や公開範囲やタイミングなどには十分配慮することが必要だと言えるだろう。
 
32.『 社会心理と個人の心理 』

1.個人個人は極めて穏健で冷静で合理的な判断と行動をしても、団体として行動するときはまた別の要素が加わる。

 群集心理といわれるものもその典型的な例だろう。
 ある集会やデモに参加しているときに警察から制止されて抵抗しもみあって
暴力沙汰に至るというようなことがある。個人では暴力をふるうなどということはまずない人でも群衆としては過激な行動に移すこともある。

 団体にもいろいろな段階があり、大きくは国家ということになる。
 ひとつの国がなにかを決定する仕組みの代表が、三権分立であり、国民から見れば、代表的なのは国会議員の選挙である。選挙は社会心理が現れる。時とともに変化し与党と野党も入れ替わる。議員も入れ替わる。内閣も交代する。
変動する不安定な社会心理ではあるが、その結果は法的な根拠と権限を持つ決定的な権力システムとして機能する。

 平和をめざし、基本的人権を尊重する民主的な政府であってほしいが、それをもたらすのは不安定な国民の心理である。不安定な社会心理というものが安定性と堅実性が求められる国家権力を左右するわけである。

 ギリシアにおける統治制度などについて、民主主義について衆愚政治であるとの指摘がなされたりするが、だからと言って専制統治がすぐれているとも言えないだろう。多数決という仕組みも絶対ではないものの、現在までの人類の経験と知恵が見出したひとつの選択であると言えよう。

2.社会心理学という学問分野もあるとは思うが、人間の集団行動についてまだまだ十分な科学的解明がなされているとは思えない。

 過去の例を見ると、演説が巧みで、人心掌握術にたけ、強大な独裁権力を手中にし、苛酷な統制により国民を不幸に突き落とした為政者はかなりの数に上る。

 多くの場合は、何らかの軍事的、外交的、政治的、経済的な不安定や社会不安などにより人心が荒廃しているような状況においてナショナリズムが支持を得て権力を掌握したようなケースが多い。

 振り返れば、なんと愚かなことをしたのか、ちょっと考えればおかしいとわかるようなことを防げなかったのか、というような気持ちになるだろうが、実際にはそんなことが起こってしまったのである。

 社会心理というのは、暴走するおそれを秘めており、いったん火が付けばそれをコントロールすることが難しくなることがある。我が国でも総選挙や参議院選挙などの推移を見れば、そのような国民の心理の不可思議な変化を痛感するだろう。

 社会心理が国を危険な方向へ向かわせることがあるかもしれない。そういうとき、いかに安全な方向へ舵を切ることができるかは重大な課題である。今のところは、確実な方法が見当たらないので、基本的には政府を信頼しつつ、良識ある個人が積極的に発信し、訴えるというような地道な行動を積み重ねるということぐらいしか考えられない。

 いすれにしても、世界各地でさまざまな紛争が起きている現実を前にすると、少しでも紛争解決や未然防止の方策が見出されること及びそれが実施されることが望まれる。

33.『 権力は悪か? 』

1.「権力とは何か?」ということはさまざまに語られうると思うが、ここでは、それなりの見識を持ちながら、なにかにつけて、「反権力」「権力批判」を口にする人々が見受けられるので、「権力は悪か?」という素朴な問いを発してみた。

2.国家の支配体制ということについては、歴史的には、いろいろな形態があって、専制君主の独裁制とか議会制民主制とかが代表例であろう。フランス革命とかに代表される革命は、支配者に抑圧された民衆の蜂起というパターンが多い。
日本国憲法では、主権在民、基本的人権の保障、国家の統治機構等について規定されているが、たしかに、ここにも権力者による国民の権利利益の侵害を防止しようという考え方が読み取れる。それは歴史の流れを踏まえた内容であり、権力者は往々にして圧政を行ったり理不尽な負担を求めたり、権利を侵害したりするおそれがあるという前提で制定されたものであると言ってよいだろう。ただし、権力が手の付けられない暴君であるとまでは捉えているわけではないと思う。

3.ひとつのヒントは、マルクス主義に求めることができるかもしれない。資本家による労働者の搾取は、暴力革命によってしか実現されないという当時の認識が、一部の人々の間においては現在なお生きているのである。
 資本家が権力を握って労働者を搾取するという構図は、今日では、企業が政治家を操って国民をしいたげるというように読み替えられるのかもしれない。
 権力者が弱者である国民を抑圧するという捉え方は、果たして今日でも正しい見方であろうか?科学技術の進歩や生産性の飛躍的向上等によって経済社会や国民の暮らしは、百年前、二百年前と大きく変わってきたと言えないだろうか?
 
4.好むと好まざるとにかかわらず、現代の国家は統治機構が必要であり、そのための権力が不可欠である。だれが権力を握るかどうかは別として、権力が合法的に行使されることが求められる。その目的は、国民生活の幸福の追求である。現在の統治機構が最適かどうかは断定できない。時代の推移によっては、よりよい仕組みに変更されることがありうる。
 それでも、長い歴史の教訓を踏まえて、暴力による解決を避けようとする現行の憲法や法制度は、一応進化したものだと言えるだろう。
もし統治機構がなく、権力がないとしたら、紛争解決ができなくなり、国家は混乱に陥ることは火を見るより明らかだ。権力は悪用されないという保証はない。だが、権力はある意味で必要悪である。国民が知恵を出し合って悪用されない仕組みを作り出して行くべきものだと思う。

5.結論としては、「権力は国家の運営に必要不可欠だが、悪用されないように知恵を絞る必要がある」ということではないだろうか?

