価値観の研究第二部(その9)

41.デュー・プロセス

 金融危機への対策が、内外で鋭意進められる中で、できるだけ早い景気回復が望まれるところであるが、昨今の日本国内の論議で気がかりなのは、法律的な議論が感情論や立法論と混同されていることだ。
 
 たとえば、「派遣切り」が大きく取り上げられているが、マスコミをはじめ、「けしからん」という論調が目立ち、経営者側は口を閉ざしているように見える。
 労働法違反であれば、法律違反としての責任追及が可能だが、適法であれば、社会的・道義的な責任を問うということになる。これはある意味で両刃の剣である。法律を守っていても、多数の世論の声の圧力によって企業が過剰な労働者をかかえざるをえなくなり、倒産の危機に瀕する事態もありうるが、その責任はだれもとれないはずだ。
 
 雇用を守るべきだという主張は正論であり、だれも反対はしない。問題は、企業が経営上雇用を継続できなくなったときに、どのように雇用対策を講じるかだ。今の国会でも、失業手当の支給基準を緩和する措置がとられつつあるが、結局、私企業が手を負えなくなったときに救済できるのは公的な機関しかない。国とか地方公共団体とかである。
 
 そこで、議論は、法律と予算に移る。そして、国会や議会での審議がキーポイントとなる。国会議員や県会議員などの代表者が多数決で物事を決めるという仕組みだ。
 ある制度の改正案が提出され、賛否両論があれば、投票によって結論が出る。
 このように、どんな法律や予算も、適正な手続きを経て決められるというところに、民主主義のひとつの特色があり、美点がある。
 
 テレビの座談会などでは、評論家などがそれぞれの意見を述べるが、それらの意見を踏まえて、法律改正案や予算案を提出できるのは、政府や議員などに限定されている。
 
 現行法に問題があれば改正すべきであるが、改正されていないのに、救済しろというのには無理がある。適正手続き(デュー・プロセス)というのは、声が大きいグループでなくても、国民が平等に扱われるように配慮された制度だからである。

42.言葉と行動

 言葉と行動は必ずしも一致しない。それには、さまざまな理由があるだろう。政治的、経済的、社交的、個人的、故意、過失等々。
 
 人間は、いろいろな場面で、言葉を求められる。沈黙は金だが、言葉がなくては、社会は成り立たない。銀でも銅でも鉄でもやむをえない。

 言葉は、人間社会の不可欠の多目的手段である。

 よって、古今東西、言葉は生まれ、作られ、変化し、洗練され、ときには乱れ、消滅する。紆余曲折はあったにせよ、雄弁術やレトリックや文章能力は常に磨かれてきた。

 言葉は、ひとの知情意に訴える。理性と感性に訴える。こころを揺さぶる。

 最近、オバマ大統領の就任演説が話題になっているが、それを見ると、言葉がどのように選ばれるかがよくわかる。建前と本音が見て取れる。だれでもそうしているのだが、オバマの場合は全世界の注目を浴びるので、特に念入りに準備されたと思われる。

 言葉は、求められる。時と場合によって、求められる言葉は異なる。オバマが本当に考え、思い、したいと思っていることと、かれの演説には違いがあるはずだが、だれもそんなことは問わない。

 金融安定化対策、景気回復や雇用対策、安全保障、軍事戦略、世界平和やイスラム世界との対話、環境対策など、望ましい言葉が連ねられている。

 まず、その表現の仕方と言及されなかった言葉を総合して、公式の解釈が試みられる。私的な領域に踏み込むことはその次の段階だが、大統領にとって、純粋な私的領域はきわめて限定的だろう。

 演説の字面を仔細に見てみれば、ネガとして見えているものがある。軍事同盟、人種差別問題、宗教問題、民族問題、政治体制の違い、国家間の友好・敵対関係、経済問題、金融問題、、貿易問題、人権問題、領土問題、伝統文化など多くのタブーや利害関係を内包する問題について、なにをコメントしなかったかを点検するという作業を通してある程度明らかになるだろう。

 人間社会では言葉が大きな力を持つ。しかし、その使い方には、複雑な暗黙のルールがあることを忘れてはならない。

 そのうえで、行動と言葉を常に比較し、レビューをしていく必要がある。正義や平和を標榜することだけでは本質的な解決にはならない。

 戦略を具体化する戦術が必要だ。そして、常に、公式の言葉の背後にある、「本音」を見定め、自分なりの「非公開の言葉」によって、現実を見定め、理解し、自分の言葉を見出していき、それに基づいた行動をするべきである。

