四角な思い=雑感
2009年 08月 12日四角な思い
はじめは詩を書いた。やがて中断した。小説が書きたいと思った。だがそれはなかなかの難物だった。
長い中断ののちに詩を再開した。気楽に書くようになったせいか、量産するようになった。
次に、短歌や俳句を書いた。それはほかの同時代人の書くものと異質なもののような感じがあった。
その後ブログが出現して、今は、詩、俳句(のようなもの)、短歌(のようなもの)、エッセイ・評論を発表することができている。
小説は、やっと自分なりの書き方が分りかけてきたが、まだまだ修行中の身である。
ぼくは、生意気かもしれないが、文学のジャンルが細分化されすぎていると感じている。それで、文学なら何でもやる「総合文学者」を標榜してみている。質はともかく、扱うジャンルの広さだけをとれば、多分、日本一だろう。
なぜそんなことを目指したかと言えば、ヨーロッパでは、宮廷詩人といえば、オペラの台本作成まで行っていたらしいので、短い詩しか書けない詩人はどうも本格的な詩人ではないのではないか、というような思いを抱いたことに理由がある。
しかし、いざ、「総合文学者」を目指してあれこれ試みてみると、なかなか簡単な道ではないことも実感している。それで、大風呂敷は広げてみたものの、実際は、その時々に書きたいものを書くようにしている。自縄自縛はあほらしいので。
自分にとって、やはりホームベースは詩であるので、これは特別な愛着を感じている。
率直に言って、ぼくが真剣に目を皿のようにして読んでみても、最近書かれた詩の中には、ごくわずかしか心を揺さぶるものはないように見える。しかし、わずかでもそういう詩が生まれていることは救いだと思う。
ぼくとしては、生意気なことを言う以上、自分が書く詩はそれなりのレベルでなければならないと思ってはいるが、はたして実際はどうか、それは読者に判断していただくしかない。
短歌と俳句は、まだまだ門外漢のような意識を持っている。
なぜ今書かれている多くの短歌や俳句がぼくの心をとらえないのか。
ぼくが書く短歌や俳句(のようなもの)は、おそらく、その裏返しとして、多くの歌人や俳人からは短歌や俳句として認められないような気がする。感覚や用語がかなり違っているから。
それでも、なぜか気がつくと五七五のかたちの作品を書いてしまっている自分に気づく。これが日本の文学の伝統なのだろうか。
ともあれ、日本人として、日本語で文学をやりつづけている者のはしくれとして、常に、文学にとって「現代的」とはなにかという問いかけを忘れずに、文学に向っていきたいと思っている。冷徹な洞察力と高度な言語技術を常に維持向上させることを自分の課題としながら、全力をあげて文学に取り組んでいきたいと思っている。
by nambara14
| 2009-08-12 15:29
| 五七五系短詩
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