34.『 偉人伝 』

1.人間の感情に訴えるものにはいろいろあるが、文学もその代表例のひとつだろう。

 文学は登場人物が欠かせない。歴史書なら人物や出来事の客観的な記述で終わるが、文学となると、登場人物の考えや行動を記すことによって、ひとつの時代の雰囲気や状況を生き生きと描き出すことができる。
 
 文学の登場人物は様々なタイプがありうるが、伝記は特定の人物に焦点を当てて描くので、人物像が明確に浮かび上がりやすいし、偉人伝ともなればなにかの分野で傑出した記録を残したと言う点でさらに魅力が増すことになる。

2.偉人にもいろいろなジャンルがある。政治家、経営者、軍人、哲学者、作家、音楽家・画家等芸術家、医師、発明家、様々な分野の研究者・学者・技術者・職人、俳優、歌手、芸能人、スポーツ選手、社会福祉活動家、教育者、探検家、料理研究家、農林水産業、種々の製造業、商社、金融業、建設業、建築業、種々のサービス業その他諸々。

 偉人伝を読むと、多くの場合失敗や困難を乗り越えての成功談だから、わくわくどきどきしながらも安心して読むことができる。

3.個人的な経験から偉人伝の例を何人か挙げれば、

  外国人としては、

  哲学者:ソクラテス
  文学者:シェークスピア
  音楽家:バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン
  画家:レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ
  スポーツ選手:ベーブ・ルース
  科学者:ガリレオ、ニュートン、キュリー夫人、アインシュタイン
  医師:シュヴァイツアー、
     など。
  
  日本史上の人物としては、信長、秀吉、家康など。

 いずれも評価が定まった人物の伝記だから、多少美化されたとしても抵抗なく受け入れられる。同じ一人の人間としてそんなに活躍した者がいたのかと思うと勇気がわいてくる。

 もっとも時々偉人だったかどうか再評価がなされる例もないではない。
 野口英世などがその一つだろう。大きな功績とともに重大な欠点が指摘されるに至っている。

4.これまでにさまざまな分野でさまざまな発表がなされてきており、人類の知の蓄積は膨大な量に達している。それぞれに有用であり、価値があると言えると思うが、人間が真の意味で理解し受け入れ感動できる情報の形は、人間が登場して思考し行動する文学のかたちが最強であり、抽象的な学術書では届きえない人間の心を揺さぶることができると言えると思う。

 だれを偉人と考えるかは、人それぞれでよいと思うが、偉人と言える人間がいかに生きたのかをたどることにより、自分が生きていくうえでの前向きな気持ちやヒントを得られればいいと思う。

 それが、偉人伝の効用ということだと思う。
 
35.『 自 伝 』

1.偉人伝は多くの場合本人以外のだれかが書くだろう。それに対して「自伝」は、文字通り本人が書くあるいは口述筆記や材料を提供してだれかが代筆するといった具合に、本人の関与の度合いが比較的大きいと言えるだろう。

2.自伝のよさは、当人しか知らないことがあれこれ述べられるところにある。自慢話になりがちだったり、事実関係が不正確であったりするという短所もありうるが、自分のことを自分が語るという説得力をある程度考えれば、自伝は貴重な資料的価値を有するといえるだろう。

3.自伝も最近ではだれでも比較的かんたんに出版できるようになったので、著名人や文学者でなくとも自伝を書くという例が多くみられるようになっている。限られた家族や友人知人にしか読まれなくてもそれなりの意義はあるだろう。

4.日記や手紙も自伝と似た部分がある。著名人の日記や手紙はしばしば書物として出版されたり、展示されたりする。著名人の手書きの筆跡や便せんなどが個人的な親近感を募らせる。必ずしも文学的価値が高いとは言えないものでも、歴史的な価値などがある場合もあるだろう。

5.日経新聞朝刊に連載されている「私の履歴書」は、一月交替で各界の著名人が記す自伝的な文章である。成功者の自慢話という性格が強いことは否めないが、普段はうかがうことの知れない個人的な思いやエピソードなどが率直に語られるという点では、彼らの人間臭さや素顔らしいものが感じられて好ましいものだ。

6.古今東西、数多くの自伝が残されていると思うが、たとえば、「福翁自伝」などは、日本人が書いた自伝の中では特に有名で内容もすぐれており、今でも広く読まれているものである。すぐれた自伝は、読者に生きるためのヒントを与えてくれる。偉人伝と同様に生きることには意味があることを示唆してくれるものだと思う。多くのひとびとが自伝を書いてほしいと思う。読者がその中から自分にとって参考になるものを選んで読めるように。

36.『 哲学の役割 』

1.自然科学や社会科学のめざましい発展がみられる現代社会においては、哲学の役割は相対的には小さくなったと言えよう。たとえば、アリストテレスのようなあらゆる分野に通じた偉人がいた時代と現代とでは様相がかなり異なっていると言えるのではないだろうか。 

2.数学、物理学、相対性理論、量子力学、分子生物学、医学、工学、化学、情報工学その他さまざまなジャンルの学問分野があり、それぞれに最先端を行く研究者たちが成果を競っている状況にある。
 従来は、謎と思われていたことも、徐々に明らかになっていることがあまたある。宇宙の成り立ちや、四つの力、素粒子、生物の進化、遺伝子、DNA等が代表例である。
 それでは、すべては明らかになったのだろうか?どんなことについてもアプローチの仕方にある程度の見当がついたのだろうか?
 最近における科学技術の目覚ましい進歩は多くの謎を解明したものの、まだまだ分からないないことだらけだというのが正確な捉え方ではないだろうか?

3.宇宙のはじまる前はなにも無かったのか?
宇宙の未来はどうなるのか?膨張し続けてやがて消滅してしまうのか?
宇宙が消滅してもまた新たに誕生するのか?宇宙はほかにもあるのか?
時空はほんとうにゆがんでいるのか?宇宙の外側にはなにがあるのか?
4つの力の統一理論はいつ完成するのか?超弦理論は有望なのか?いつごろ完成するのか?等素朴な疑問がいろいろわいてくる。
 そもそも地球上に生きる人間の常識は真の意味で科学的裏付けが得られているとは限らないだろう。
 これまでに明らかになっていないことを数え上げようとすればきわめて膨大であり、無限に近いと憶測できる。

4.哲学の出番のひとつは、そういうわかっていないことが無数に存在するということを常に指摘し続けるという役割として求められる。
 たとえば、ずいぶん学問が進歩して大概のことなら調べられるようになったと思いがちな多くのひとびとのために、まだまだ世界はなぞだらけで、当分の間はすべてが解決されるなんてことはあり得ないだろうという認識をしてもらっておくということである。

5.あるいは、なにが正義か?なにが罪か?なにが悪か?真善美とはなにか?生きる意義はなにか?死後はどうなるのか?等の倫理や宗教的な問いもまた、哲学が扱うことになると思われる。
 科学は観測を通じて宇宙や生命を把握しさまざまな事象を説明する理論は構築するが、なぜ宇宙や生命が誕生したのか?という問いには答えきれていない。哲学は、人間社会に過剰に介入すべきではないが、今日においてもなおその重要性を失ってはいないと思われる。

37.『 宇宙は論理的なのか? 』  

1.現在、多くの学問において使われている数学的論理は、本当に正しいのだろうか?  1+1=2とか3×4=12といった簡単な計算から、複雑な方程式の解法まで、抽象的にも現実具体的にも、もっともだと思わせる論理の体系として数学的論理は揺るぎのないものとなっている。だが、人間の脳は非論理的な思考をしないと言い切れるのだろうか?宇宙の構造は数学的な論理で説明しきれるのだろうか?