 そのようなステップをくりかえすというダイナミズムの上に、可能な限り、最善の選択がなされると思う。

 このステップは個人レベルでも集団レベルでもさらには国家や国際関係においても共通のものがあると思う。

 「建前と本音」というのは言い古されたことながら、あらためてその重要性を認識すべきと思う。
 
 
 私見では、麻生内閣はがんばっていると思う。しかし、適正手続きの結果として、麻生内閣が退陣せざるを得なくなれば潔くその結果を受け入れるべきだと思う。そして、適正手続きによって、巻き返しを狙う運動を開始すればいいのだと思う。
 
 賢明な日本国民が、冷静に法律論をかわすこと、及びそのことを通じて的確な結論が得られ、わが国の重要な政策が実現することを望みたい。現下の危機的な状況は、感情論に流されている場合ではないと思うのである。解散総選挙もいずれ行われるだろう。ひょっとすると、民主党が政権をとるかもしれない。そしてまた、自・公がとりかえすもしれない。いずれにしても、適正な手続きによって、公明正大な議論を尽くして、最適の政策が決定され、実施されれば、遠からず、景気は回復し、雇用や生活が安定すると信じたい。


43.『生きがい』について

(1). なにを今更「生きがい」を取り上げるのかと疑問に思う方もいるかもしれない。
しかし、やはり、「生きがい」が、人間にとって最大の問題であることは変わらないのだとあらためて思う。

 なぜなら、どんな聡明な人間でも、自分の意志でこの世に生まれてきたものはひとりもいないのだから。生きがいは常に「あとづけ」なのである。

 そして、「生きがい」には、常に「死にたい」とか「死にがい」という相反する欲求や価値観がついてまわる。

 死ぬことを勧める教えは少ない。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があるが、これも一種の反語的な表現とも言えるだろう。つまり、「立派に生きよ。しかし、死ぬべきときが来たら、潔く死ぬべし」というような意味合いということで。

 もし、「死ぬこと」を勧めるような社会風潮が広まれば、国家や社会は危機に瀕するだろう。だから、古今東西、生きることの尊さを強調した教えは多いが、自発的に死ぬことを慫慂した教えは少ないのだろう。

(2).これまでに、多くの宗教書や哲学書や道徳書などにおいて、生きることと死ぬことについて述べられてきたはずである。膨大な書物のすべてに目を通すことはできないが、「『生きるということ』には価値があること」を前提に、さまざまな教えや教訓が示されてきたのだと思う。「どのように生きたらよいか?煩悩を去るにはどうしたらいいか?現世とはなにか?来世とはなにか?どうしたら天国や極楽にいけるのか?」などなど。

 「生きることには目的などないのだ、生まれてきてしまったので、やむをえず死ぬまで生きるしかないのだ、」などと言えば、反社会的だというレッテルを捺されて、奇人変人扱いされるのが関の山だろう。

 ところで、今日(平成21年3月12日)の読売新聞朝刊の「新生活応援特集」という広告のページに、谷川俊太郎と糸井重里の対談が掲載されている中で、谷川が、「『生きることの目的は?』という問いに対して、ダライラマは『幸せになることだ』と答えたこと」に触れ、さらに、糸井が、「吉本隆明が、『一番理想とする自分と、自分との対話がとても大事だ』といっていること」を紹介している。

 なるほどと思うが、これらも、すべてひとつの生きるための知恵であり、経験であり、ひとつの価値観だと言ってよいと思われる。

 「人間はなんのために生きているのか?」という問いは、実は科学的に答えようがない性質のものかもしれない。あるいは、DNAの分析が進めば、人間はとにかく生きたいという欲求を遺伝子に組み込まれてうまれてくる、なんてことが証明されるかもしれないが、当面は、確実な論拠は得られないだろう。

 とすれば、死のうとする人間に対して、死ぬべきではないとどのように説得することが可能か?戸惑ってしまう。

 とりあえず、生き続けよう、と思って、それ以上は深く追究することはやめて、生きることを選んだ延長戦上で物事を考え行い、なんとか死なないように努めながら、どうにも避けられなくなったら、運命の命ずるままにこの世にお別れをするというのが、現在における人間の一般的な生き方となっているのだと思われる。

 いまのところ、それ以上の答えは得られないような気がしているが、はたしてどうだろうか?