2.宇宙の始まりや変化の歴史の話を聞くと、一体、宇宙というのは合理的な数学的論理によって説明しきれる構造を持っているかどうか疑問を感じるようになる。現代まで営々と築かれてきた数学や物理学の体系は、宇宙の構造が論理的に説明できるものだと信じていることを基礎として成り立っているように見える。
 仮に、宇宙の構造が無秩序で非論理的なものだとしたら、ひとつのモデルが当てはまらなくても気にする必要はない。統一理論もなくてもかまわなくなる。
 人間の脳が論理的だと思うことが、経験的に獲得された論理だとしたら、未知の脳の働きだってあるかもしれない。
 たとえば、人間の記憶は、時間とともに変化するらしいが、多くの人間社会の仕組みは、記憶が確かで変わらないものだという前提で作られているという気がする。犯罪の取り調べや裁判所での証言などでも、人間の記憶がころころ変化しないという前提で行われているように思えるし、偽証罪などもそういう前提がなければ追及しづらいだろうと思う。

3.人間がなにかを考えるときには、脳が働いているのだから、脳の働きが明確になればなるほど、人間の思考の論理性というものもより正確にわかるようになるだろう。
 当面、学問研究あるいは科学技術の世界においてこれまで得られた論理的に整合のとれた体系を否定したり疑問を持つことにはあまり意味がないかもしれない。
 だが、長い目で見れば、多くの学問体系の正しさを検証する論理性というものが、人間が作りげてきた便宜的なものであって、宇宙や人間存在のすべてを説明できるものではないかもしれないという可能性は持ち続けるべきだと思う。永遠に解決されない謎であるかもしれないにしても。





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by nambara14 | 2015-05-23 19:40 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)



38.『死についての教育』

1.死は忌まわしいことなので、正面から向かい合うことがはばかられるという事情もあって、死についての教育は体系的には行われにくいのが現実だろう。
 学校教育でも社会教育でも、死をどのようにとらえたらよいのかという授業や講習の場が用意されているとは言えないのではないだろうか?
 もちろん、望まれない機会や情報が積極的に提供されないのは当然かもしれない。
 仮に、そのような教育をするとしたら、どのような要素を考慮しておいたらいいのか、それを考えてみるのも意義のあることだという気がする。

2.学校教育では、子供たちへのショックの大きさを考慮すれば、それほど突っ込んだ内容とするのは適切ではないだろうから、たとえば、
 ・生物の生と死
 ・人間の寿命
 ・出生届けと死亡届
 ・葬儀や宗教
 ・墓地
 ・遺言や相続
 ・法要など
 の内容を、小学校、中学校、高校、大学といったレベルに応じて教えるというのはどうだろうか?

3.社会教育では、成人を対象とするので、もうすこし具体的な内容を話してもよいと思われる。
 ・死にいかに立ち向かうか
  (恐怖感への対応、覚悟、諦念、悟りなど)
 ・死後の世界
  (宗教、科学、世間など)
 ・重篤な病への対応
  (医療・介護、施設、介護従事者の資格制度、在宅、家族など)
 ・延命装置の取り外しの考え方
 ・ホスピス
 ・その他の項目=学校教育よりは詳しく教える必要があるだろう。
 (出生届け、死亡届、葬儀、宗教、墓地の購入、管理、遺言、相続、法要等)

4.「病気の種類ごとの解説書」や「冠婚葬祭」などについてはさまざまな書物が出版されているが、死について一冊にまとめた書物はあまり見当たらないと思う。そういうガイドブックがあると便利だと思うが、商業的には難しいのだろうか?上手なタイトルを考えて手に取りやすい本作りをすれば購入しやすくなると思われるのだが・・・。
 
39.『 人間ガイドブック 』への試み

1.死についての体系的な教育とそのための教材の必要性を認識すれば、そ
れを具体化したいのが人情だろう。

2.死についての教育体系としては、一例としては、
①幼稚園向け
②小学校向け
③中学校向け
④高校向け
⑤大学向け
⑥大学院向け
⑦社会人向け
⑧青年向け
⑨壮年向け
⑩老年向け
⑪男性向け
⑫女性向け
⑬重病人向け病人など
など、成長段階や年齢や重篤な病気に冒されている死期の迫り具合など
に応じた教育を施すのが望ましいと考えられる。

3.教材の構成としては、一例として、次のようなものが考えられる。
①人間の誕生
②人間の成長
③人間の教育
④人間の健康
⑤人間の職業
⑥人間の男女関係
⑦人間の家庭
⑧人間の社会生活
⑨人間の倫理
⑩人間の紛争
⑪人間の生きがい
⑫人間の死
⑬その他

40.「  子供たちのための、『 ひとの一生とはなんですか? 』 」(試作)
                                                 
1.生まれる

お父さんのおたまじゃくしがお母さんのおなかの中の小さな卵に入ると赤ちゃんのもとができます。
赤ちゃんのもとは10月10日たつと大きくなって、お母さんのおなかの中から外へ出てきます。赤ちゃんの誕生です。

2.育つ

はじめは寝てミルクを飲んで泣くだけです。
1年もすると立ち上がって歩けるようになります。
ごはんもやわらかいものがだんだん食べられるようになります。
2年もすると言葉がしゃべれるようになります。

3.保育園や幼稚園

小学校に入る前は、保育園や幼稚園に通います。

4.小学校

6歳になるといよいよ小学校へ通います。
いろいろなことを学び始めます。

5.中学校

12歳になると中学生です。

6.高等学校

15歳になると高等学校へ行くひとが多いです。

7.大学

18歳になると大学にはいったり、就職したりします。

8.就職

高校や大学を卒業すると就職します。
働いてもらったお金で生活します。
社会のためになる仕事ができたらしあわせですね。

9.恋愛

ひとを好きになることがあります。

10.結婚

とても好きになると結婚します。

11.出産

  赤ちゃんが生まれます。

12.家族

  お父さん、お母さん、兄弟、姉妹、おじいさん、おばあさんなどの家族ができます。

13.成長

 子供たちも大きくなると独立します。

14.老化

 だんだん年をとると頭も体も衰えます。
 ほかのひとの助けが必要になるひとも多いです。

15.病気やけが

 ひとはいろいろな病気やけがをします。
 病院でお医者さんに診てもらって、手術を受けたり薬をもらったりします。
 なおらない病気にかかることもあります。

16.死亡

  最後にはひとはだれも死にます。

17.葬式

 亡くなったひとのためにお葬式をします。

18.墓

 亡くなったひとの骨や灰をお墓におさめます。

19.お墓参り

 亡くなったひとをしのんでお墓参りをします。

20.くりかえし

 みんな生まれたときは赤ちゃんです。成長すると大人になりますが、だんだんお年寄りになって、最後には死にます。
 
㉑生きる

 みんな最後にはこの世からいなくなってしまいます。
 だから、みんな生きているうちにいろいろなことをやりましょうね! 
 
41.「 一般人のための、『 人の一生とはどんなものか? 』 」(試案)
                                      
①出生

 人間は哺乳類。動物の一種。生物の一種。
 男女の生殖行為により、女は妊娠し、胎児が母体の子宮の羊水の中で10月10日過ごして順調に成長すると出産する。

②人の法的位置づけ

生物的な出生の時期と法的な出生の時期とは必ずしも一致しない。

胎児の頭部が産道から現れたときに誕生とみるとか、全身が現れたときに誕生とみるとかとらえかたは法律により若干異なりうる。それは、たとえば、民法や刑法ではそれぞれの法益が異なるからである。

人として誕生したと認められれば、民法上、権利の主体になりうる。つまり、財産を所有したり、売買契約などを結べるようになるわけである。これを権利能力という。

③親族

家族や親せきについて民法では親族として位置づけ、1親等、2親等、3親等などと分類している。

④扶養義務

民法では、夫婦や親子などには扶養義務があると定められている。

⑤保育園・幼稚園

誕生した新生児は、1年後には歩行しはじめる。
母乳やミルクから離乳食へさらに普通の食事へと移る。
親が働いている場合は、保育園に通うことが多い。
3歳から幼稚園に通い始める児童も多い。

⑥小学校・中学校

義務教育なので、原則としてすべての児童は、6歳から小学校へ、12歳から中学校へ通う。公立と私立とがある。

⑦高校

義務教育ではないが、かなり多くの生徒が高校に通う。
公立と私立がある。

⑧大学・大学院

高等教育を受けるために、多くの学生が大学に通う。
原則として入学試験に合格する必要がある。
さまざまな学部がある。公立と私立がある。

大学を卒業して、さらに学ぶために、大学院に進学する学生もいる。
修士、博士課程などがある。

⑨就職

 多くのひとびとは生活費を得るためなんらかの仕事に就く。
 企業や国、公共団体等に雇用されたり、あるいは個人で仕事をしたりする。
 やりがいや能力や適性や収入などをもとに職業選択をする。親の仕事を継ぐというケースもあるだろう。

⑩失業・退職

 景気、経営状況、自己都合などの理由で会社を辞めたり、やめさせられたりすることもある。
 失業手当を受給できればいいが、要件に適合しなければならないし、受給できてもその期間は限定的であるので、再就職や事業の立ち上げ活動をするケースが多いだろう。職業訓練を受けたり、ハローワークで就職あっせんを受けたりすることがあるだろう。
 
 定年を迎えるなどの理由で退職する場合は、その後の生活維持が問題となる。
年金だけでは生活費をまかなうのが難しいケースも多いと思われるので、貯金をしておくとかパートで働くとかそのための準備が必要だと思われる。

⑪恋愛

 男女間の愛情が基本形だが、同性間の恋愛もある。好ましくないものという見方もあるが、恋愛の自由を支持する意見もある。

⑫結婚

 法律に基づき届け出を出す婚姻もあるし、届け出をしないまま事実上結婚生活を営む形態もある。

 事実婚の場合、生まれた子供についての親権や認知手続き、扶養義務、相続権など法的により複雑な関係になる。

⑬離婚

 離婚については、すんなり合意して離婚する場合もあり、親権や財産分与や慰謝料などについて争いがあって家庭裁判所に申し立てを行う場合もある。


⑭成人

 何歳から大人と扱われるかは、国より違うし、法律によって異なる場合がある。

 日本では、原則20歳になると大人として扱われる。
 酒が飲め、選挙権を持つ。
 
 なお、法律上結婚できる年齢は、男は18歳以上、女は16歳以上である。

⑮法律

 世の中の紛争防止・解決のために、さまざまな法令が定められている。
憲法を頂点として、民法、刑法、その他多くの法律がある。地方公共団体の定める条例もある。

 憲法は、主として、三権分立ほかの統治機構と基本的人権のことが定められている。象徴としての天皇の位置づけや戦争放棄についても憲法に定めがある。

 財産にかかわること、家族関係に関すること、相続に関することなどが、民法で定められている。

 犯罪と刑罰のことは、刑法で定められている。

 だれしもトラブルに巻き込まれたいとは思わないだろうが、現実にはさまざまな場面で予想外のトラブルに出会うということがよくあるので、ある程度は、法律の知識を持って賢く対処することが望ましい。

 また、普段から注意をしてトラブルを避ける工夫をすることも大切である。

⑯資格

 生活のためあるいは職業のために、多くの資格がある。
 たとえば、運転免許は多くのひとが必要である。

 そのほかよく知られている資格には、医師、看護師、薬剤師、弁護士、公認会計士、教員、建築士、調理師などがある。

 資格をとるには、それぞれの資格ごとに定められた試験に合格したり、実務経験などを満たす必要がある。

⑰社会保険

 公的な健康保険、年金制度には、 強制的に加入させられる。
 保険料の納付義務がある。
 車を持てば、自動車損害賠償責任保険に強制的に加入させられる。

⑱税金

 個人の税金には、国税(所得税など)と地方税(都道府県民税、市町村民税など)とがあり、納付する義務がある。
 勤務先で徴収される源泉徴収と個人で申告する場合がある。医療費などが多額にかかった場合は、税金の一部還付のための確定申告もある。