44.《 ひとはだれも死をまぬかれない 》 という認識  

  
 (1). 人間はだれも「生まれる」のであって、そこには選択権はない。あとは、死ぬまでどのように生きるかが残されているだけだ。

 生きることが耐えられなくなれば、自らこの世に別れを告げる選択もあるが、多くのひとびとは死にたくないという思いが強く、病気になってもなんとか生き延びたいと願うように見える。実際、わたしにしたところで、できれば長生きしたいと望んでいるのが正直なところだ。

 しかし、いつかは死ななければならにことを人間は知らされる。動物はどんな意識や認識をもっているのかよくは知らないが、人間のように明確に死を認識し、死をおそれ、しかし、最後にはそれから逃げられないという恐怖感を明確に持つことはないように見える。
 動物も、屠場で、殺されることを察知してじたばたすることはあるようだが。

 近年、DNAや遺伝子の分析が進み、脳や内臓の機能など、細胞レベルでの研究成果によって従来わからなかったことが革命的な飛躍を遂げて明らかになっているといえよう。

 空腹を感じて食欲を感じて食物を食べる。排泄する。栄養のバランスや運動や精神的な安定が健康に重要なことも指摘されている。医学の進歩で、病気の予防や早期発見、早期治療が可能になり、平均寿命も大きく伸びている。

 しかし、まだまだわかっていないことも多いといわざるをえない。
 生命の神秘がそう簡単に解明されるはずはないだろう。身体の機能もさることながら、やはり、精神作用については、まだまだ初歩的な段階にあるといえないだろか?

 そもそも、動物的な本能に基づく活動以外の、人間の精神的な活動というのは、なにに基づいて行われるのだろうか?

 遺伝子のなかに、どんな行動をとるべきかという指令装置が組み込まれているのか?
「なにをすべきか」とか、「なにに価値を見出すか」というような精神作用は一体「なにによって決定されるのか?」あるいは「絶望して死を選ぶ」というようなプロセスはどうなっているのだろう?これから長い時間をかけて徐々に明らかにされるだろう。


(2). では、現時点では、われわれはどう考えたらよいのか?
 絶対的な処方箋はないとしかいえないだろう。
 このことについての価値観は相対的なものに過ぎず、「ひとりの人間の一回限りの生」という絶対性につりあう「絶対的な価値観」は確立されていないというべきだろう。

 試みに、ひとつの生きることへの価値観を挙げてみよう。

 ① 「ひとはだれも死を免れない」ことを認識して、死ぬまでは悔いのない人生を送る。
 ② どうせ死んでしまうにせよ、生きている間には、やらなければならないことややりた
 いことがある。それをひとつひとつ片付ける。
 ③ 先人が残した事物や思想や文化を基礎に自分なりに取捨選択する。
 ④ 信頼できそうな考え方や人物を見出し、それらを尊重して、自分の人生に生かす。
 ⑤ 自分の経験から、喜びや楽しみの体系を作ってみる。「好きな人間、好きな食べ物、ファッション、住まい、仕事、趣味、芸術、芸能、スポーツ、娯楽、旅行、お笑い、映画・演劇、歴史、戦争と平和、地理、政治、経済、金融、科学技術、医学、産業、雇用、外交その他さまざまな分野についての自分なりのとらえ方、関心度などなど」を整理しておくことは有益だと思う。

 たとえば、ちょっと欝っぽくなったときに、自分なりの対処法がわかっていると楽だろう。ひとつの例を挙げれば、こんなのがある。

① 十分寝る。
② 好きな音楽を聴く。
③ 散歩する。
④ 軽くワインを飲む。
⑤ お笑い番組を見る。
⑥ 親しいひとと話をする。
⑦ 鼻歌を歌う。

 こういう便法もひとそれぞれだろうから、自分なりのあつらえのやりかたをもっていると便利だろう。

 そして、自分だけでは処理しきれないと感じた場合は、早めに、精神科の医師に相談することが得策かと思われる。

 医学が進んだように見える現代でも、まだまだ手探りの状態が続いていると見たほうが正確だと思う。生きることと死ぬことのはざまで不安定な人生をいき続けるすべての人間のために、「暫定的な価値観」であっても、すこしでも生きることを前向きにとらえさせてくれる「価値観の体系」を構築することはたいせつだと思う。とりあえず、ちいさな、リストを作ってみることからはじめると手軽ではないかというのがわが個人的な経験から出てきたアイデアであるのだが・・・。

 卓越した精神科や脳科学の専門家もおられるので、そういう方々からアドバイスが頂戴できたらと切に願うものである。


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by nambara14 | 2009-09-14 20:09 | 論考「価値観の研究」第二部 | Comments(0)