⑲健康診断・人間ドック

 職場で受ける健康診断や個人的に受ける人間ドックなどがある。
 病気の早期発見のためには受診するのが望ましい。費用にはばらつきがある。

⑳病気やけが

 病気は、軽重いろいろある。薬で済む場合や通院治療で治る場合もあるが、重い場合は、入院手術が必要である。死に至る場合もある。

 けがにも軽重がある。治癒する場合、軽い後遺症が残る場合、重い後遺症が残る場合などがある。

㉑民間保険

 公的な保険以外にも種々の保険はある。
 自動車保険、生命保険、医療保険、傷害保険、地震保険、火災保険など。
個人の必要に応じて活用することが望ましい。

㉒生きがい・やりがい・趣味・娯楽等

 人間はだれも生まれるものであって、自分の意志で生まれてくるものではない。
 はじめから生きがいを感じるとは限らない。
 生まれてから生きがいを見つけることもあるが、必ずしも明確な生きがいを見いだせない場合もある。

 生きがいとは言えないまでも、やりがいのある職業につくということはある。
お金を稼いで豊かな暮らしをするというのも生きる目標としてよくある例だろう。
 
 また、よい相手と結婚をして家族を作ることも幸福を感じるケースとなりうる。
 よき友人知人を得ることも精神的な充実感を与えることがある。

 趣味や娯楽なども精神的な喜びや癒しを与えることがある。
 
 いずれにしても、深刻に考えすぎないことがひとつの選択肢だろう。

⑬死亡

 病気やけがや老衰などによってひとは死ぬ。
 死ねば、医師の死亡証明書をもらって、市役所(区役所)などに行って、埋葬許可証をもらい、墓地等への埋葬をする。最近では、散骨、樹木葬、納骨堂へ納める等の方法を選択するひともいる。
 葬祭業者に葬儀を委託することが多い。
葬儀には、仏教、神道、キリスト教等宗派により坊主、牧師などが念仏、お祈り等をささげるために招かれる。

㉔死にかかわること

①死をどのようにとらえるか?は民族、国家、社会、宗教、習慣等により異なりうる。死ねばなにもなくなるという考え方もあり、生まれ変わるという輪廻思想もあり、死後は、天国や地獄、極楽や地獄に行くという考え方もある。
証明のしようのないテーマと言えるかもしれない。
②遺書を書いておくというもいいことだと思われる。特に、相続財産がある場合などは相続人の間の争いを避ける意味がある。そうでなくても、故人がなにかを書き残しておくということには遺族等にとって意義ある場合が多いと思われる。
③葬儀には費用がかかるので、最低限の貯金や生命保険に入っておくことが望ましい。どういう葬儀にしたいかは一応意思表明をしておいたほうがいいだろう。遺族が望みどおりにしてくれるとは限らないかもしれないが。 たとえば、仏式、神式、キリスト教式など。墓地も、通常の埋葬(墓石)、樹木葬、散骨など。
④生老病死は繰り返される。そして生ある者は死を免れない。生きているうちに、死について最低限の知識を得ることはよく生きるためにも望ましいといえよう。そのためにも、死を含めて人間の一生というものを体系的に、時系列的に整理した教本(テキスト)がまとめられるのが望ましい。死は忌むべきことなので、往々にして正面からとりあげられることが少ない。すぐれたテキストが手に入りやすくなることが望まれる。

㉕その他

 人の一生については、以上のほかにもまだまだ触れるべき事項は多く、すべてを網羅することは困難だ。しかし、そういう方向を目指したテキストを編集するためのヒントを提供するという意図でこの雑文をまとめてみたので、皆さんの参考になればうれしい。






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by nambara14 | 2015-05-23 19:36 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)


42.『 一億人のための人生読本 』(構想)

 1.死というものをいかにとらえるべきかということを考えてみたら、生をいかにとらえるべきかという問題と切り離せないことが分かった。

 そこで、「人間の一生とはなにか?」というテキストを準備する試みをしてみた。ほんの概要だけだが、これまでにあまりなされた例がないと思う。「倫理社会」といった教科でも一部はとりあげられるかもしれないが、とにかく偏見のない立場から、人間の一生というものを総合的にとらえようとする書物はいまだあらわされたことがないのではないだろうか?

2.「人生読本」というのは古臭い言い方かもしれないが、わかりやすいとも思う。
 骨子みたいなものは一応書いてみたが、各論を肉付けするのは一人の手に余る。
 自然科学、社会科学その他多くの分野の専門家が分担して執筆することが望まれる。
 たとえば、妊娠から誕生をへて成長するステップは医学の専門家でないと正確にはかけない。
 婚約、結婚、親子関係、親族、相続などの法律的な問題は、法律の専門家が望まれるし、進学、就職、などもそれぞれの専門家に解説をしてもらうのが得策だ。
 とくに難しいのは、「人間はいかに生きるべきか?」といった哲学的テーマかもしれない。かたよらない記述をすることも困難な仕事だと思う。

3.おそらく、意外とおもしろいのは、職業のバラエティかもしれない。趣味とかスポーツとか旅行とか、いかにも楽しそうな過ごし方があるけれども、人間は職業生活の中に本気で時間を過ごす充実感を感じる場合が少なくないような気もする。もちろん、戦争や事故や災害への対応など、楽しむ余裕などないような職業生活もあるとは思うけれども。

4.いずれにしても、人間の一生を総合的体系的にとらえた教科書のようなものが国民ひとりひとりが所有し読まれるようになるといいと思う。企画から出版までの手間暇と費用をどうするかという問題が解決される必要があるが、とりあえずは、学校用の教材としてまとめるというのも現実的な方法かもしれないが、それも、文科省や教育委員会や学校関係者や父兄や児童生徒が納得しなければ実現はできないだろう。
 わたしひとりの夢みたいなものかもしれないが、そんなことを考える昨今である。 

43.『 犯罪等に巻き込まれた場合の対処法 』

1.だれしも身に覚えのないことで言いがかりを付けられたり、事故にまきこまれて不当な要求を受けたりすることがある。
 損害賠償や刑事事件になれば、弁護士など法律の専門家に相談するのがベストの選択だと思うが、時間と費用がかかるので、しょっちゅう相談するわけにもいかないだろう。
 そこで、さまざまな事件や事故に遭遇したときにどのように対処したらいいかについて、頭の整理をしておこう。

2.犯罪の場合は、典型的なのが、「おれおれ詐欺」だろう。さまざまな注意事項があちこちで提供されているのでそちらを見てもらえばいいと思う。
 犯罪の中でも、詐欺や恐喝は特に注意が必要だろう。なぜならプロの犯罪集団が組織的に素人を狙ってくるので防ぐのが困難な場合があるからである。
 こういうケースでは、まず、知らない人間は信用しないことである。
 次いで、なにを言われても、その場で結論を出さないことである。冷静に考える時間を持つことが重要である。
 そして、多くの場合は、金目当てなので、人道主義や正義や人助けなど立派な大義名分を並べられても、驚かないことがたいせつである。
 うかつに自分の個人情報を知らせるのは避けるべきである。
 住所や電話番号や職業や勤務先や家族構成など、可能な限り知られないように注意すべきである。
 不幸にして、相手に個人情報が知られて、いろいろな言いがかりや脅迫を受けても、決して金を渡してはいけない。一度渡してしまえば、繰り返し要求されるからである。
 どうしても断りきれないときは、迷わず警察に届けるべきである。
 トラブルに介入して利益を得ようとする集団はたしかに存在する。
 そういうことを念頭に置いておいて、普段から慎重に行動することが必要である。

3。多くのひとびとはまともな範囲に入ると言えるが、世の中には犯罪や事故を金儲けのチャンスととらえて罪のないひとびとにつけいる悪者もいる。性悪説の立場に立つかどうかは別として、人間が日々生活を送っていくには予想外の事件や事故に
巻き込まれることがあるのは、残念ながら現実である。
 さまざまな事件・事故のケースを想定した対処法を学んでおくことはいざと言うときに役に立つものと思われる。 

44.『 接し方 』
                                    
 人間は複雑怪奇であるが、ある程度の性向はつかめる。たとえば、どんなふうに接すれば前向きに受け入れてもらいやすいかどうかというようなことである。
 批判的な口調で、「いつも遅刻してくるのはけしからん。今度こそ時間を守れよ」と言われたら、「事情も知らずに一方的に非難するって理不尽だ。やる気がなくなる」ということになりかねないが、「いいんだ、いいんだ。でも、どうしても時間前に来なくちゃいけないときは頼むよね」とか言われれば、「悪かった。もう遅刻しないようにしよう」という気になりやすいだろう。
 あるいは、「またミスをしたな。何度言っても治らない。どうしようもない。おまえみたなのはいらないよ」とか露骨に叱られれば、「だれだってミスはする。自分のミスは棚に上げて一方的に叱りつけるのは納得がいかない。もう協力してやらないぞ」と思うだろう。しかし、「ここのところこうしたらどうかな?それでよければ直しといてくれる?」と言われれば、「あ、そうか。単純ミスだ。こんなミスはもうしないように気を付けよう」と思うだろう。
 また、「ちょっとお願いがあるんですけど、聞いてもらえますか?実は、今度この町内の住民有志で街をきれいにする活動をすることになったので、お時間があればお手伝い願えますか?」と言うような誘われ方をすれば考えてみようという気になるかもしれないが、「今度この町内の住民有志で街をきれいにする活動をすることになったので、各家庭最低一人は参加してくださいね」というふうに言われれば、反発を感じる度合いも増すだろう。
 どんなふうにアプローチしても断られる場合もあるだろうが、明らかにアプローチの仕方が悪くてひとの気持を否定的にさせるケースも少なくないと思う。
 相手の性格や考え方を可能な限り考慮して、そのときの状況や気持ちを察して、タイミングよく話を持ちかければ、オーケーしてくれる可能性は高まると思う。
 心理学など人間の気持ちや行動を学問的に分析する知見もあるが、多くの場合は、個人の経験や知識を踏まえた「接し方」が大きなカギとなっているような気がする。
 人間関係において、さらにはもっと大きな組織対組織の関係においても、接し方の工夫というのは意外と重要な要素だという気がする。
 
45.『 価値観の整合性について 』

1.価値観はひとそれぞれだが、あるひとの価値観は論理的に整合性のある
価値観だろうか?それともさまざまな矛盾をはらんでいるものだろうか?
厳密に言えば、完全に整合がとれているはずがないが、おおむねひとつ
の方向性を持っているから「価値観」というとらえ方ができるのだと思う。

2.わかりやすくするために、保守と革新という対比をしてみよう。
 典型的な「保守」のイメージは、「国家の安全をたいせつにし、ひとびとの人権を尊重し、可能な限り自由競争のもとで経済活動その他の社会活動を行い、社会弱者を救済し、豊かで充実した人生を送りうる国家社会を目指す」のに対して、
 典型的な「革新」は、「国家権力による規制をできるだけ抑制し、勤労者等立場の弱い者の保護を充実することを重点に政治経済社会活動を展開することにより、国民生活の安定を図り、平等で格差の少ない国家社会を目指す」ということになるだろう。

3.各人が日々の生活において、どのような判断をし、行動をとるかは理論
 通りにはいかないわけだが、たとえば、選挙において保守党に投票した個人が、その主要な政策について真っ向から反対するとしたら、矛盾した行動だと言えるだろう。(日米安全保障条約、原発再稼働、消費税引き上げ等についての賛否とか)

4.価値観についてひとそれぞれに違いがあることは当然であり、その違い
を相互に認めながらいかにうまく社会を営んでいけるかが重要な課題であると思うが、価値観に整合性のない人物をいかにとらえて、いかに接するべきかというのは悩ましい問題である。精神的な病気という診断を受けている人物ならそれはそれで対応する方向が見いだせるだろうが、そうではない場合は、どうしたらよいだろうか?結論はかんたんには出ない。

5.自分の付き合いの範囲でもそういうタイプの人物がいるので、このよ
うなテーマをとりあげてみた。引き続き、対処法について考えてみたいと
思っているが、なにかよい知恵はないものだろうか?

46.『 価値観の変更について 』

1.価値観はひとそれぞれであり、それら異なった価値観を持つ者同士がい
かに共存共栄できるか、が重要なテーマであると思うが、ひとつ考えておく
べきこととして、価値観の変更ということがあると思われる。

2.かつて転向が問題とされたことがあるが、そのような思想的な意味合い
だけではなしに、日常におけるさまざまな事柄についても意見が変わるとい
うことがある。
たとえば、きのうまでご飯が好きだったのに今日になってパンが好きだと言ったり、派手な色の服は嫌いだと言っていたのに急に原色の服を着るようになったり、演歌の大ファンだったのがクラシックの愛好家に変わったり、飛行機に乗るのが怖いと言っていたのが喜んで乗るようになったり、保守的な政党から革新的な政党を支持するようになったり、ゴルフ嫌いがゴルフきちがいになったり、恋愛結婚した相手を嫌いになったり、約束をすぐ破ったり、さまざまなレベルで好き嫌いや賛否が変化することがある。

3.はたして、そのような変化をどうとらえたらよいのだろうか?
 おそらく個人レベルでの変化は特段問題とする必要はないだろう。だが、な
んらかの責任ある立場での変化であると事情は異なるだろう。
 たとえば、食べ物や着るものや趣味が変わるのは別に他人に迷惑はかけな
いので責任追及の必要はないのに対して、金品をプレゼントするとかだれか
に紹介するとかの約束を反故にされるのにはクレームをつけてもいいと思わ
れる。宗教を突然変えて冠婚葬祭の流儀が変わるのには大きな抵抗が予想さ
れるだろうし、思想信条が大きく変われば周りは戸惑うだろう。
 組織の幹部が経営や運営方針をころころ変えれば組織の内外の信用を失うことになるだろう。
 契約内容にしたがった行為を怠れば契約不履行を問われるだろうし、損害賠償を請求されるだろう。

4.個人の価値観は通常は大きく変化しないと考えられるが、実際には、ほ
とんど変わらない場合から大幅に変わる場合まで、さまざまな場合があると
見たほうがよいだろう。
 そもそも人間は右翼だとか左翼だとか誠実だとか不誠実だとか賢いとか愚かだとか単純にレッテルを貼れるものではないのではないだろうか?日々気分次第でなにかを選択しているという側面もあるという気がする。
 そう考えると、「価値観」というのは、論理的で整合性のある体系として形成されるというよりは、考え方や行動のおおよその傾向としてとらえたほうがベターかもしれない。
価値観を、矛盾や変更を孕んだ思考や行動の傾向というふうにとらえれば、価値観の変更についていたずらに厳しい批判を浴びせる必要もなくなるし、現実の人間の価値観に近いものとなるだろう。
もちろん、価値観は可能な限り論理的で整合性がとれているべきであるという見方を否定する必要はないし、自分の価値観を磨き続けるという姿勢をとることを慫慂すべきであることに変わりはない。 
 
47.『 良識ある人 』  

1.世の中では日々なにかしらの事件事故が起きる。個人レベルでもいろいろな出来事が発生する。その都度なんらかの 状況判断と行動を求められる。自分が信頼できる判断と行動をする人間がいると頼もしく思える。

2.社会にはさまざまなレベルの判断と行動が混在している。
  たとえば、自分自身の日常生活でのこまごまとした事柄、家族にかかわるさまざまな事柄、隣近所との関係、学校や会社に おける行動、買い物に係わる決断など自分に身近な事柄から、テレビや新聞で報じられる事柄に対する自分なりの見方などある 程度以上自分と距離がある事柄まで、千差万別の判断と行動がありうるが、それらのかなりのパーセンテージにおいて的確な判 断であり行動であると認められる人物がいれば安心だろう。

3.特に、重要で判断が困難な問題について明確なアプローチの仕方を示してくれるような人物は、社会的な意味でも重要な 役割を果たしていると言えると思う。
  たとえば、安全保障、原発、防災、環境保護、社会保障、経済成長、財政金融、教育研究、その他国家的な課題についてなら、賢明な政治家や行政官、有識者、経営者、などに期待が寄せられるし、研究開発なら研究者や学者に、進路指導なら学校の先生や先輩や家族などに、病気なら医師に、法律的なトラブルなら弁護士などの専門家に、住宅を取得するなら不動産屋に、買い物をするならデパートや専門店などの売り場の店員に、その他さまざまなケースについて知識や経験や利害関係を有する人物が 期待されるだろう。

4.ある事柄について、さまざまな意見がありうるわけだが、先入観なしに現実を見つめて客観的な立場に立つことに努めて、可能な限り中立的な立場から結論を出そうとする姿勢を持つような人物を尊重することが大切だと思う。

5.マスコミをはじめとして、世の中には、批判的な言説を繰り広げることが存在理由である立場もあるので、中立的な立場の人物を見つけることはなかなか容易ではないが、丁寧に探していると、有名無名を問わず、世の中には信頼に足る見方ができるレベルの人材はたしかに見いだせると感じる。
  しばしば、過激なアジテーターに世論は振り回されがちだが、人々は、常に冷静に客観的に中立的に論理的に利害関係や好き嫌いの感情を離れて、物事を観察し判断し行動する態度こそ求められているのではないだろうか?
  そういう人物こそ『良識のある人』と呼びたいと思う。

48.『 結婚について 』

1.最近、結婚しないひとが増えていると言われる。統計的な数字もあるが、たしかに、自分の身の回りでも、娘が結婚しないで家にいるという話はよく耳にする。どうしてなのだろうか?

2.ひとそれぞれの事情があるだろうから、一概にこうだとは言い切れないと思うが、一応考えられる理由を挙げれば、

①経済的に自立しているので気の進まない結婚はしなくてもいい。
②結婚しないことへの社会的なプレッシャーが従来より弱まった。
③仕事が忙しく結婚する余裕がない。
④昔のようなお見合いの制度がなくなって、相手を見つける機会が減った。
⑤自由恋愛から結婚にこぎつけるのが一般化しているが、恋愛に対する考え方や、セックスのとらえ方や、恋愛への積極性の程度等にばらつきがある。
⑥仕事以外の生活にも楽しみの選択肢が増えて結婚への切実な欲求が小さくなった。
⑦低所得や不安定な職業についている者が多く、結婚生活が成り立ちにくい。
⑧社会的な風潮として、恋愛や結婚にがつがつしたくないという者がふえた。(いわゆる草食系)
⑨結婚にしばられたくないという自由志向の者がふえている。

などが考えられる。

3.人口減が懸念されており、出生率を高めるべきだという指摘もあり、そのためには恋愛のきっかけづくりの支援や結婚促進策などの公的な施策も講じられつつあるが、結婚は本来当事者の自由意思で決められるべきものであって、外的な誘導というのはいかがなものであろうか?
それはともかく、結婚は法的な位置づけも厳然としてある。
民法でも、婚姻に関する規定があり、税金や社会保険など公的な制度は結婚したカップルを法的に特別な関係ととらえている。子供もの取扱いについてもまた、嫡出子とか非嫡出子というように婚姻関係にあるかないかで差を設けている。
最近、婚姻届が出されていなくても、事実上婚姻関係と同様な関係にあるカップルについて、婚姻関係に準じた取り扱いをしようとする流れもあるようだが、社会の変化と法的な対応はこれまでも常に後追い処置であり、妥協の産物であってきたので、これからもそのような推移が予想される。先進国では、婚姻届の有無に関係なしに、公的な取扱いに差を設けていない国もあるようだが、日本はなかなかそうはならないような気がする。

4.結婚は、多くの人の人生にとって最重要事であると言えるだろう。
できれば、いい相手と出会い、結婚し、子供をもうけ、末永く結婚生活を続けられるのが幸せだと言えるだろう。
その意味で、結婚について、冷静に考え学ぶ機会があってしかるべきだろう。
多くのひとびとはこれまで、自分の力に加えて、いろいろなひとの支援を受けながら、良縁を見つけてきた。これからも、自力に加えて、社会的にバックアップする仕組みが整備されることは有意義だと思う。
結婚相談所とか出会いサイトとか出会いを促進する場はあるにはあるが、もっと効果的な仕組みや基礎的な情報を提供する仕組みがあってもいいような気がする。
人間はだれでも一組の男女から生まれるという基本を忘れずに、結婚を考えたいものだと思う。

49.『 理性と感情について 』
                          
1.人間は、他の動物に比べて脳の発達が著しい。知的な要素が格段に発達している。脳幹というような動物的な本能をつかさどる部位に加えて皮質といった知性をつかさどる部位があって、人間に複雑な思考や行動を可能とさせている。

2.人間関係の難しさは、そうした脳の構造と機能によるものと考えてよいだろう。「論理的には了解しても、感情的に反発する」「頭ではわかっても、気持ちが納得しない」「いい人だとは思うが、好きにはなれない」というような人間の心理はしばしば観察される。

3.「分析と総合」と言うように、いくら人間の臓器を細分して調べても、全体として人間の身体が機能していることを離れては有効な研究にはならないわけである。理性や知性と本能や感情とはひとりの人間のいろいろな働きを分類したものであって、実際には不可分のものかもしれない。

4.仕事上の人間関係なら、感情をコントロールしながら、業務のために論理的な行動をしようという約束があるわけだが、個人的な付き合いとなると、そういうルールはない。
 友人関係も馬の合う同士が親しくなったりなにかのきっかけで離れたりもする。
 恋愛関係ともなれば、好き嫌いとか愛憎といった微妙な分野に係わるので、さらにややこしい側面がる。

5.結婚は、恋愛結婚、見合い結婚、親が決めた結婚、政略結婚など歴史的、地理的、社会的な相違や推移によってさまざまな形態が存在してきた。
恋愛結婚についてみると、好き嫌いというような不安定な感情をもとに結婚という法的社会的関係を固定させるというところに、元来危うさが内在しているとも言える。

6.結婚する際に考えておくべきなのは、一時の感情で結婚したとして、永遠に愛し続ける保証などどこにもないのだから、愛情が失われたら、どうするのかをある程度覚悟しておく必要があるだろうということである。子供ができていればなおさら問題は深刻である。子供のために離婚は思いとどまるのか、離婚せざるを得ないのか、あらかじめ決めておくことは難しくても、そういう選択を迫られることがありうるということは考えておくべきだろう。

7.以上、最悪のケースを想定して話をしたが、現実には、多くの夫婦が子供とともに幸せな家族生活を送っているのも事実である。いろいろな可能性を念頭に置きながら、決断をすることになるが、先のことはなかなか見通せないので、なにか起きたときにその都度よく考えて行動するということしかありえないのかもしれない。それが、理性と感情という矛盾に満ちた機能を負わされた人間の宿命なのかもしれないが、だからと言っていたずらに悲観する必要もない。ちょっとした気の持ちようで人間の気持ちは明るくも暗くもなり得るのだから。
 
50.『 希望 』

1.人間についてさまざまなことが研究され解明されたことも多いがまだまだ未解明のことも多い。そういう不完全さは人間につきまとう永遠の条件だろうから、あいまいな情報に基づいて自分のかけがえのない人生を送っていくのが人間の宿命である。理屈でわからないことは、わからないままにしておくか、経験的な情報を参考にして一応の判断をするしかないだろう。

2.人間の一生は、気が付いたときは生まれていて、死ぬまで否応なく生きざるを得ないというものだ。
生きがいは生まれながらに与えられることはなく、自分で見つけ出すしかないものだろう。
人生には多くの艱難辛苦が待っているが、汝を玉にしてくれて、生きる歓びを与えてもくれるだろう。
喜怒哀楽,人間万事塞翁が馬、生老病死、禍福はあざなえる縄のごとし、等々の言葉によく表されているように、人生は悲観するだけでもないようだ。
いろいろな境遇や立場の人間がいるが、それぞれの状況に応じた「希望」というものがあればいいと思う。

3.たとえば、事故で身体に重い障害を抱えているひと、末期がん患者など重い病気で死期が近づいている人、様々な事情で路上生活を余儀なくされている人、わけあって死刑判決を受けて服役中の囚人、などなかなか希望を見出しにくい状況に置かれた人々もいるが、そういう人々にもなんらかのきっかけで希望が持てたらいいと思うし、それほど深刻な悩みを抱えていない人々であっても、うつ状態になって、前途を悲観するということはあるだろうから、そういう苦しみから解放されて希望を持つヒントでも与えられれば救われるだろう。

4.残念ながら、小生は精神科の医師でもないし、宗教者でもないので、「希望」を持つ方法を示すことはできない。ただ、ひとつだけ、言えるとしたら、「希望」は自分ひとりだけでは見いだせないということである。希望は、他者との関係においてしか生まれてこないものだと経験的に思う。不完全で欠点も多く持っている人間だが、そういう人間同士が触れ合うことによって、喜びの感情は生まれるし希望も湧いてくると思う。よくもわるくも人間は社会的な存在であり、動物であるから、人と人とが接し合って脳を十分に機能させることで心身のバランスを維持できる性質を持っているように見える。

5.要するに、人間が「希望」を持ち続ける秘訣は、他人と付き合うことにこそあるということではないだろうか?








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by nambara14 | 2015-05-23 19:30 | 論考「価値観の研究」第三部 | Comments(0)